四月のバカ

大枝 岳志

春のバカ

 小学生の頃、僕は近所にある公団住宅の最上階へ登るのが何よりも好きだった。バカと煙はなんとかっていうけど、あの言葉は本当にその通りで僕はバカなまま思春期を迎え、やがてバカなまま大人になった。返しきれないほどの借金をギャンブルで作り、いよいよ首が回らなくなった日に僕は一か八かで親を頼り、残り少ないそのスネをかじることにした。

 借金の立て替えを頼んでみると年老いた両親は項垂れたままの頭をポリポリと掻きながら、気まずそうに僕に数枚の書類を差し出した。


「え、何これ」

「いやぁ、どうもならんかった。ここまで踏ん張っては来たんだがなぁ」


 父はそう言ってすっかり薄くなった白髪混じりの頭を掻き続けていた。蛙の子は蛙。トンビがタカを産めるはずもなく、借金を肩代わりしてもらうつもりだった僕は差し出された借用書を前に呆然とするしかなかった。

 なんと、両親も僕に借金の肩代わりを申し込むつもりだったらしい。家族三人、同じ家で暮らしているのに互いの経済状況を分かっていなかったのだ。

 ふと父の薄い頭に目を向けてみると、ポリポリと掻いてる場所が赤くなり始めていた。それをぼんやり眺めながら、梅みたいな色だと感じていた。


 パチンコ。競艇。競馬。競輪。それのみに止まらず、我が家は代々博打に呪われた家系だった。

 祖父は馬のせいで代々所有していた広大な土地を手放し、家を借金のカタに持って行かれた。父は大のパチンコ狂いで我が家の本棚は必勝ガイドで埋め尽くされているし、僕はなけなしの金と暇さえあれば競輪場や競艇場に入り浸っている。父も僕も、まともな定職についたことは一度もなかった。おまけに母も御多分に洩れず、スロット狂いだ。


「スロットはね、ボタンがビンビンして画面がバリバリするから好きなの」


 と、良くわからないことをしょっちゅう言っている。


 テーブルの上に並べられた借用書を三人で覗き込みながら煙草を吸っていると、諦めを通り越して段々愉快な気分になって来る。ふぅっと浅く煙を吐いた母が笑っている。


「食器棚と本棚と、それから冷蔵庫と洗濯機。まとめて査定してもらったのよ。中古屋さんで査定しに来てくれるサービスあるでしょう?」

「あるけど、お金になりそうだったの?」

「それがね、「カタが古過ぎるんでトータルすると逆に払ってもらうようです」って。笑いながら帰って行ったわよ。あー、恥ずかしかったわぁ」


 母がそう言って額に手を当てると、父は冗談のつもりなのか、軽い口調でこう言った。


「母さんがあと三十年若けりゃあなぁ、スナックでもなんでもやらせて稼いでもらってたんだがな。もう今さら無理か。ほら、熟女なんとかとか、あるだろ」

「熟女ったって限度あるわよ。こんな萎びたババアじゃ門前払いもいいとこよ」


 競艇場から帰って来て食器棚が何故か空になっていたのはそれが原因だったのか。あぁ、それでもお金にならなかったんだなぁ。そんな風に思いながら家の中をぐるりと見回してみたけれど、お金になりそうなものはこれといって一つも無かった。

 古いテレビ。首の曲がった扇風機。埃が噴き出るエアコン。観光地で買った提灯のコレクション。本棚に置かれたまましばらく開いてない家族のアルバム……アルバム。それを眺めているうちに、僕はふと思いついた。


「父さん、カメラは?」

「カメラなぁ。あんな古いの売れんだろう」

「まだ動くんでしょ?」

「まぁメンテナンスはしているが、どうだろうなぁ。果たして欲しがる人がいるのか……でもなぁ、買った時は日本でもだいぶ珍しいカメラだったんだ。イタリア製のカメラだぞ。それで母さんのことを初めて撮ったんだよ。なぁ、母さん覚えてるか?」

「覚えてる。写真撮った場所ね、大井競馬場よ? もっと洒落た所に連れて行って欲しかったわよ」

「いやぁ、あの少し前に万馬券を当ててなぁ。興奮したなぁ。何を買って良いかも分からなくて一番高いカメラをくれって写真屋さんに行ったんだ」


 僕はふーんと聞いていたけど、ちょっとした疑問が浮かんでこんなことを尋ねてみた。


「ねぇ、何でカメラだったの? 車とかでも良さそうじゃない」

「うん。おまえが産まれるって知ったからな。だからカメラを買ったんだ」

「へぇ……僕、愛されてたんだ」 

「あぁ。うちにはそれしかないからな」


 父は自慢する風でも照れ臭そうにするでもなく、ごく自然とそんなことを口にした。

 バカ息子を持ったばかりにこんな破滅的な状況を救うことも出来ず、むしろ負担を掛けさせようとしていたことが少し恥ずかしく感じた。三人で借用書を眺めている間、家の電話が鳴りっぱなしだった。誰の借金宛かは分からないが、きっと催促の電話に違いなかった。


