僕は彼女の掌の上で踊っている

椎名喜咲

【001】天使

 ――死ね、と人は口にする。

 その言葉を放つ重みを本当に理解しているのか、と僕は問いたい。例えば、この場で死ねと言われたとき、僕が死んだらどうなるのだろうか。僕が死んだ原因はその人にならないのではないだろうか。

 いや、違う。原因は僕だ。

 死ねと言われて、その行動に移したのは僕だ。殺人でも無い限り、僕の行動から起きた結果はすべて僕自身が原因なのだ。

 つまるところ、これから語る物語は僕が原因で起きた悲劇だ。

 僕と、彼女と、その周りを巻き込んだ。

 ただの滑稽な劇だ。



 □多村 弥咲


 僕がいじめの標的にされたのは、小学五年生の頃だった。理由は名前が女の子っぽいから、という今でも意味不明なものだった。

 多分、理由は後付けだ。僕はきっと、いじめの標的に遭いやすい質だったのだろう。引っ込み思案で、ひょろりとした体つき。髪の毛が生まれつき灰色だったのも目立つ要因の一つだ。

 頭上から冷水をぶっかけられた。

 ぎゃははは、と下品な笑い声が聞こえてくる。

「ごっめーん、多村たむら。そこにいるとは思わなかったわー」

 白々しい台詞だ。わざわざ僕に目掛けて窓から水を吹っかけてきたのに。冷水はこの冬の時期では特に響き、寒さを訴えてきた。鳥肌が立ち、濡れた制服が肌に張り付いた。

 僕は頭上を見上げることはせず、校門に歩き出した。

 僕はいわゆる、いじめを受けている。

 それも結構物理的な。

 無視されるという過程を越えて、下駄箱にゴミがある朝から始まり、体育服や教科書の類いはゴミ箱に捨てられ破られ消失され、机には落書きが油性ペンで書かれている。冷水をぶっかけられたのはこれで三度目だ。冬にやるのは殺人的だ。

 いじめは今から始まったことではない。小学校で抜け出しても、中学には同級生がいて、高校に入学しても、何故か標的にされ続けた。

 けど、いじめの原因を全面的にいじめている側であるとは僕は思わない。

 いじめをされたくないならどうにかしようと行動すればいい。しようと思えたらどれだけ楽だったか。やれたらやっていた。よくいじめられた側がそう口にしているけど、それはやってもいない意見だ。いじめには相互に原因があるのだ。

 環境のせいとか、原因を作りたがるのは、多分違う。

 僕は、そう考えていた。

 冷水で濡れていた僕は街中でもよく目立った。

 僕は学校から出て二十分ほど歩き、ボロアパートの前で止まった。二階建て。僕の部屋は二階の一番端だ。僕は高校入学と同時に一人暮らしを始めていた。

 両親は中学に上がる頃に事故で亡くなった。本当に唐突だったために、当時は現実感が無かった。今もポッカリと穴が開いたままだ。

 その後、孤児院にやって来た。孤児院は僕の知らない世界だった。僕と同じような境遇の人々が集まり、優しい母代わりの人が僕を育てる。気味が悪かった。擬似的な幸せは、もっと甘美で、温かいものだと思っていた。違う。違う。同情と憐れみの視線。彼らの根本的なものが、僕は怖かった。

 だから、高校に入り、一人暮らしを始めた。幸い、孤児院はそれを認めてくれた。半ば僕の強引でもあったけど。

「ただいま……」

 アパートに上がるが、返答は無い。

 僕の声がやけに響いた。濡れた制服を脱いで、ハンガーを掛ける。明日、乾くだろうか。湿っぽさが残るだろうな。

 体が震えた。制服を脱いだことでより寒さが強まった。シャワーを浴びよう。いや、それよりも先にタオルで髪を拭くべきか。

 ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。ここのアパートの呼び鈴は少し変わった音を出す。僕は扉を開けた。


「こんにちはっ、ミサくんっ」


 出てきたのは桃色の長い髪を持つ少女。

 整った面差し。琥珀色の瞳。スタイルの良い体。出るところは出て、少女の着る制服が形を強調する。

 少女の名は、中野なかの奈々花ななか

 僕の通う秋ヶ丘学園の高嶺の花。学園……いや、学校一と言われる美少女だ。当然、彼女はクラスでも人気者。

 それに、彼女は優秀だった。勉強も運動も人柄も、何かもが完璧だった。

 そういう物語から現れたような天使。

 対して、僕――多村弥咲みさきは学校一の嫌われ者。これは自称ではなく、他称だ。学校ではいじめられっ子だ。嫌われ者の理由は、まあ、僕が原因、らしい。

 僕には幼馴染みの女の子がいた。

 両親が生きていた頃、親同士の付き合いがあった。僕も仲良くなった、と。そう思っていた。もしかすると、僕の初恋だったのかもしれない。僕が孤児院で行くことになり、一度距離が離れた。

