第2話 アメリカで出合ったドイツ娘
1988年夏のある日、私は日本へ一時帰国する為、市内の自宅からボストンの空港へ向かいました。
国際線のロビーは、朝6時前ということで閑散としていました(誰もいない)。
チェックインする前にトイレに行っておこうと辺りを見回すと、長椅子(ソファー)に 一人の女の子が背もたれに右腕を枕にして物憂げに座っていたので、手荷物を見ていてくれるように頼んだところ、薄目を開けて肯いてくれました。
トイレから戻り、礼を言って低いテーブルを挟んだ彼女の前に座ると、「あなたはどこへ行くの ?」と聞いてきます。「日本。8時の飛行機なんだ」と答えると、「あら !」という感じで座り直し、「あなた日本人 ?」「日本人に会うのは初めてよ」と、それまでの面倒くさそうな顔から一転してニッコリ笑います。
「君は?」と聞くと「ドイツよ」「何時の飛行機?」「6時」。
それを聞いて、私は思わず椅子から飛び上がりました。柱にかかる大きな時計は5:55。「この子は、時差で時間を間違えている?」と思い、慌ててそのことを指摘しました。すると、彼女は大笑いして「夜の6時よ」と言うのです。
(そこから、約30分ほどいろいろと話し、最後にお互いの住所(私はアメリカの住所)を交換して別れ、私はチェックインに向かったのでした。)
わたしもまた「ドイツ人と話すのは初めて」だったのですが、つくづくドイツ人(ゲルマン民族)というのは面白い(興味深い)と、この時に感じました。
彼女のフライトが夜の6時ということを聞いた私は、「じゃあ、今日はニューヨーク見物でもするの?(シャトル便というバス感覚の飛行機便で45分程度)」と尋ねたのです。
すると、彼女はいかにもバカバカしいという感じで「No」。
じゃあ、ボストンはアメリカ発祥の地(独立戦争の発端となった)だから、歴史的な遺跡巡り?なんて聞くと、「アメリカに歴史なんてあるの?」と、素っ気ない返事。
彼女は1週間のバケーションを、ボストンからプロペラ機で1時間の、なんとかという島で大自然に触れるために来たのであって、アメリカという国や国民にはぜんぜん興味がない、ということでした。
第2次世界大戦で、同じアメリカに叩きのめされた日本とドイツで、どうしてこうも違うのかという点(というかこの女性)に、私は強く興味を覚えました。
浪人時代の私は、(現役で)専修大学へ入りアメラグをやっていた高校時代の同級生の影響もあり、「アメリカ大好き少年」だったのです。
この同級生は、マネージャーとして監督の運転手もやり、シーズン中は毎日のように生田のグランドと横田基地・赤坂のアメリカン・クラブやアメラグの協会を走り回っていました。当時、専修のアメラグの監督はウイリーというアメリカ軍の将校で、 シーズン・オフになると彼はちょくちょく夜10時頃、ウイリーを横田基地へ送った帰りに私の家へやってきて、赤坂のアンナ・ミラーズでパイを食べたり、軍艦パジャマ(赤坂の東急ホテルは軍艦の形をしてピンクの縞模様だった)へ、コーヒーを飲みに行ったりしていました。
学生時代の彼は赤坂・六本木が生活圏で、卒業後はアメリカへ留学したり、六本木のベルリッツという語学学校で支配人をやったりと、(浪曲なんか聴いている私とちがい)バタ臭い男でした。
そして、そんな彼の影響で、英語も話せないのにもかかわらず、私は大学4年生の春2ヶ月間、アメリカへ浸りに行くなんてことをしていたのです。
ところが、そんな私の前で彼女は、「あんなの芋ね」という感じで(アメリカを)鼻でせせら笑っている。
これは、私にとって(米国駐在員時代)最大のカルチャーショックでした。
背はあまり高くないが金髪碧眼で背筋が伸びた彼女は、まさにゲルマン民族という感じです。
