転移からの帰還
第18話
急に小屋の外に飛び出したリヒトを追いかけて私も外に出れば、リヒトは空を見上げて静かに固まっていた。
一体何事かと、私もリヒトの目線の先を見れば、大きな満月が浮かんでいる。
これだけ大きな月が出ていれば、夜になった事に気が付かなくても無理はない。
ただ、ふと何かが脳裏の片隅に浮かんで離れなかった。
なんだろう、この景色……何かを思い出せそうな……
木と木の間から覗く大きな満月、黒い木の葉は白い光を帯びていて、まるで周りが全部真っ白になるような……
「あぁ、そうだ……あの時と一緒。私が五歳の時、森の中で見た景色だわ……」
月を見上げながらぼーっと呟くと、リヒトの
「セレーネ!!」
と叫ぶ声が響いた。
手を伸ばし駆け寄るリヒトの顔は今にも泣きだしそうで、それを抱き留めようと私も両手を伸ばせば、私の両腕は発光する月のように白い光を纏っていた。
ここへ飛ばされて来た時と同じだが、あの時は地面の魔法陣が発動していた。
今回は何もなく、私の体が白く染まっていく理由が分からず、ただ狼狽える私をリヒトは力強く抱きしめた。
「まさか、今日だなんて……気付くのが遅すぎた、ごめんセレーネ……。お前に話さなきゃいけないことがまだたくさんある。何年後になるかわからないけど絶対に会いに行くから……絶対に探し出すから!」
一体何が起こってるの!?
言葉にしたかったが、もう私の口から声が出てくることは無かった。
だんだんと視界が奪われ、リヒトに抱きしめられた感覚も無くなる中、必死に伝えようとする声だけが耳に届いた。
「嘘ついてごめん。俺の名前はリヒトなんかじゃないんだ。俺の本当の名前は―……」
ここで私の意識は完全に失われた。
次に目が覚めた時、私の視界には同じような夜空が広がっていた。
背中はひんやりと冷たく、土と草の匂いがする。
夢と現実の狭間にいるかのような感覚で、なかなか頭がしゃっきりと働かない。
重たい右手で左肩に触れれば、私の服は確かに湿っていて、リヒトの濡れた髪の感覚はまだ肌に残っている。
五感だけがやけに敏感で、普段なら感じ取れない、忍ぶような微かな人の気配を察知した。
私は慌てて起き上がり、茂みの方へと体勢を整える。
リヒト?
声を上げるより先に目の前に現れた人影は白髪の交じった髭とハンチング帽を被り、肩には猟銃を携えた見覚えのある老父だった。
「……パレットさん?」
「まさかとは思ったが、セレーネお嬢様ですかぃ?」
彼は十一年前の神隠し事件で私を保護してくれた猟師のパレットさんだった。
彼とはその後一度だけ交流があり、私に猟の初歩を教えてくれたのもパレットさんだった。
「お嬢様、こんな夜更けに何故またこんなところへ?」
「それが、私も何から説明したらいいのかわからないけれど、十一年前と同じ現象……だと思うわ……」
根拠は無いが、現状に対する妙な確信があった。
「たまげたぁ……あまりにもあの日と似ているもんだから、俺もまさかとは思ったが……」
久しぶりに会ったパレットさんは急に歳をとって老けたように見えた。
前回会ったのは五年ほど前だっただろうか?
五年という月日は私が思っているよりも人に変化をもたらすのかもしれない。
「俺の小屋はすぐ近くにありますんで、夜も遅いですしよかったら休んで行ってくだせぇ」
そう言ってパレットさんは左足をかばうように引きずって歩き始めた。
「足、どうしたんですか?」
「三年くらい前に膝ぁやっちまって。へへへ、もう歳でさァ。今はなかなか町まで行けなくて。今は週に一回、商いの馬がいろいろ持ってきてくれて、俺ァ干し肉を売るって感じでやってまさァ」
「今、ルナーラで戦争とか、何かきな臭い事とか起きてないかしら?」
「いやァ……何分ここは情報がこねぇからわかりやせんが、森はいつもと変わりはないですけどねぇ」
「そう……教えてくれてありがとう」
パレットさんの後ろを着いていく中で、見たことがあるような石畳の道があった。
あの頃と目線は違うが、もうここはパレットさんの家の周辺なのだと何となく分かった。
「お嬢様、着きました。小汚ねぇ家ですが、どうぞ入ってくだせぇ」
パレットさんは家の中へ入り、入り口にかけてあったランプに火をつけた。
私とリヒトが居た小屋とは違い、パレットさんの家は二階まであり、暖炉もあるし、何より生活感があり、その温もりにほっとする。
暖炉には消えそうな火がついたままで、パレットさんは薪を数本足し、椅子をその前にもう一つ置いてくれた。
小さなテーブルの上にはお茶が半分以上はいったままのコップが置いてあった。
ここで休んでいた時に外の様子がおかしい事に気が付き、慌てて猟銃を携えて見回りに来たのだろう。
パレットさんは
「お茶しかねぇですけど」
