第13話 おれの女が娼館に戻るのはおかしい
アルテイシアの涙を散らすように。
重低音の爆発音が鳴り響いた。
地鳴りのような、だけど破裂したようなその音は。
同時に男の悲鳴も引き起こした。
アルテイシアの腕を掴んでいた男が地面をのたうち回った。
乱暴に引っ張られて痛む肘を抱えるようにしてアルテイシアはそのさまを茫然と見つめていた。
だが。
すぐに「今逃げなくては」と気づく。
反射的に足を動かしたのだが。
ズボンを引っ張る男の手が邪魔だ。
アルテイシアの動きによって、男も我に返ったらしい。
「な……」
アルテイシアのズボンを引っ張っていた男が中腰になった。
同時に、さっき聞いた重低音の音が再び轟き、男がまたもんどり打って地面に伏す。
アルテイシアはまた呆気にとられて泣きわめく男を見ていたが。
鼻腔を火薬のにおいがかすめた。
つられるように顔を向ける。
自分が歩いてきた方。
湧き水が流れ出す方。
樫の木が大きな枝を広げ、葉陰を作る方。
寒風が魔境に吹き渡り、火薬の香りがさらに濃く臭う。
葉が揺れたせいで、陽の光がアルテイシアの目を刺す。
手でひさしをつくると、近づいて来るふたつの影が見た。
「団員への暴行だけではなく、俺の女にちょっかい出すとはいい度胸じゃねぇか」
まだ煙の上がるライフルの銃口を下し、うなるのはレオハルトだ。その隣では片眼鏡を押しこむようなしぐさをしながら、ウルバスが苦笑を浮かべている。
「日中の飲酒にけんか、団長の女への不敬と……。うちの団員なら絶対しないことを、まあよく次々と……」
野犬でも追い払うようにウルバスは手を振った。
「ほら、お前は元気だろう。他のふたりを担いで自分で営倉に行け」
「う……うあああ!」
だが、もうひとりの男はあっさりと仲間を見捨て、背を向けて逃げ出す。
瞬間、ウルバスの右手が拳銃に伸び、素早く撃鉄を起こして構えるや否や、男の足を打ち抜く。
男は悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。
「大丈夫か、アリ」
レオハルトがライフルから手を離した。スリングがついているらしく、ぐいと押し込むようにして背中側に回して近づいて来る。
「ひとりにして悪かったな。せめてウルバスを……」
つけておくんだった、と聞いた時には、アルテイシアは彼に抱きついていた。
ぎゅ、と彼の軍服に顔を押し付けると、硝煙の匂いに混じって彼自身の香りが胸を満たす。
満たされた分。
涙が目から押し出された。
あれだけ声が出なかったのに、喉からは嗚咽どころか子どものような「うわあああああん」という泣き声があふれ出てくる。
「怖かったな。悪かった、おれが悪かった」
レオハルトが両腕でしっかりと抱きしめ、耳元でそんなことを言うからさらにアルテイシアはさらに大声で泣いた。
◆◇◆◇
アルテイシアはレオハルトに促されておおぶりの石の上に座らされてもなお、ぐずぐずと泣いていたが、ウルバスが傭兵たちを蹴って宿舎の営倉にぶち込み、戻ってくるころにはなんとか話せるぐらいまでに回復していた。
泣いている間もレオハルトはずっと背中をさすり続けてくれていたが、泣き止んだいまもアルテイシアにぴたりと寄り添っている。
「保護者ですか、あんた」
その様子を見て、ウルバスは腕を組んで呆れかえっているが、レオハルトは離れる気はないらしい。
「だいたいお嬢ちゃん。君もいい加減泣き止みなさいよ。子どもでもあるまいし、恥ずかしいなぁ」
「酔っぱらった男3人に絡まれたんだ。怖かったんだから仕方なかろう」
「
「お前が魔獣3匹に囲まれて泣いていても、おれは慰めてやるぞ」
「慰めるより先に助けて、それは」
軽口の応酬を繰り返しているふたりの会話を聞いて、ようやくアルテイシアの心は軽くなってきた。くすりと笑って頬を濡らした涙を手で拭う。
「もう平気か?」
レオハルトに顔をのぞきこまれて尋ねられる。