 我が家にはまるで警告色のような赤や黄色の封筒が続々と届くようになった。

 それは全て借金の催促のお手紙で、返せるアテがないのが分かると封も切らずにゴミ箱に捨てるようになった。おかげでうちのゴミ袋はいつもカラフルで賑やかなものになった。

 季節が春めいて観光地が賑わっているニュースを見ていると、父が「そうだ」と言ってテレビから顔を僕らの方へ向き直した。


「写真、撮り行くか」

「写真? 撮ってどうするの」

「売るんだよ」

「何言ってんの。こんな貧乏一家の写真なんか誰が欲しがるんだよ」

「いや、カメラを売るんだよ。最後の記念に、どうだ?」


 その提案に、僕も母も顔を見合わせて首を傾げた。


「お金も返さないのにプラプラしてる場合かしらねぇ」

「返さないんじゃない、返せないんだ。ない袖は振れないだろう。どうだ、記念に一枚」

「私は別に良いけど。良輔はどうするの? 仕事はあるの?」

「まぁ、今は派遣の仕事もあったりなかったり穴だらけだから。別に構わないけど」


 リビングの隣室の畳のある部屋から僕が声を返すと、父は「決まりだ!」となんとも力強い声を出して茶箪笥からカメラを探し始めた。なんとなく気乗りしないような、照れ臭いような気持ちで立ち上がるとささくれだった畳がズボンのあちこちに張り付いていた。


 街で一番大きな河川敷に足を運ぶと、満開の桜並木が僕ら一家を出迎えてくれた。言い出しっぺの父は家から持ち出したラジオから聞こえてくる競馬中継に聞き入っていて、満開の桜に辿り着いても見向きさえしようとしなかった。予想は外れたようで、歩きながら父は「あー!」と大きな声を出してその場にうずくまった。


「クソ、俺にはもう運が無いんだなぁ。朝からさっぱりダメだ」

「いくら賭けたの?」

「今日はトータルで五千円だな。シルバー人材でもらった仕事の分、持ってかれてしまった」


 うずくまりながら父が呻くようにそう呟くと、薄頭の上に数枚の花弁が乗っかった。父はうずくまったまま気が付くはずもなく、母はそれを指差して笑いを堪えている。忍び笑いが聞こえたようで、父が苛立った声をこちらに向けた。


「何がおかしいんだ? 今のが一発当たってたら今月は何とか乗り切れたかもしれなかったんだぞ? あんな堅いレースだったのに、一体何故なんだ!」

「あなたの運が無いんでしょ。頭に桜乗せて何怒ってんのよ」

「桜ぁ? おい、良輔。このまま撮ってくれ」

「ええ? それを撮るの?」

「いいから」


 僕は父に言われるがまま薄頭の上に乗った桜の花弁を至近距離で撮影してみた。スマホの画面に映し出されたのは大きな父の薄頭と、そこに乗る二枚の花弁だ。うずくまる様子も一緒に撮影して父に見せると、何が嬉しいのか全然分からなかったけれど、とてもはしゃいだ様子で喜んでくれた。


「おお、いいなぁ! これは気分が明るくなるだろう! なぁ!?」


 そんな風にはしゃぐ父が馬鹿馬鹿しくて、僕と母は手を叩いて大笑いをした。僕らの横を通り過ぎる花見客達が時折こちらに目を向けていたけれど、そんなものはおかまいなしで笑い続けた。

 きっと、楽しくて愉快な普通の家族に映ったかもしれない。そう思うと、胸の底が一瞬だけズキンと痛んだ。


 河川敷で三脚を立て、僕らは数枚の写真を撮った。

 久しぶりにカメラを弄る父はタイマーのセットの仕方を忘れていたようで、かなり手こずっていた。途中で「手伝うよ」と声を掛けると、「大丈夫だ!」とムキになって答える姿に本当に子供みたいな大人だなぁと思ったりもした。帰り道にパチンコ屋へ寄って三人で打ってみると、母が大当たりを出して元手三千円が二万五千円になって返って来た。僕と父はとことんツキが無くなったのか、何のアクションもないまま台に数枚の千円札が飲まれて行った。


