第16話 レオハルトの申し出

◇◆◇◆


 アルテイシアは、硬質な金属音にびくりと肩を震わせた。


 それはエニスも同じだ。

 昼間、傭兵たちに襲われかけたという話は彼女も聞いている。

 また不埒者が現れたのだろうか、と思わずふたりで身を寄せる。


 だが。


「おれだ。エニスが今日で仕事を辞めたいと言っていると聞いた。最後の挨拶を」


 厨房に姿を現したのはレオハルトだった。


 事務仕事をまだしていたのだろう。

 昼間とは違い、シャツにトラウザーズという軽装だ。腰ベルトには剣をつけていないが、足はひざ近くまであるブーツを履いていて、そこに拍車がついている。たぶん、これが鳴ったのだ。


「それはすみません……っ。私のほうがうかがわねばならないのに……っ」


 恐縮した様子でエニスが何度も頭を下げるから、レオハルトは軽く手を挙げてそれを制した。


「いや。理由が理由だ。身体を大事にな」

「ありがとうございます」


 ほっとしたのかエニスは笑う。アルテイシアも微笑みながら、エニスの手を握った。


「お子さんが生まれたらまた会いに行きますね」

「気の早い話だけどね」


 エニスがはじけるように笑う。アルテイシアも声をたてて笑った。


 子を孕むことが喜ばしいと思えるのは久しぶりだ。

 神殿ではよく依頼されて貴族の夫人に安産の祈願を行っていた。


 だが、偽聖女として追放され、娼館で過ごしてみれば、妊娠というのは非常にやっかいなものだった。喜ばしいとはいいがたい。


 それがなんとも辛く、アルテイシアは心苦しく思っていた。


(こんな風に喜べるなんて……あなたは幸せ者だわ)


 まだまったく膨らみもしていないエニスのおなかをみつめてアルテイシアは微笑んで心の中で話しかける。


 あなたのお母さんもお父さんもいいひとよ。だから元気に産声を上げてね、と。


「まだ仕事が残っているのか?」

 レオハルトに声をかけられ、アルテイシアは目を瞬かせて顔を上げた。


「ええ。もう少し片づけを」

「では、部屋に来るときにワインと水を持ってきてくれ」


 レオハルトはそれだけ言うと、入ってきたときと同じぐらい唐突に背を向けて厨房を出ていく。


「あとは私がやっておくからさ。ほら、あんた男爵を追いなよ」


 さて、仕事の続きに戻ろうかと腕まくりをしたら、ぐい、とエニスが盆を押し付けてきた。


 きょとんと目を丸くすると、すでに盆の上にはワインボトルとグラス。水差しが乗せられていた。


「昼間に怖い思いをしたんだろう? こんばんは男爵に思う存分甘えなよ」

 片目をつむってそういわれ、アルテイシアは顔を真っ赤にして首を横に振る。


「いや……あの、それは……えっと」


 自分たちはそんな仲ではないと言いたいが、一応ここでは『男爵の女』だ。それを否定するわけにはいかない。


「また改めて挨拶には来るからさ。今日はここであがりな」

 エニスにしきりに勧められ、アルテイシアは思い出す。


(そうだ……。娼館の件。このあとのことをもう一度男爵と話し合わないと……)


 このままだと自分は侯都に連れていかれてしまう。

 アルテイシアは申し訳ないと思いつつも盆を受け取った。


「それじゃあ、エニスさん。またお会いしましょう」


 アルテイシアが会釈をすると、エニスは笑って手を振ってくれた。


 盆を持ち、廊下に出る。

 厨房より格段にそこは温かい。


 寒風が遮断されているからだろう。厨房は煮炊きしているときは温かいが、どうしても換気のために窓を全開にしなくてはならないせいで冷えるときは一気だ。


 休日だからか、廊下でバカ話をしたり騒いでいる団員が多かった。

 目が合うたびに「今日もごちそうさん」「いつも旨いめしをありがとう」とみんな気さくに礼を言ってくれる。そのたびにアルテイシアは律儀に「ありがとう」と頭を下げた。


(みんながみんな、団員さんみたいだったらいいのに)


 昼間の傭兵たちを思い出し、ぶるりと身体を震わせる。


 男爵はさっさと自室に引き上げたのだろう。姿も見えない。

 アルテイシアは警備の騎士たちに声をかけて階段を上がった。

 二階は比較的上位の騎士や銃士しか使わないせいか、廊下には誰もいない。

 盆の上のグラスやワインを落とさないように気を付けながらレオハルトの部屋に進んだ。


「男爵。アリです」

 片手に持ち直し、ドアノックを三回。声をかけるとすぐに「入れ」とレオハルトの返事があった。


「失礼します」

 そっと扉を開くと、すでにレオハルトは執務机で仕事をしていた。


「ワインとお水を持ってきました」

「そっちのテーブルに置いておいてくれ」


 視線は紙に落とし、手はペンを走らせたままレオハルトが答えた。

 アルテイシアは言われた通り、ソファセットのローテーブルに盆を置き、静かに執務机に近づく。


「なんだ」

「あの、昼間の話なんですが……」


「どの」

「私が侯都に同行する、という」


「その話なら、ウルバスから報告があった。娼館とはもう話がついている」

「ついてる……っ!」


 ぎょっとして声が上ずる。ということはもう、自分は娼館から解雇されたということか。


(このままじゃ、本当に侯都に連れていかれる)


 男爵の女、としてだ。


 そんな不安定な身分でまったく見ず知らずの土地に連れていかれても困る。いずれ男爵の執着が減じれば、自分は放り出される。それは確実だ。そのときに、侯都に自分ができる仕事はあるのだろうか。生活していけるのか。


 だったら。

 この辺境に置いて行ってもらうほうがまだ仕事や顔見知りがいる。


(仕方ない……)

 アルテイシアはこぶしを握り締める。


 男爵が自分に執着しているのは、どうやら「処女を奪ったから」のようだ。


 であるならば、それは本当のことではない、と知らせるしかない。

 だましたのか、カネを返せ、と言われれば少しづつ返済をするからと交渉をしよう。男爵からもらったカネはほとんどマーガレットの葬儀に消えてしまったのだから。


「あの……」

「なんだ」


 カリカリとペンが紙の表面を掻く音を聞きながら、アルテイシアは覚悟を決めた。


「あの晩のことなんですが、男爵にお伝えしなければならなくて」

「あの晩?」


「その……男爵と初めて会った娼館の……」

「まさか」


 レオハルトはようやくぴたりと動きを止め、青ざめた顔でアルテイシアを見上げた。


「……まさか子ができたとか……?」

「ち……っ、違います!」


 慌てて首を横に振ると、目に見えて彼は安堵した。

 ペンを投げ出し、片手で目のあたりを覆って深く息をついている。アルテイシアは場違いにもなんだか笑い出したくなる。この男爵様は本当に律儀だ。娼婦にここまで義理を果たす男を初めて見た。


「その……実は言い出しにくかったのですが……」

「なんだ」


 レオハルトは立ち上がり、ソファセットに近づいた。一気に喉が渇いたのかもしれない。水差しを持ち上げ、グラスに注いでいる。


「実は、最後までしてないんです、わたしたち」

「は⁉ うおっ!」


 どばばばばばば、とグラスから水があふれ、男爵は慌てて水差しを起こした。アルテイシアも慌ててエプロンからハンカチを取り出してテーブルに足早に近づく。


「な……? え? なんだと?」

「いや、だから。男爵は……まあ、いろいろとなさったんです」


 床に両ひざをつき、テーブルの水を拭きとりながら、アルテイシアは力強く言う。


「私をおなかの上に乗せて激しく動いたり、抱きしめて身体を撫で……」

「詳細はいいっ」


「ですが、途中で眠ってしまって……。最後までしなかったんです」


 水があふれんばかりに入ったグラスをそっと手に持ち、アルテイシアはゆっくりと立ち上がる。

 目の前には水差しを持ったまま呆然と自分を見つめるレオハルトがいた。


「なので……その、私に対してなんら申し訳なく思うことはないんです、男爵」

 ちょっとだけ小声になりながら、アルテイシアは男爵にグラスを差し出した。


「だ……だが、シーツに血が……」


 まだどこか上の空でレオハルトはグラスを受け取る。代わりにアルテイシアは彼の手から水差しをもぎ取った。


「あれは男爵の背中の傷です。まだふさがっていなかったでしょう? 魔獣にやられた、とか」

「あ……」


 呟いたきり、レオハルトはしばらく無言でアルテイシアを見つめた。


(……怒鳴られるかしら……)


 この嘘つき野郎、と殴られるかも。最悪銃で撃たれたらどうしよう。

 そんなことを考えていたら徐々に額に汗が浮かび始めた。


「男爵は何も覚えておられなくって……。その、もし代金を支払ってくださらなかったらどうしようと……。あのときはマーガレット……じゃない、メグに薬を買いたかったし、そのあとは葬儀や墓の購入のことがあって。どうしてもお金が必要で……。なので、男爵はお断りなさったでしょうが、娼館に戻ってまた働きますので、少しずつ返済します。だから」