その後、ドイツ旅行で彼女の家に泊めてもらったり、逆に彼女がアメリカへ来て一緒に旅行したりと、仲良くなりましたが、彼女の最大の魅力はそのスピリッツでした。
米映画「眼下の敵」のUボート(潜水艦)艦長が若い女性になったような、芯のあるしっかりとした人間で、背が高くアメリカ的ブロンド(染めている)でおっぱいが大きいだけのアメリカ女より、よほど存在感がある。ドイツの彼女の住んでいる街も家の調度品にも、重厚で歴史を感じさせる独自の雰囲気がありました。
彼女の母親と3人で、当時東西ドイツに分かれていたベルリンへレンタカーで旅行しましたが、10歳の時に敗戦で迎えたこの町の道をちゃんと覚えている母親と、その時から変わらないドイツの道路(区画)にも驚きました。
彼女によって、私のアメリカ一辺倒という幻想は大きく軌道修正され、バランスの取れた考え方になりました。
早い話が、英国だの米国だのとは、たかだか数百年の歴史しかない新参者・ガキであり、人間としてまだ熟(こな)れていない(血が混ざり合っていない)発展途上の生き物、というものの見方ができるようになった。
それまで「アメリカ崇拝」「天皇万歳」という、おめでたい「お花畑的脳みそ」だったのが、「桜の木の下には死体が埋まっている」という、事実を正しく見る・若しくは、見ようという心の姿勢になったのです。
後で聞いた話では、あの日は結局、朝5時半に○○島からボストン空港へ到着し、夕方6時のドイツ行きの飛行機に搭乗するまで、彼女はあそこにずっと座っていたのだそうです。
決しておカネがないわけではない。「アメリカのおかしな食べ物なんて食べたくない」「チャチな歴史的建造物なんて見たくない」という考えに忠実になれる、その「狂気」とも言えるほどの、ゲルマン民族のこだわり・直向(ひたむ)きさ・律儀で几帳面な気質に、私はいたく感動しました。
「三銃士」の本格版である「ダルタニアン物語」で「友を選ばば三銃士」という章がありますが、アメリカ人や韓国人、或いはそんじょそこらのチャラチャラした日本人にはない、浮ついていない、ルーツ(根)のしっかりした心と精神を持ち、真の友人になれるのがゲルマン民族だと感じます。(もっとも、こちら側も彼らと同じようにしっかりしていないと相手にされないでしょうが。)
彼女は、個人的に苦労してきた人間ということではなく(裕福な育ちのようです)、民族としてのとてつもない苦労・苦難によって形成されてきたかのような、形而上的存在感を持っていました。特に第2次世界大戦終了後は、なにかにつけ猶太人に「虐められてきた」彼ら・彼女たちですから、その辛酸は計り知れない。
そのことを思う時、同じように、従軍慰安婦だの徴用工だので強請られ・集られ(おどされたり泣きつかれて金品をまき上げられ、また、おごらされる。)ている現在の日本人は、虐められているという被害者意識ではなく、オレたち日本人はゲルマン民族と同じ道を辿っているのだ、という前向きで明るい意識・誇りを持つべきかもしれません。
どこかの国のような、マッチポンプ的(自分で地震を起こしておいて自分で助ける素振りをする)嘘の「友だち」ではなく、日本に不幸が起きると必ず大喜びする意地汚い人間たちでもなく、地球の反対側で同じ苦労を(日本の数十倍)している人たちこそ、真の友だちたり得る、と私は思います。
「遠くの親類より近くの他人」という諺がありますが、(ビジネスの関係では仕方ないとしても) 近くに住んでいるというだけのくだらない人間と付き合うよりも、地球の反対側に住む誇り高い民族と、一生に一度でも接していた方がよほど精神衛生上良いことでしょう。
2024年1月17日
V.1.1
平栗雅人
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます