第15話 アリの歌声

「とにかくアリを侯都に連れて行く。屋敷に連絡はしたか?」


 話を終わらせるつもりでレオハルトはウルバスに問う。ウルバスは横柄に鼻を鳴らし、腕を組んだ。


「ええ。屋敷の連中が納得しているかどうかはしりませんけどね」


 そのいい方にひっかかりは覚えたものの、レオハルトは頷いた。さて、と机に放ったペンを手に取っていると。


「それと」


 ウルバスが続ける。レオハルトは瞳だけ移動させて忠実な部下を見た。


「あのアリという女がどこからどうして、どんな理由でこの国にやってきたのか、調べさせています」

「どうやって」


「あの女。死んだ下女の肉親に手紙を送ったようじゃないですか。あのあとを追跡させています。近日中に団員から報告があるでしょう」


 ウルバスは一定の声音のまま続ける。


「もしそれであの女がよからぬ類のものであれば……。遠慮なくぼくが撃ち殺しますよ」


 片眼鏡の表面を、照明の光がつるりと撫でる。


「男爵の未来のために」

「……わかった」


 レオハルトはため息をついて立ち上がった。ぎし、と椅子の足が床を掻く不快な音が室内に響く。


「厨房に行く。いまならまだエニスがいるだろう。ひとこと挨拶をする」

「さようで」


 ウルバスは大げさに頭を下げてみせると、レオハルトのために大きく扉を開いた。


 そのまま廊下に出て、建物中央の階段を降りる。


 休日だったせいか、比較的ラフな格好の団員が廊下で談笑をしていたり、部屋の扉を開けて騒いだりしていたが、レオハルトの姿を認めると誰もが居住まいを正して敬礼をする。


 傭兵たちの一件を聞いているのだろう。


 迷わず撃った。すべて的中。


 改めてレオハルトの腕前に驚嘆するとともに、ホルスターに拳銃をおさめたウルバスが付き従っているのを見てあきらかに緊張の色をにじませている。


 ただ、一方的におびえているのかというとそうではない。

傭兵達あいつら、団長の女に手を出そうとしたらしい。だったら仕方ねぇよな」と誰もが思っているようだ。


 団員たちの敬礼に返礼しながら、レオハルトは一階東端にある厨房に向かった。

 食堂ならまだしも、食事を終えたあとの厨房というのは団員たちにとって興味がないようだ。


 人影は全くなく、廊下の照明も極端に落とされている。

 これはこれで警備上どうなのか、とわずかに眉根を寄せながらレオハルトは背後にいるウルバスを振り返ろうとした。


 厨房には女しかいない。またなにかあってはややこしいから、もっと照明を増やすか警備の人を置くように。


 そう言おうとして口を閉じる。

 厨房から声が聞こえてきたからだ。


 顔を前に向け、厨房を見た。

 扉が開け放たれているらしい。


 そのせいで、近づくにつれて灰と熾火の香り。それから湿気を感じる。


「え。エニスさん、辞めちゃうんですか!」

「うん。今日、副団長のウルバスさんに伝えたところ。団長さんに話を通して……それから正式にそうなると思うんだけど」


 別に立ち聞きするつもりはないが、なんとなく足音を忍ばせて戸口のそばで身をひそめる。ウルバスもそれに倣ってレオハルトにぴたりと寄り添った。


 そっと中をうかがう。


 厨房の中も廊下と大してかわらない明度だ。

 煙を抜くためだろう。随分と冷えた風が厨房から廊下へと抜けていく。ふと、アリの手の冷たさをレオハルトは思い出した。


「後任には、ニアって娘が来ると思う。わたしと同じ村の娘でね。いい子なの。アリともうまくやれると思うわ」


 竃の灰を中腰でかきだしながらエニスが言っている。


「それは……あれなんですが。どうしてですか? なにか私……気に障ることをしました?」


 大鍋の持ち手を壁のフックにかけながらアリが答えている。


 金色の髪はこんなに薄暗い中でも豪奢な光をたたえていた。

 白く抜けるような頬は寒さのために上気し、晴天を切り取ったような青い瞳は不安げに揺れている。


 着ているものは非常に粗末で、ところどころつぎをあてたスカートに洗いざらしのブラウス。その上からつけているエプロンなど、油じみがいくつもついている。


 宮廷で見る華やかな貴族の女子たちとは大違いだ。


 体形は貧相で、化粧っ気がないせいか、顔立ちだって地味だ。大きすぎるあの青い瞳としみひとつない白い肌をのぞけば、男うけするような容姿を持っているわけではない。


 それなのに、レオハルトは彼女を見るたびに、清浄な泉を連想する。

 透明度が高く、静かで清らかな。

 そんな気配が彼女にはあった。


「違う違う。なんかね、わたし妊娠してるかもしれなくって」

 エニスは立ち上がると、嬉しそうにアリにそういった。


「まあ! おめでとうございます!」

 アリは目を大きく見開いて両手を合わせている。


「まだ『おめでとう』って言われるのは早いかもしれないし、旦那の……ロイからももっと待ってから周囲に伝えるべきだ、とは言われてるんだけどさ。というのも、わたし、何回も流産してて……」


「それは……お辛い経験でしたね」

 途端にアリの肩がしょぼんと落ちた。エニスは苦笑する。


「生理が来ないな、これは妊娠したかも、って思って数週間たったら、どろっと……。ひどい出血が始まって……。産婆に相談したら、たぶん流れたんだろう、って。そんなことを繰り返してたんだけど。だけどね、今回は違うと思うの。だから大事をとって早めに家でゆっくりしておこうとおもって」


 エニスは自信に満ちた顔をアリに向け、そっと自分の腹部に右手をやる。


「この子、育ってるって感じるの。っていうのもね、なんかいつもと違うんだ。痛いところも……なんていうか腰が重だるいところもないんだよね」


「そうですか。では今度こそ、ですね。頑張らなきゃ」


 ぐ、とアリが両こぶしを握り締める。なぜおまえが頑張るのだ。知らずにレオハルトは自分が微笑んでいることに気づいた。


「わたしさ、昔っからこう……勘が良いというかあれなんだけど」


 アリの反応がおかしかったのはエニスもそうらしい。ひとしきり笑ったあと、アリに向き合う。


「たぶん、アリと出会ったからこの子は育っているんだと思う。そんな気がするんだよね。なんかさ、あんたの側にいると体調がいいんだよ」


「私……ですか?」

 不思議そうにアリが小首をかしげる。エニスは大きくうなずいた。


「毎年冬には冷えに困るのに、今年はなんかぽかぽかしている、というか。いや、寒いのよ? いまだって手は冷たいし、足先も冷えるんだけど、なんかこう体の芯はあったかい、っていうか……。とにかくさ、それってあんたが側にいるからのような気がして」


「そう、ですか? 自覚はありませんが、お役に立てたのならうれしいです」


 にこりとアリは屈託なく笑う。


 こんな笑顔をよくアリは浮かべるが、レオハルトはそれをみるたびになんだか抱きしめたくなる。あやうさを感じるのだ。あまりにも素直すぎて、まるで世間には悪意を持った者などいないのだと思っているのではないかとさえ感じる。


「それでさ。気の早い話で笑っちゃうんだけど。もし、この子が女の子だったら、あんたの名前をもらっていいかな? あやかりたくってさ。アリにしようかなぁって」


「え……名前、ですか……」


 アリの声音が変化したことに気づいたのは、レオハルトだけではない。ウルバスもエニスも目をまたたいている。


 てっきり、アリのことだ。「光栄です」とか「恐縮です」と続けたあと、「でもロイさんとよく話し合ってくださいね」と言うのだと思ったが。


「わたしは……あまり運がいいとは言えません。もっと縁起のいい名前をつけるべきです」


 きっぱりと。

 彼女にしては固く、緊張に満ちた声で応じた。

 その様子にエニスは言葉を失っている。


「ですが、その子のために祈らせてもらえませんか? 無事この世に生まれて、そしてエニスさんも健康で。ロイさんと三人、健やかに生活できますように、と」


 場の雰囲気に気づいたのか、どこか取り繕うようにアリはやわらかく提案した。


「ただ、あの。お気づきだろうとは思いますが、私はこの国の人間ではなくて……。私の国の神様にお願いすることになりますが……」


「もちろん。大歓迎よ」

 エニスも大げさにうなずく。


 アリはエニスと向かい合うと、土間だというのも気にせず、両ひざをついた。

 エニスはおっかなびっくりそんなアリを見下ろす。


 アリは両手を組み合わせ、目を閉じた。

 首を垂れる彼女の桃色の唇から紡がれるのは、隣国ミリオシア王国の言葉だった。


「母なる神イライネーゼ。あなたの忠実なしもべたるアルテイシアよりかく申し上げる」


 エニスはきょとんとした顔をしているが。


 レオハルトはちらりとウルバスに視線を送る。

 ウルバスも片眼鏡の奥の瞳を細めてアリをみつめていた。


 その先で、アリは流暢な母国語で祝詞をあげると、組み合わせていた指をほどき、そっとエニスの腹に手を添えた。


 そして、静かに大きく息を吸い込むと。

 やわらかな声で歌い始めた。


 しばらく。

 誰もがその声に。

 歌に。

 聞き惚れる。


 声は高く澄み、静かに空気にしみわたり、ゆっくりと心へと落ちて。

 ぬくもりを広げていく。


 そうやって。

 やわらかな温かさに包まれて。

 誰もがアリの歌声だけを聞いていた。


「母なる神イライネーゼ。どうかどうか。この小さき命に加護を」


 ふ、と。

 歌声は終わり、アリはそう締めくくった。


「ウルバス」


 小声でレオハルトは腹心を呼ぶ。厨房の中では、高揚したエニスがアリを立ち上がらせながらしきりに礼を言っていた。


「隣国の神殿を探れ」

「同じことを考えましたよ、男爵」


 ウルバスの声はわずかに震えていた。


「ちょっと……この件、ぼくが直接調べてもいいですか? 男爵のそばを離れることになりますが」

「おれは構わん」

「では」


 言うなりウルバスは身をひるがえし、廊下を駆ける。

 その物音に気付いたのだろう。


「誰?」

 エニスとアリが身を寄せ合うようにしてこちらに顔を向けていた。


「おれだ。エニスが今日で仕事を辞めたいと言っていると聞いた。最後の挨拶を」


 遠ざかるウルバスの足音を聞きながら、レオハルトは厨房に一歩踏み込んだ。


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