途端になんだかずっと泣いていた自分が、ウルバスの言う通り恥ずかしくなってきて顔を赤らめて小さく頷く。
「だからぼくは反対だったんですよ、女を宿舎に常駐させるのは」
片眼鏡を目に押し込みながらウルバスが鼻を鳴らす。
「こうやって面倒くさい状況が生まれるんですから」
「おれの騎士団だけだったら問題なかった」
「そうですね、だけど今回は〝おれの騎士団〟以外もいるって知ってたでしょうに」
ぷい、とそっぽを向いた拍子にアルテイシアと目が合う。途端に眉根を寄せて睨まれた。
「けんかの原因、お嬢ちゃんだから」
咄嗟になにを言われたのかわからなかったが、「ウルバス」と低くレオハルトが注意を促したことにより、気づく。
あれだ。
魔境へ出発する前に発生したけんか。
あのことだ。
「いつもは女性なんて同行させないもんだから、騎士団のやつらも浮ついてさ。だから余計に傭兵のやつらがお嬢ちゃんに興味示しちゃって」
ぶつぶつとウルバスが説明するには。
アルテイシアに酒の相手をしてもらおうと、傭兵が言いだしたらしい。
それを聞いた団員たちが『団長の女にそんなことをさせられない』と阻止しようとし、いざこざに発展。
暴力行為にまで及んだため、慌てて団員がウルバスやレオハルトに報告にきたのだという。
「その段階では、団員と傭兵が酔っぱらってけんかした、としか聞いていなかったから……。内容を知っていたら、お前の側に誰か置いておいたんだが……」
すまなそうにレオハルトが言うから、アルテイシアは慌てて首を横に振った。
「そんな……。もともとわたしが男爵に無理言って連れてきてもらってるんですから」
「そうだそうだ」
「ウルバス」
じろりと睨まれてもウルバスは平気だ。顎を上げるようにしてアルテイシアを見下している。
「お荷物なんだよ。できれば厨房から出てこないでもらえる?」
「確かにいろいろご迷惑をかけたかもしれませんが」
さすがにむっとしてアルテイシアは立ち上がる。
「厨房から出てきたことでわかったことがあります。男爵」
片足を伸ばすようにして石に座っている男爵に顔を向けた。
「なんだ」
「汚染された水脈が復活したという証拠が欲しいとおっしゃってましたよね」
アルテイシアの言葉に、レオハルトは珍しく驚いたような顔をした。
それはウルバスもそうだ。
「……そんなことをこのチビに?」
「誰がチビよっ」
アルテイシアがウルバスに噛みつくが、レオハルトは困惑したまま形の良い顎を摘まむようにして一生懸命記憶をたどっているようだ。
(……あ。酔っぱらっていたから……)
アルテイシアにレオハルトが魔境のことを語ったのは、娼館の夜のことだ。
「……あの日のことを、やっぱり覚えておられないんですねぇ」
アルテイシアとしては、あらためて胸をなでおろしたところなのだが、レオハルトは狼狽えた。
「いや、覚えている! うん、あの晩のことだな! うん! わかっている! みなまで言うな、すぐに思い出すからっ」
「あんた最低だな。責任取るだなんだ言ってて、結局なんにも覚えてないなんて」
ウルバスにまで白い目で見られ、レオハルトは顔面蒼白になって冷や汗を垂らしている。
「あのとき、男爵はおっしゃったんです。『おれのことを王都のやつらは嘘つき呼ばわりするが、ここ数年、劇的に魔獣が減っている』『水脈が復活した。きっといい作物が育つ』って」
レオハルトが正確な記憶をよみがえらせても困るので、アルテイシアはさっさと説明することにした。
「そうだ。復活した水脈についても『もとからあったものだろう』とか『偽装したのでは』と」
レオハルトが頷き、顔をしかめる。
「この水源は確かに一度汚染され、それから清浄を取り戻したものです」
アルテイシアは目の前を流れる小川を指差す。
「そんなのぼくも男爵もご存じだよ。だけど侯都のやつらにそれをどう証明するのさ。『この泉、もとからキレイだったんじゃないの?』って言われておしまいだよ」
