第21話 救出

「お風呂入りたい……」


 神殿では毎日の入浴は当然だった。


 思えば贅沢な暮らしだったなあ、と震えながらアルテイシアは足踏みをした。動いて少しでも身体から熱を起こそう。嬉しいことに、ごはんはさっき食べたところだ。ひもじくないだけで、まだ生きる希望が湧く。


「いちに、いちに、いちに、いちに」


 手燭を持って暗い室内を歩く。こつこつこつこつ、とヒールが床をリズミカルに打った。


 窓の側を通ると冷気が強い。

 できるだけ離れようと思ったが、月の位置で時間が知れるかも、と時折外を覗く。


 そうやって、檻にいれられた野生動物のようにぐるぐると回っていたら、次第につま先の感覚がなくなってきた。


 仕方なく床に座り込み、手燭を置く。ずっと握り続けていたから、指が変な形で拘縮している。はぁ、と息を吹きかけて関節をほぐし、なんとか靴を脱ぐ。


 手燭を近づけると、踵がくつずれて真っ赤になり、足指もぴりぴりする。完全に歩きすぎだ。仕方なく部屋の真ん中で膝を抱えてうずくまる。できるだけ小さくなると、そのぶん身体に熱がこもるような気がしたが、肩も背中も震えすぎていたいぐらいだ。


 むき出しの足指を、寒さのせいで緩慢にしか動けない手でさする。そうしないと、あっさりと千切れてしまう気がした。


 聖モンテーニュ侯国に来てすぐは、この寒さが体に堪えた。マーガレットと身を寄せあい、泣いていたのを思い出す。


 マーガレットはいつも言っていた。

 ここがこらえどきですよ、と。


 きっと今がそうだ。


(……早く朝になれ)


 アルテイシアは、涙が滲みそうになる顔を膝にうずめる。はあ、と呼気を吐くとわずかにぬくもった。


 そうしてどのぐらい寒さを堪えていただろう。


 耳が足音を拾った。


 真っ先に考えたのは、幻聴だった。


 早くこの木戸を開けてという思いが実際に起こりえない音を聞いたのだと思ったが。

 その足音は徐々に近づき、そして声を伴っていた。


(朝……に、なるには……早いけど)


 窓を見る。

 まだ月光がレモン色の光で窓を濡らしていた。位置的に深夜だ。


「お待ちくださいっ」

「旦那様……っ!」


 複数の女たちの声はかなり切羽詰まっている。

 アルテイシアは、がたがたと寒さで震えながら木戸を見る。


 その向こうで足音が止まったからだ。


(な……なにが)

 起こっているのだ、と思う間に、木戸がすごい音を立てて揺れた。


 思わず悲鳴を上げ、お尻を床につけたまま、後ろにいざる。


 ごん、どん、と数度音がしている間、「か、鍵がございます!」とか「旦那様、これをっ」と女たちが必死に言っている。


 だが、ごとり、となにかが落ちる音がして、木戸に丸い穴が開く。


 外は明るいのか、その穴から光が差し込み、アルテイシアはドアノブがもぎ取られたのだと知った。


 ぎぃ、と。

 軋み音をたてて木戸が開く。


 アルテイシアは震えながらそれを見た。

 逆光でよくわからず、目をすがめる。

 次の瞬間、自分の身体は宙に浮いた。


「え……?」


 自分では呟いたつもりだったが、がたがたと歯の根が合わない今の状態では、どんな声も喉から漏れることはなかった。


 ただ。

 非常に温かい。


 そのぬくもりに惹かれるようにもたれると、鼓動が聞こえた。そっと顔を上げる。


 レオハルトだ。

 自分は彼に横抱きに持ち上げられている。


「ヨルマン! 毛布!」


 戸口にいた細長い影がさっと近づいて来る。ヨルマン執事長だ。


 レオハルトに抱えられてなお、がたがたと震えが止まらないアルテイシアを毛布でくるんでくれる。大きめの毛布はずっしりと重くはあったが、そのぶん冷気を跳ね返し、熱を中に閉じ込めてくれた。


 ほう、と。

 ようやく震えが止まり、アルテイシアはレオハルトの胸にもたれて吐息を漏らした。


「大丈夫か?」

 顔を寄せて尋ねられ、アルテイシアは頷く。


「でも、どうして」

 どうしてここに自分がいるとわかったのか。


「あいつらだ」

 レオハルトが顎を戸口にむかってしゃくる。


 携行式の投光器を持った顔見知りの騎士たちが次々に部屋に入ってきた。そのなかには、あの年上の騎士の姿も見える。おかげであんなに真っ暗だった部屋が非常に明るくなる。不思議なものでそれだけで体感温度が上がったようだ。


