第36話

 アベル殿下が身動きできない私の前髪を人差し指で流すと、先ほど私を連れてきた男たち二人に「おい」と声をかける。


「どうして動かないんだ」


 鋭利に尖った声だ。

 男たちは怒られると思っていなかったのか、少し戸惑うように答えた。


「す、すみません。生きたまま連れてこいと言われましたのでしびれ薬を使用しました」


「いつ治る」


「に……二、三時間もすれば痺れも取れてくるかと……」


「二、三時間か……それまでどこか布団で休ませてやれ」


「はいっ!」


 男たちは返事をすると私を担ぎ直し、逃げるように降りてきた階段を駆け足で上った。


 流石に最後まで上りきるのはしんどかったのか、階段の途中の踊り場で立ち止まり、ぜぇぜぇと荒い呼吸をしながら私を担いだ背の高い男がもう一人の男に話しかけた。


「なぁ、何であんなに怒ってんだ?」


 声の低い男も答える。


「わからねぇ。もしかして、こいつは客だったとか?」


 二人はうーんと首を傾けるが、いくら首を捻ったところで正解が分かるわけもない。


「とりあえず言われた通り布団に寝かせとこうぜ」


「逃げねぇかな?」


「逃げれねぇだろ」


「布団は客用? 捕虜用?」


 二人はもう一度うーんと首を傾け、しばらく考え込んだ。


「……とりあえず目についた方でいいんじゃねぇか?」


「怒られたらお前の責任な、じゃあ行くか」


 そう言って私を担ぎ直し、また階段を駆け上がっていく。

 二人の少し抜けた会話を聞いたせいか、逃げる気力はほぼ無い。


 痺れて開かない目を無理やり開けておくのにも疲れてきた。何より私は丸一日寝ていない。


 少し気を抜くと、瞼は完全に閉じ、意識は薄らいでいった。


……––––––––


「起きたか」


 いつの間に眠っていたのか、目が覚めると綺麗なベッドに寝ており、ベッドの横の椅子にはアベル殿下が足を組んで座っていた。


「こ……こは?」


 口の痺れは取れているが、まだ少しの違和感が残っている。


「ここは私の仮眠用ベッドだ。何でここに寝ているかは知らぬ。私も聞きたいくらいだ」


 アベル殿下は呆れたように頭を抑えた。


 窓を見ると外は夕方に移ろうとしている頃だろうか。私はしっかり眠っていたようだ。

 身体の疲労度もだいぶ取れたみたいだけれど、起き上がるのはまだ少し億劫おっくうに感じる。


 顔だけをアベル殿下の方へ向け、むすっとした顔に問いかけた。


「殿下は、本当にアベル殿下なのですか?」


 寝起き一番の言葉があまりにも直球だったからか、アベル殿下はきょとんとした後に、ぷっと吹き出して笑った。


「ははっ、お前面白いな。そうだな、昼の私と夜の私では別人だと思ってもらっていいだろう。なに、比喩じゃなく本当にそのままの意味だ」


「二重人格ということですか?」


「難しいな。どちらも私ではあるが、お前の知っている私の方が私がなりたかったアベルで、今、お前の前で話している私がならなければならなかったアベル……だろうか」


 アベル殿下はそう言うと私の顔にかかった前髪をそっと耳にかけた。


 触れられるのが嫌ではなかったのは、目の奥がそこはかとなくカイン様と似ているからだろうか。


「この世界の時間が止まっていることはもう知っているな」


 唐突に真理をつく事を言ってきたが、アベル殿下も皇帝の書斎に入っていた事を考えると、今更腹の探り合いをするのもおかしいと思い、正直に答えた。


「はい―――。ただ、時間が止まっているっていうがどういうことなのかよく分かりません。時計は動いているし、今もどこかで人が生まれて、誰かが死んでいますよね?」


「そうだな。個人の小さな視点で見たらそう思うだろう。例えるなら、ここはよどみだ。川から海へ水が流れて循環するのが時の正しい流れだとしたらここは水が滞留している。新しい歴史が生まれない。世代は変われども同じ事を繰り返し、汚れだけがどんどん蓄積していく」


 そう言ってアベル殿下は着ていたブラウスの第一ボタンを外し、身に付けていたネックレスを外し、話を続けた。


「この国はおよそ七百年前、太陽の国と呼ばれていた。隣国の月の国との戦争の真っ只中――聖戦だ。どちらも譲れないから引くに引けない。魔力を操る太陽と自然の力を操る月の国の戦いは太陽の国が優勢だった。そこにある日突然現れたのは物凄い魔力を有する化け物のような男だった。魔力があるのだから勿論太陽の国の者だと思っていたが、何故か男は月の国の味方をした」


 そう言ってアベル殿下は腕を組んだまま私に顔を近づけ話を続ける。


「戦況は逆転。逃げるにも太陽の国に蹂躙じゅうりんしたそいつを討つ手立てなし。月の国に攻め入るしかなかったが、今度は月の国に入れないように抜け出せない結界を張り巡らせた。この結界の範囲が今のドレスト帝国さ。時が止まったのもこの結界が原因だ。––––––お前ルナーラの長女だと思うが、今まで誰と戦争をしていたか知っているか?」


 話の中での唐突な質問に私はすぐに答えられなかった。


 私達は帝国を守る為に外部からの侵略者と当たり前のように戦っていたけれど、それは一体なんなのか。


「えぇっと、それは……」


 答えようと思うと頭を殴られたかのように強く揺れ、考えを続ける事が出来ない。


 何故? 知っていて当たり前の事なのに何故答えられない?