 そして、偶然再会したのが高校だ。

 幼馴染みの女の子はずいぶん大人になっていたけど、過去の面影も残していたから、すぐにわかった。

 けど、だからといって、仲良くなれるとは思ってなかった。

 そう思っていたら、幼馴染みの女の子の方から話しかけてくれた。その時はとても嬉しかった。

 ここからは笑い話として聞いてほしい。

 ある日、僕は休日で電車に乗って二つ先の街に出掛けていた。自分でも珍しい行動だとは思っていたけど、その街にある本屋限定で著名人のサイン会をしていたからだ。

 サインも無事受け取り、帰りの電車に乗っている途中、電車内で事件があった。

 いわゆる、痴漢というやつだ。

 それも偶然なのか、痴漢に遭ったのは幼馴染みだった。

 痴漢は未遂に終わったらしい。犯人は逃げてしまっていた。僕は迷ったけど、幼馴染みに近づいた。

『……だ、大丈夫?』

 僕が話しかけたとき、幼馴染みはビクッと怯えていたのを思い出す。痴漢に遭ったばかりだ。極度の警戒は当然だったと思う。

 幼馴染みは僕を見て安堵の息を漏らしていた。多分、知り合いだったことに安心した感じ。

『ほんと、嫌になるわ』

 幼馴染みは気丈に振る舞っていたが、声が震えていたのを覚えている。僕はその日、柄にもなく幼馴染みを家まで連れ帰った。それぐらい、当然だと思った。

 翌日。学校に着いて愕然とした。

 昨日起きた痴漢騒ぎが学校中に広がっていることに――ではない。その被害者がクラスでも高い地位にいた女の子だったから――でもない。

 僕が、痴漢未遂の犯人になっていた。


  ◇


 僕は当然反論した。僕はやっていない。そんなことするはずない、と。

 しかし、僕が幼馴染みと一緒の電車に乗っているのを見た、という人物がいたらしい。その時の写真も出回っていた。

 ここで僕=犯人説の後押しとなった要因は二つある。

 一つは、痴漢騒ぎの被害者である幼馴染みがクラスでも高い地位にいたこと。幼馴染みの女友達は痴漢を許さず、僕はいつの間にか女の敵として認定されていた。

 もう一つは、男グループが加担したことだ。男グループの実質的なリーダーでもある男はどうやら幼馴染みのことが好きらしい。僕は彼に会って真っ先に殴られたぐらいだ。いきなり暴力をされたときには何事かと思った。

 そう思ったのも、彼はクラスでは好青年。いわゆるモテる男だったからだ。彼と暴力が上手く結び付けられなかった。

 ある者は女の味方を、ある者は悪を成敗するために、ある者は面白おかしく、ある者は、その場に流れるように。

 空気とは、恐ろしいものだと思う。

 気づいたときには僕は痴漢の犯人だった。僕の意見など聞く耳を持たないどころか、その空気が全てを流してしまった。

 空気は更に僕の悪名を膨張させ、噂の尾びれは悪い方向へと広がった。

 結果、制裁という名のいじめと学校一の嫌われ者というポジションを獲得した。

 学校は、恐らく僕の現状を認知しているだろう。その上で見えないふりをしている。

 流石に、因果応報だ、とでも思っているかもしれない。

 僕は本当の意味で一人になった。

 元々一人だった僕はそこまで変化はしなかった。悲しいとも思わなかった。毎日毎日のいじめをただ受ける。

 空っぽだから、何も感じることはない。

 それでも、自分の中の何かが消えていくのはわかっていた。

 そんなときに、彼女は現れた。

 天使かと、比喩ではなく、そう思った。

「あ、濡れてる!!」

 奈々花さんは僕の濡れた服を見て言った。

「あ、これは、その……」

 僕は上手い言い訳が思いつかない。

 奈々花さんはくすりと笑った。

 手提げバッグからタオルを取り出すと、僕の髪をわしゃわしゃと拭いていく。

「お風呂、入っちゃおうか」

 奈々花さんはそう風呂場に押し込もうと敷居をまたぐ。

「あ、自分で、脱げるから……!」

「わたしも入ろうか?」

「へ、平気ですっ!」

 僕は慌てて風呂場に入り、シャワーを浴びた。ふぅとひと息。

 奈々花さんが僕の前に現れたのは、僕の痴漢の犯人となってから、一週間ほど経ったときだった。

 隣人が引っ越してきた。休日、挨拶しにやって来た。僕は今どき隣人の挨拶をしてくる人に愛想よく対応できるか、と不安要素を覚えながら扉を開く。その先に、奈々花さんは言った。

『あれ? 多村くん?』

 驚いた。

 僕も奈々花さんのことは知っていたから。

 奈々花さんも僕のことを悪い意味で知っていただろう。

 けど、奈々花さんは僕の無実を信じてくれた。僕が話に耳を傾けてくれた。それが嬉しくて、僕は泣いてしまった。

 それから僕と奈々花さんは不思議な縁のもと、生活している。彼女は休日によく僕の部屋に遊びに来たり、夕食を一緒に食べてくれたりしている。学校外だと、ほとんど僕は奈々花さんと一緒に過ごしているかもしれない。