「お前が東館に移ったようなのに、女主人の間に明かりが入らないと連絡をくれてな」


 レオハルトが言う。アルテイシアが騎士たちに視線を移すと、目が合う。陽気に笑って親指を立てるから思わず吹き出して笑ってしまった。


 心配で見守ってくれていたらしい。


「ヨルマンを東館にやって、お前がどうしているのかナタリーに確認をさせたら『疲れて眠ってしまわれた』という。だがこちらが疑念を持っていると感じたのだろう。急に東館のいろんな部屋に明かりがついてまわって……。そんなとき、屋根裏らしきところでずっと蝋燭のあかりがついていることに気づいてな」


 ということは、彼は彼で騎士たちと東館の周りを歩き回っていたのかと思うと、じわりと心まで温かくなる。


 気遣い、見守ってくれているという存在がこんなに頼もしく、自分にとってぬくもりをもたらすものだとは。


 結果的に、レオハルトは女主人の間にアルテイシアがいないと判断を下したようだ。


 騎士数人と執事長、家令をつれて東館に乗り込んだ。


 当初、『旦那様は恋人とおっしゃるが、まだ結婚式前。未婚の女性のいるところに深夜殿方が来るものではない』とナタリーやメイドたちは必死にとどめたらしいが、レオハルトは押し切り、屋根裏に来てくれた。


「おれが用意した衣装はどこにある、ナタリーメイド長」


 ふわりとアルテイシアの身体が揺れる。


 ガチャリと拍車が一斉に鳴った。彼の背後で騎士たちも姿勢を正したらしい。

 レオハルトがアルテイシアを抱えたまま、戸口に向き直ったようだ。


 そこにいるのは。

 メイド長であるナタリーと、アルテイシアをここまで連れてきたメイドたちだ。


 騎士たちが持ち込んだ照明器具だけではなく、執事たちが廊下にも明かりをいれたのだろう。


 部屋も廊下も見違えるほど明るい。


 その光の下。

 メイドたちは顔色をなくして震えていたが、ナタリーだけが冷徹な表情のままレオハルトの視線をはじき返していた。


「この屋敷の正統なご主人のもとにお届けさせていただきました」


 両手を重ね、背筋を伸ばし、つつましく控えながらも、その声には頑迷な響きがあった。


「旦那様は、未来の奥方様にあの衣装をご用意したのだと思いましたので」

「それはこのアリだ」


 レオハルトの言葉に、ふ、とナタリーは目元をやわらげた。

 頑是ないこどもを見るような。そんな表情を作って口角を上げる。


「旦那様。一時の気の迷いで大事な決断をなさってはいけません。このスロイレン男爵家の悲願をお忘れですか? いつかは領地を取り戻し……」


「そういうお前は誰だ」


 ナタリーの語尾を力強く切り捨て、レオハルトは冷淡な言葉をぶつけた。


「旦那様。どうか目をお覚まし……」

「何度も言わせるな。お前の主人が、お前は誰だ、と問うている」


 再び問われ、ナタリーは目を伏せてわずかに頭を下げた。


「ナタリー・メルビンでございます。二十年前にスロイレン家に雇われ、現在はメイド長を拝命しております」

「誰から拝命した」


「レオハルト・スロイレン男爵様から承りました」


 レオハルトは目をすがめてナタリーを見る。彼女の周囲ではメイドたちが最前までのアルテイシアのように震えているというのに、当の本人だけは頭をわずかに下げた姿勢のまま微動だにしなかった。


「それではナタリーメイド長に尋ねる。このスロイレン男爵家の女主人は誰だ」

 ナタリーはひと呼吸おくと、じっとレオハルトを見据えた。


「旦那様がお連れになったその者は、娼婦です。わたくしはその者を『ご主人さま』とおよびすることはできません。どうか旦那様、まっとうなご判断を。この屋敷にふさわしいのは、ラミア嬢でございます」


「なるほど」

 レオハルトはひとつうなずいた。


「カイゼル家令」

「はい、旦那様」


 呼びかけに応じたのは、黒い制服を着た男だ。メイドたちを押しのけるようにして、屋根裏部屋に入ってきた。


「ナタリー・メルビンの職を解くとともに、解雇する。また、この件に関与したメイドをすべて解雇せよ」


「かしこまりました」

 カイゼル家令の返事に、メイドたちの悲鳴が重なる。

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