 私が黙ったまま目を見開いているのを見て、アベル殿下は話を続けた。


「ドゥンケルハイトは強い洗脳魔法を使い、太陽の国を自分の国としてこの七百年に渡ってドレスト帝国をまやかしの国として創り上げてきたんだ。お前らが戦っていたのはドゥンケルハイトに乗っ取られた太陽の国を取り戻そうとする太陽の国の残党達さ。そして、ルナーラは太陽の国との戦争時代に捕まっていた月の国の捕虜達の国だ。皮肉にも、太陽の国と月の国の戦いは続いてるってわけだな。そして―――俺はどうやら太陽の国の首領の末裔でもあるらしい」


 そう言って、先程外したネックレスを私の前に揺らした。


 オレンジと黄色を混ぜたようなコイン程の大きさの石が夕日を吸い込むように鈍く光る。


「このネックレスは母上と皇妃様の事件が起きた前日に、母上から譲られた物だ。あの日、何が起こるのか母上は知っていたのか今となっては分からないが、これを持っていた私だけドゥンケルハイトの洗脳から免れたのだ。それ以来、人と話をする時に人の悪意にはもやのような物が見えるようになった」


 アベル殿下は眉を下げ、やりきれない思いを隠すようにネックレスを握りしめ話を続ける。


「セレーネ嬢、ここに誘拐のように連れてきたのはカインがいないところで話がしたかったからだ。今のカインを間に挟むとややこしくなるからな」


 そう言って少しだけ申し訳なさげに眉を下げる。


「単刀直入に言うが―――今のルナーラの冷戦は長くは続かない。もうすぐまた戦争は再開するだろう。そして、その戦争はドゥンケルハイトの結界がある限り決して終結しない。戦いは止まる事も終わる事もないのがこの世界のことわりになっているからだ。だからセレーネ嬢、頼む。力を貸してくれ。カインが皇帝になって、ドゥンケルハイトの意思がカインに移ってしまう前に……」


 アベル殿下はいつになく真剣な表情でそこまで言うと、急に意識を失ったように俯き、もう一度意識を取り戻した時にはジトっとした私がイメージするアベル殿下の表情に戻っていた。


「ア……アベル殿下?」


 目が合ってるのか合っていないのか分からないため、恐る恐る問いかけると、アベル殿下は大きな溜め息を吐いて恥ずかしそうに両手で顔を覆った。


「………悪い。迷惑かけた。記憶はあるんだが、どうにも制御できねぇんだ」


 眉間に皺を寄せ、先程の殿下とはまた別のむすっとした声色からいつもの殿下らしさを感じる。それに安心した私は少し強張りが緩んだ声で答えた。


「話を聞いてる感じですと太陽神の加護を受けているようですね」


 そう言うと殿下は「はっ」と鼻で笑い、偉そうに椅子の背に背中を預けた。


「加護なんかじゃねーよ。俺に言わせたら呪いだ呪い。太陽が昇ってる間は何故かあの性格になっちまう。こんなところにお前を攫ってきて……―――どうすんだよ、カインにバレたらまたキレられるだろ」


 アベル殿下はまた思い出したかのように最後に言葉を溢すと絶望するように両手で顔を覆い隠した。


「あの、それよりも戦争が始まるっていうのは本当でしょうか」


「マイペースに話を戻すなよ……ああ、このままだと始まるだろうな。お前の護衛の騎士もお前のお守りしてる場合じゃ無いと思うぞ」


「そんな、すぐに帰らないと!」


 そう言って私が慌ててベッドから起き上がり立とうとすると、急に立ち眩みがしてフラフラと倒れ込んだ。


「危ねぇ!」


 殿下が倒れる私を受け止めたが、殿下の危機迫る声が聞こえたのか、私をここへ連れていた男二人が「どうしましたか!」と大きな音を立てて扉を開け放った。


 この時は少しタイミングが悪かった。


 よろけた私が殿下の胸元に頭を寄せ、殿下が私の両肩を支えているこの一瞬の状況を見た男二人は何を察したのか、はっとした顔をし、「すみません!」とこちらが弁明する間もなく慌ててドアを閉めてしまった。


 私はどういうわけかこういった状況に慣れているので、またかくらいなものだが、アベル殿下は違ったらしい。

「おい! 待て! 違う!! おい!」

 と言って切迫した表情で二人の後を追いかける。


 そして、ここでもどうしてこうなったのか分からないが、アベル殿下のネックレスが先ほどの拍子に私の髪の毛に絡まってしまったらしい。


 追いかける殿下に引っ張られるように私も部屋の外まで連れて出られ、「殿下、待ってください。髪が!」と前がよく見えないまま付いて行った。


 そして、まさか扉を出てすぐに階段があるとは予想だにしておらず、立ち止まった殿下に勢いよくぶつかり、安全上問題しかない低い手すりを乗り越え、私と殿下は螺旋階段の上から宙へと投げ出された。

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