 彼女は僕にとっての天使だった。

 風呂場から出ると、奈々花さんは台所で夕食の準備をしていた。やけに似合うエプロン姿で、だ。

 僕は奈々花さんの姿に見惚れてしまった。

 僕の嗅覚を突いたのは、カレーの匂いだ。

「あ、ミサくん。上がった?」

「うん」

「わたしもシャワー浴びてこようかな〜」

「えっ!?」

「これ、お願い」

 奈々花さんは僕に調理途中のカレーを渡しながら風呂場に向かってしまった。

 遅れてシャワーの音が聞こえてくる。

 同級生の、それも学校一の美少女が自分の家のシャワーを浴びている。その事実にドギマギする。

 僕はカレーを作ることにとにかく専念した。無心で、ひたすら手を動かした。

『ミサくんー!』

「は、はいっ!」

 風呂場から声が聞こえてきた。

『タオル、置いてきちゃった。持ってきてくれないー?』

「あ、う、うんっ」

 僕は火を止めて、タオルを取る。

 風呂場の扉の隙間から奈々花さんの顔と、湯気と、スタイルの良いシルエットが見えた。

 僕は顔を逸しながらタオルを渡す。

「ど、どうぞ」

「うん、ありがとっ」

 タオルを渡し、僕はすぐさま離れる。

 心臓の鼓動が速く鳴る。

 気恥ずかしいし、情けない。

 風呂場から奈々花さんが出てくる。

 肌、濡れた髪、蒸気した頬。なんとなく見てはいけないものを見てしまった気がして僕は目を逸した。頬が熱い。

「あ、カレー、完成したねっ」

「う、うん……」

 夕食の時間は部屋に折り畳みのテーブルを敷いて、向かい合う形で食べる。

 カレーは合作……というより、奈々花さんがほとんど作ったものだ。具材たっぷりのカレー。口に運ぶと美味しかった。

「どう? 美味しい?」

 奈々花さんが聞いてくる。

「うん、すごく、美味しいや。やっぱり奈々花さんの料理の腕はすごいね」

「やだなぁ、これぐらいルーがあるんだから普通だって〜」

 奈々花さんはそう言いながらも、内心は嬉しそうだった。

「ほら、あーん」

 奈々花さんの行動に僕は固まった。

 僕のスプーンを取ると、カレーをすくい、僕の前に差し出してきた。

「え、いや、その、」

「あーん」

 む、こ、これは不可抗力というやつだ。

 僕はカレーを口に運んだ。

 緊張していたせいで、味がよくわからなかった。

「じゃあ、お返し」

 奈々花さんからスプーンを渡される。

 僕は恐る恐る受け取った。

 震える手で奈々花さんのカレーをすくい、差し出す。

「ど、どうぞ……」

「あーん」

 奈々花さんは口に含んだ。

 満面の笑みで満足そうに言う。

「美味しいね、ミサくん」

「……うん」

 こんな日がずっと続けばいい、と。

 そう思えてしまうほどの、幸福感。

 僕はスプーンをテーブルに下ろした。

「あれ? まだ残ってるよ?」

「……奈々花さんは、どうしてこんなに僕によくしてくれているんだろう」

 奈々花さんは黙った。

 けど、遅れてふっと表情を和らげた。

「別に、よくしてるとは思ってないよ」

「けど、痴漢の犯人じゃないって信じてくれたのは、君だけだった」

「だって、ミサくんが自分で言ってくれたじゃん。無実だって。本当なんでしょ?」

「……本当だよ」

 その言葉は本当に伝えたかった人には、届かなかったけれど。

「なら、君は無実だよ。わたしね、本当によくしてるとは思ってないよ。これは、わたしの為だもん。わたしがしたくてしてることなんだから、いちいち気にしてちゃあ、わたしも困っちゃうな。こういうときはね、素直に甘えていいんだよ」

「……ありがとう、奈々花さん」

「いえいえー」

 奈々花さんはそう言って笑った。

 彼女は笑顔が似合う。その笑顔にどれだけ救われたか。

 やっぱり。

 奈々花さんは僕にとって天使だった。



 □中野 奈々花


 本当にお礼を言いたいのはね。

 わたしの方なんだよ。ミサくん。

 君は、痴漢事件を無実だと主張した。

 それは学校の空気がかき消してしまった。

 だから、ミサくんは痴漢の犯人になった。

 それでも、わたしは君を信じるよ。

 信じるに決まってる。

 当然じゃないか。

 君はわたしが本当に信じているのを、信じていないかもしれない。

 それでも、わたしだけは。

 わたしだけは、君の味方だよ。

 だってね。


 君を痴漢の犯人に仕立て上げたのは、わたしなんだから。


 だから、ミサくん。

 早く、わたしだけのものになって。

 わたしだけを見て。

 わたしだけのミサくんでいて。

 今日も愛してるよ、ミサくん。

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