うろんな顔のウルバスに、アルテイシアは枯れたガーダマを指差し、近づいた。
「この植物です。これは沼地や澱んだ水地に自生します。これが生えていたということは、もともとこの水場はそういった水質だったということ。たぶん、魔獣の糞尿で汚染されたためでしょう。だけど」
アルテイシアはレオハルトに視線を向けた。
「なんらかの理由で魔獣が減った。そのため汚染すべき物質がなくなり、水源は清らかさを取り戻しました。そのため、いままで成育できていたガーダマなどの沼地に生える植物が死滅し、代わりに多様な植物が戻ってきたのです。レイブンの群生地あとも確認しました。そこも復活しつつある。さっき小石をどけたりしたら川エビがいました。これを餌に魚も戻るでしょう。魚が戻ると、鳥が来る。鳥が来るとどうなると思います?」
ぽかんとしているレオハルトに、アルテイシアは笑いかける。
「もっともっと植物が増えるんです。鳥はいろんなところで植物の
ここはもう魔境ではなくなる。男爵がおっしゃっていたように、ここに人が入植できるのです」
アルテイシアはくるりと背を向けて小川を見た。
「北の方にこの小川は伸びていますが……。ひょっとしたらまだガーダマのような植物の痕跡をみつけることが可能かもしれません。それを採取し、侯都に持参するか紙に書きつければ……」
「お前はこの仕事が終われば娼館に戻るんだったな」
アルテイシアの言葉を遮り、レオハルトがそんなことを言い出す。
「え……? そうですね。娼館主とはそういう約束をしています」
「お前、娼館に売られているのか? 労働契約を結んでいるだけか」
「労働契約を……結んでいます。住み込みで厨房の仕事をする、という」
なんだろう、この話はどこにむかっているのか、と訝しみながらアルテイシアは返事をする。レオハルトはひとつ頷くと、ウルバスに視線を転じた。
「娼館に売られているのなら、買い取ろうとおもったが……。なるほど。ウルバス。では娼館に誰か連絡員をやれ。労働契約は破棄。アルテイシアはおれが侯都に連れて行く」
「「は⁉」」
目を剥いてレオハルトに詰め寄ったのはアルテイシアだ。ウルバスも素っ頓狂な声を上げはしたが硬直したまま動かない。
「よく考えたら、おれの女なのになんで娼館で働いているんだ。おかしいだろう、ウルバス。そう思わないか。厨房で働いているとはいえ、なにかあったらどうするんだ。これは手元で保護しておかねばならんだろう。なあ、ウルバス。というか、聞いているのか、お前」
「……聞いてますが、なんと言えばいいのか……」
とうとう頭を抱えて呻いた拍子にウルバスの顔から片眼鏡が地面に落ちる。「あああ、もう最悪」と言いながら拾うウルバスを押しのけ、アルテイシアは怒鳴る。
「いや、私、男爵の女じゃないですからっ!」
両こぶしを握り締めて顔を上げ、胸を張る。
「そりゃ、一晩過ごしましたが……っ。それは商売として、ですからね⁉ だいたい、そんなこと言ったら、いままで男爵が買われた娼婦はみな、男爵の女ですか⁉ 違うんでしょう! いまもあの娼館にいるんだったら……」
「たわけ。おれが気に入ったんだから、おれの女だ」
呆気にとられているアルテイシアの代わりに、ウルバスが「がーん……」と呟いて片眼鏡を拾い上げた。
「……男爵。あんた……。今年が一番大切な六年目だということをわかって言ってるんですか……」
ウルバスが睨みつけるが、レオハルトは一顧だにしない。
「とりあえず、そういうことだ。今日はいったん戻るぞ」
レオハルトはそれだけ言うと、「いやだ」「侯都なんて行かない」「そもそも私は男爵の女じゃない」と怒鳴り散らすアルテイシアの腕を引っ張って宿舎へと帰って行った。
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