 その足で中古買取店へ行き、父は店員にカメラを差し出した。店員は「へぇー」とか感心した様子で何やら父と話していたが、カメラのことは僕には何がなんだかサッパリだった。査定してもらっている間に僕はよく聴いていたバンドを探しにCDコーナーへ向かった。数枚見つけて懐かしいなぁと思っていると、声を掛けられた。


「武田? 武田じゃね?」


 振り返ると、そこに立っていたのは中学の同級生の冴島というヤツだった。髪をキノコみたいな頭にしていて、胸元にやたらピカピカ光る大きなネックレスを掛けていた。


「冴島くん? 久しぶりだね」

「マジ武田じゃん。武田さぁ、おまえニートになったってマジ?」

「ニートじゃないよ、派遣だよ。仕事はまぁ、あったりなかったりだけど」

「それって実質ニートじゃね? ウケるわぁ。おまえ中学の時、勢いだけはあったのになぁ。まさか何も考えないでそのまま大人になっちゃった感じ?」

「今も何も考えてないよ。そのまんまだよ」

「えー? やばくね? 考えないとかありえないんだけど。人って成長するもんだぜ?」

「んー。でも最後は結局死ぬじゃない。考えるって、何を考えるの?」


 考えろ考えろと周りの大人達はいつも口酸っぱく言っている。考えて、どうすれば良いのかなんて僕には想像が出来ない。だって、いくら考えてみても結局僕の目に映るのは目の前の景色だけなんだから。

 冴島くんは「はぁ!?」と大袈裟に驚くと、僕をまるでゴミ箱の中身でも見てるような目で眺め始めた。


「おまえさぁ、飯塚に借金してんだろ?」


 狭い街だから噂なんてすぐに広まる。僕は同級生の飯塚くんとパチンコ屋へ行き、一万円を借りたことがあった。それでもそのお金は借りた二週間後にきっちり返したはずだ。


「借りたけど返したよ」

「あっそう。別にいいけどさぁー。なんか情けねぇよな。ギャンブルする為に金借りる奴ってさ」

「飯塚くんだって前に僕に借りたし、おあいこだよ。それに冴島くんには借りてないんだからさ、関係ないんじゃないかな。心配してくれてるの?」

「はぁ? おまえマジ、バカ。昔っから全然変わってねぇし、話になんねーわ。心配じゃねぇよ、バカにしてんだよ」

「へぇ」


 とんだお節介を焼く人もいるもんだなぁと思っていると、父が背中から「おい」と声を掛けて来た。振り返ると父は査定に出したはずのカメラを胸にぶら下げていた。父を見た冴島くんは一瞬だけ眉間にシワを寄せて、僕を向いた。


「何あれ、おまえのおじいちゃん?」

「ううん、お父さんだよ」


 そう答えると父は僕の隣に立ち、冴島くんに向かってとても深々とバカ丁寧に頭を下げた。


「息子が世話になっております。父の洋輔です」


 とても真面目な顔と声でそう言って頭を下げたので、さっきまで桜の花弁が乗っていた頭を思い出して僕は少しおかしくなってしまった。

 冴島くんは父の挨拶に何か言葉を返す訳でもなかったけれど、僕の目を見ながら


「おまえがどうなろうと知ったこっちゃねぇけどよ、親の脛だけは齧るなよ」


 とだけ言って、お店をスタスタと出て行ってしまった。

 良い人なんだか、無駄にお節介なんだかよく分からない人だなぁと思っていると、父が小さく咳き込んでニヤけた顔になった。


「あいつ、冴島建設の息子だろ?」

「うん。同級生」

「あのお坊ちゃまもな、おまえに負けず劣らずらしいな。ちっとも働かないで親に金せびって遊び回ってるってな、あいつの親父から聞いてるぞ」

「そうなの? それなのにあんなお節介焼くんだね」

「あれは自分を守るために言っていたんだろ。怖くて仕方ないんだ。棚の裏からな、全部聞いてたぞ」

「趣味悪いなぁ。やめてよ」

「そんなことより、おまえ。カメラの査定が出たぞ。このカメラはな、なんと十二万だそうだ」

「じゅうにまん!?」


 僕が自分でも驚くほど素っ頓狂な声を上げると、父は人差し指を口の前に立てて「しーっ」と言った。今さら遅いような気もしたけれど、父は晴れ晴れとした様子で「行くぞ」と言って店を出て行ってしまった。

 いつも行きたい時に店に入り、出たい時に勝手に店を出る父の背中を母と二人で追い掛ける。外はさきほどまでの晴天が嘘のように重たい灰色に埋め尽くされていて、風がとても冷たく吹いていた。