「おれはお前の意思に関係なく純潔を奪ったわけではないのだな?」


 腰を折り、顔を覗き込むようにしてレオハルトが尋ねる。その際、だばり、とまたグラスから水がこぼれたが、レオハルトもアルテイシアも気にはなしなかった。レオハルトは殺気に満ちた気配を発してアルテイシアに詰め寄っているし、アルテイシアはその勢いに飲まれて真っ青な顔のまま何度も首を上下に振った。


「ないです。男爵は最後までなさいませんでした」

「……よかった……」


 言うなりレオハルトはよろよろと近くのソファに座り、グラスの水を呷った。


「あ……あの、お金のことですが……」


 ととと、と足音をたててレオハルトの向かいに回り、アルテイシアはぎゅっと水差しを抱きしめる。


「そんなものはかまわん。一晩お前を買ったことは確かなんだから」


 はは、とレオハルトは気が抜けたように笑った。

 グラスの水は大半飲みほしたらしい。


 片手で揺らしながら、片手でソファのひじ掛けに頬杖ついてアルテイシアを見上げた。


「お前がいくら合意したとはいえ、客と娼婦の間柄だ。いななどと言えない状況でお前に手を付けたのなら申し訳ないとずっと思っていたから……。よかった」


 怒っていないどころか、安心されてしまった。

 拍子抜けしてアルテイシアはレオハルトを見つめる。

 その視線の先で、彼は、にっと笑う。


「ならば今度は合意の元、そういう仲になるか?」

「いや、それとこれとは別問題ですから! というか……なので、もう私、男爵の女じゃないでしょう?」


 前のめりになって訴えるのに、レオハルトはきょとんとした顔のままグラスを揺らしている。


「どうして。おれはお前を気に入っている。おれの女であることは変わらん」

「いや、変わって! そこは変わってください!」


「それにこのままお前を手放すことはできんしな」

「手放してください!」


 必死に訴えるアルテイシアに、ふむ、とレオハルトは鼻からひとつ息を抜いた。グラスに残る水を飲み干し、足を組む。かちゃりと踵につけた拍車が鳴った。


「お前はずっと娼館で仕事をするつもりなのか?」

「え……? それは、まあ……」


 そこしかアルテイシアにとって安全な場所はない。母国を逃れてこの国に着て2年がたつが、自分が世間知らずであることは自覚している。 


 うっかり自分の知らない場所に出てしまうと、だまされて身ぐるみはがれる可能性があった。


 それに、つてもなにもなく仕事を探したところで、足元を見られておしまいだ。


「おれについて侯都に行けば、なにか別の仕事を紹介してやることもできる。もちろん、おれが後ろ盾になってやってもいい」

「え……?」


 それは思ってもいなかったことだ。


 スロイレン男爵が身元引受人となれば、娼館よりももっと安全で条件のいい仕事が見つかる可能性はある。


「その代わり、しばらくの間、おれの女として行動してほしい。それが条件だ」

「その……。お申し出はとてもうれしいのですが、それは男爵にとってなにかメリットがあるんですか?」


「おれ? ……すまん、水をもう一杯」


 グラスを差し出され、アルテイシアは水差しから水を注ぐ。今度は適量を。


「私は……その娼館で働いていた娘です。男爵との出会いも、娼婦として、でした。そんな娘を自分の愛人として紹介して……それで男爵にとってなんの価値があるんですか?」


 それこそ彼ならば、自分の地位にふさわしい女をよりどりみどりではなかろうか。


「いま、おれ自身に見合い話が持ち上がっていてな。何度も断っているんだがしつこいんだ」


 わずかに眉根を寄せて水を飲むレオハルトは、意外なことを言い出した。


「ちょうどそいつがお前とは真逆でな。侯都に行き、おれの女だとお前を見せれば少しは引き下がるだろう。その迷惑料として、お前がなにか仕事を探したければ協力はする。もちろん」


 レオハルトはにやりと笑う。


「本当におれの女となり、妻となれば別に仕事を探すことはないと思うが」

「それはないでしょう」


 アルテイシアは一笑に付す。


 ミリオシア王国でのアルテイシアならまだしも、いまはなんの身分もカネも持たない〝アリ〟だ。男爵の彼とは釣り合わない。


(割り切って仕事として考えればそう悪いものではないかもしれない)


 レオハルトの恋人として紹介されれば知己も増え、それがなんらかの仕事につながるかもしれない。


 しばらく水差しを抱えて考えていたアルテイシアは、決断した。


「わかりました。男爵のお申し出をお受けします」

「交渉成立だ」


 レオハルトはグラスを掲げ、一気に水を飲みほした。


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