と言って、暖炉で沸かしたお湯をポットへ入れ、新しいコップに注いでくれた。
「もうお休みの時間だったでしょうにごめんなさいね……お茶もありがとうございます」
確かに外はまだ肌寒い。
暖かいお茶の入ったコップを持つと、指先までじんじんと血が通っていくのがわかる。
「いやいや、ここに一人でいるとやることもないですからね。ついつい睡眠時間が多くなっていけねぇ」
そう言ってパレットさんは冷めているであろうお茶を一口飲んだ。
私は濡れた服を触りながら、自分に起きた現象について考えていた。
感覚としては夢から覚めたような気分だが、確かに私はさっきまでリヒトと一緒にノクタスの森の廃れた小屋に居た。
草臥れたブーツ、破れた袖口、染み付いた泥汚れ。
過ぎ去った月日を感じるには十分だった。
リヒトは何かを知っていたのだろうか。
そういえば、リヒトが最後に何か大事な事を叫んでいた気がするが、それが何だったかどうにも思い出せない。
思い出さなければならないはずなのに、頭の中の引き出しが固くて開かないような、散らかりすぎた部屋の中で、小さな鍵を見つけるような、思い出せない事にじれったさを感じる。
「それにしても……懐かしいですなぁ」
パレットさんは微笑み、昔を見る様な遠い目をした。
「十一年前、白い服を着たお嬢様に会った時は本当に月の女神様の使いかと思いやした。見間違いだったんでしょうが、髪の毛も金色に光って見えたんでさァ。風も吹いていないのに、揺れ動く金髪がなんとも美しく、あの夜のことは一生忘れられんでしょうなぁ」
パレットさんはリヒトと似たような事を言ったが、光っていたと金髪とじゃ全く違う。
だが、その証言は今後無視できない大事な現象である気がした。
「私はところどころしか覚えてなくて……でも、この部屋に入った時にすごく暖かいと思った記憶はあります。甘い匂いがして、暖炉の燃える木の匂いと、道具の手入れに使う蝋の匂いは印象的でした」
「確か、あの時はまだ元気だった嫁っこが木の実のパイを焼いてたんでィ。焼きあがったところで外から物音がして、お嬢様に会ったんでさァ」
「あー!思い出しました。木の実のパイ!おいしかったなぁ……」
「お嬢様は心細いのを必死に隠されていて、涙を我慢しながら食べておりました。一体何処の貴族のご令嬢かと思いましたが、今思うと、幼子ながらにしっかりした、瞳の奥の強き光は、疑いようの無いメンシス家のものでしたなぁ」
パレットさんはおもむろに姿勢を正し、ゆっくりと使い慣れてないだろう敬語を一語一語探しながら話してくれた。
旧知の五歳の少女ではなく、立派な貴族の令嬢として接しようとしてくれるその心遣いまで含めてパレットさんの言葉が有難く感じる。
「最近、貴族の令嬢らしくないと言われ続けていたので、そう言っていただけると嬉しいです」
私が照れくさそうに笑うと、パレットさんも楽しそうに笑いながら言葉を続けた。
「確かに、幼い貴族のご令嬢に下賤な狩人が焼いた木の実のパイを食べさせるなど、本来はあってはならん事でしたなぁ」
「少し前にそれに似た事を年下の子から言われたわ。知らない人から貰ったものを警戒せず食べる私がいけないのよね……子供の頃から、食べれるかどうかは、食べてから判断するタイプだったからよくお腹も壊してたわ」
「警戒ですか……はっはっはっは!」
そう言ってパレットさんはもじゃもじゃの髭の中から大きな口が見えるくらい大笑いをした。
「違いますぞ、お嬢様。一般的なご令嬢も警戒などしておりません。お腹を壊すかどうかよりも、嫌悪感で食べないんでさァ」
「嫌悪感?」
「高貴な方は『何が入っているか分からない』という言い方をされますがね、私たちに対するそれには『汚らわしい』という意味が含まれているのですよ」
「えぇ!そんな、虫が入っているわけでもないのに?」
私がそう言うと、パレットさんはまた大口を開けて笑った。
「まぁ、私たちが虫みたいなものという認識をされる方もおりましょうな!はっはっは!」
パレットさんは笑っているが、私はつられて笑う気にはなれなかった。
「……お嬢様のお嬢様らしくないところは私たちにとっては同じ目線を知って下さる良き領主なのですよ。少なくとも私は、初めてお会いした時から、お嬢様の事をお慕いしておりますし、お嬢様やメンシス家の悪口を言う奴がいたら頭に鉄砲ぶちかましてやろうと思ってまさァ」
笑ってはいるが、真剣な瞳であるパレットさんが言っている事は大体本音なのだろう。
最後の鉄砲のくだりまで含めて。
ルナーラ気質というのか、少々荒っぽいところがあるが、私は改めて領地も領民も大好きだという気持ちがいっぱいに膨れ上がった。
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