「父さん、なんで売らなかったの!?」

「気が変わった! これはな、おまえにやる」

「えっ? もらっても多分撮らないし、使い方もよく分からないよ」

「使い方なんかネットで調べたらいい。それにな、俺よりもおまえの方がこれから先に出会う景色も多いだろ。だから、これはおまえが持っておけ」


 父はカメラに全く未練がないようで、胸元からカメラを外すとそれを僕にそのまま手渡して来た。小ぶりなのにズシリと重たくて、いかにも「アンティーク」という感じがした。

 母はカメラを売らなかった父に散々文句を言っていたけれど、父はひたすら「いいんだ」と繰り返していた。

 

 家に帰ろうとして河川敷の道へ出ると雲行がどんどん怪しくなって来て、なんと季節外れの雪が降り始めた。通り雨みたいなものなのだろうけど、雪は勢いのついた風に舞いながらまるで吹雪のような様子で吹き始める。

 ジャンパーを着た背中を丸めながら、身体を震わせた父が空に向かって怒鳴り声をあげる。


「おい! なんで四月なのに雪が降ってるんだ!? 異常気象も大概にしろよ!」

「一体どこに向かって怒鳴ってるのよ! お天気に文句言ったって晴れやしないわよ! 早く帰るわよ!」


 母が父の腕を掴み、二人とも背中を丸めて小さな歩幅で走り出す。

 季節外れもいい所の突然吹いた雪の嵐は桜並木を揺らして、桜の花弁も一緒に降らせている。僕は立ち止まると遠くなって行く二人の後姿にファインダーを向けてみる。記憶の中にある父の姿の見よう見真似でフィルムを巻いてボタンを押してみるとカシャリと音が鳴り、覗き込んでいた世界が一瞬だけ閉じた。どうやら写真は無事に撮れたみたいだ。

 

 小走りになって追い掛けると二人の姿にすぐ追いつきそうで、追いついてしまうのが嫌で少しだけペースを落とした。それは頬に当たる冷たいものがあったからだ。それは雪じゃなくて、自分でも理解不能な涙だった。一体何に心が動いたのか自分でも分からなかったけれど、とにかく僕は泣いていた。だから、追いつきたくなかった。

 雪はしばらくの間降り続いていて、家に帰ると強い風が窓を震わせていた。父は頭についた雪を払いながら、春が訪れると早々に石油ストーブを仕舞った自分に腹を立てていた。

 それからすぐにコタツを出して、夕方まで僕らはテレビを観て過ごした。


 僕らはついに手に負えなくなった、いや、抱える前に放り出した借金のために家を出る事になった。とはいっても、元々借家暮らしだったので借家から団地へ引っ越しただけだけど。両親は生活保護を受けることになり、僕は家を出ることになった。相談員が


「息子さんがいると……」


 と神妙な顔つきになった途端、父は間髪入れずに


「おまえ、さっさと家を出ろ!」


 と僕に言った。それが何だか面白くて、僕は「そうするよ」とだけ答えた。


 新しい実家へ帰るたび、玄関を開くと子供の頃に大好きだった光景に再び出会える。団地の八階から見る街の景色にファインダーを向けると、空気が澄んでいるみたいで遠くに富士山が見えた。せっかく見えている富士山が上手く収まるようにレンズを合わせ、シャッターを切る。最近は少しずつ慣れて来て何回か現像にも出してみた。


 季節は再び寒い冬になったけれど、環境はすっかり変わった。

 無駄な買物を控えたり、くだらないことで悩むようになったし、お金を湯水のようにギャンブルに突っ込むのがやたら怖くなるようになった。

 これが成長ってやつなのかな、冴島くん。

 そんなことをぼんやり考えていると、家の中から父の怒鳴り声が飛んで来る。


「良輔! 玄関開けっ放しで何やってるんだ! 頭が冷えるんだよ!」


 しまった。カメラを持って出たものの、玄関を閉めるのを忘れていた。やっぱり僕はバカなままなのかもしれない。


 家の中へ入ると居間のテレビで競馬中継を見ていた父が渋い顔をして煎餅を母に数枚手渡していた。


「そんな怖い顔してどうしたの?」

「お、これか? 金ないからな。煎餅賭けて遊んでんだ。外れたら没収されるんだよ」

「ほら、これなら経済的でしょ?」


 そう言いながら真剣に次のレースに目を向け始めた父と母に向かって、僕はファインダーを向けてみる。シャッターを切ると父は画面を向いたまま、「それ、いいだろ?」と呟いた。

 僕は「うん」と返事をする代わりに、もう一度シャッターを切ってみることにした。

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四月のバカ 大枝 岳志 @ooedatakeshi

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