第7話 新しい聖女の名前
(ここね)
教えられた扉の前で足を止める。
ふと、扉の下から光が漏れていることに気づいた。もう、レオハルトは在室しているらしい。
再度片手に盥を持ち直し、三度ノックする。
「アリです。入っても?」
「かまわん」
低い声。
アルテイシアはそっと扉を開き、中をうかがう。
照明のせいか廊下より随分と明るい。
入ってすぐに目に入ったのは机。
レオハルトはそこでなにやら書類に目を通してはペンを走らせている。堅苦しい軍服は脱いで、シャツ姿だ。それもボタンを大分外したラフなものだった。おまけに、机のわきには革の
顔を左に向けると三人掛けのソファがあり、その奥にはベッドがあった。足元には今朝、アルテイシアが持って来た旅行鞄があるがレオハルトのそれは見当たらない。
(あ。クローゼットか)
顔を右に向けると壁に作りつけてあるクローゼットが見えた。そこに仕舞っているに違いない。
(まあ……。上着とか、皺になるもんねぇ)
アルテイシアが持って来ているのは質素なワンピースが1枚だ。別に皺や型崩れなど気にするような服ではなかった。
「早く入れ」
短く命じられ、慌ててアルテイシアは部屋に入る。
『男爵の女だから。部屋は男爵と一緒に使って。そうじゃないとおかしいし』
ウルバスからはそう言われているが、実はまだ半信半疑だった。本当に自分はこの男と同室でいいのか、と。
「おれはまだ事務仕事をする。勝手にくつろいで、勝手に寝てくれ」
書類に目を落としたままレオハルトは言う。
(……本当に、一緒に使うのね……)
まぁ、エニスが言う通り、女が一人で部屋にいるよりは安心かもしれない。
「あの……。ソファに座っても?」
「ああ」
そっけない返事を聞きながら、アルテイシアはソファに近づく。
さて足湯を、と思ったがタオルだ。
へこんで傾きそうになる金盥を慎重に床に置き、旅行鞄からタオルと分厚目の靴下を引っ張り出す。
ソファに戻り、念のために端っこに座って
そっと金盥に足を入れると、じんわりとした温もりが爪の先から足裏に広がる。
(あー……。なんならアロマオイルとか欲しいなぁ……)
腰を曲げて、金盥に浸った足の小指を特に念入りにマッサージする。いつもここからしもやけになるのだ。おまけに慣れない場所で立ち歩いたからだろう。指のつけねが随分凝っていることに気づいた。
「……それはなにをしている」
不意にそんなことを言われて顔を上げる。
レオハルトが不思議そうにこちらを見ていた。
「寒かったので足湯を。……あ! 残り火とほんのちょっとのお水で作ったので、問題ないかと思ったんですが……っ!」
いけなかっただろうか、と冷や汗が出る。
新たに薪を使って焼けば浪費だが、使ったのは残り火だ。だが許可が必要だったろうか。
「いや別にそれは問題ないが……。それでなにをしている。足が汚れたのか」
「え……? いや、寒くて……」
「寒い?」
訝し気に問われて、こっちも訝しくなる。
「寒いですよ。寒くないですか? もう冬になるのに」
「そうか? まだこれぐらいは……。で、寒いと足を湯に浸すのか」
「ベッドに入っても足が冷たいと眠れないでしょう?」
「足が冷たいとはどういうことだ」
「は? そのまんまですよ。冷えません? しもやけになったりとか」
「ない」
「ない……?」
はあぁ、とアルテイシアは忌々し気にため息をつく。そのまま俯き、湯に浸ってほわほわと温かい足裏をマッサージする。
「それはねぇ、男爵様が良い暮らしをしておられるからですね」
アルテイシアだって神殿で暮らしていたときは、しもやけやあかぎれなど知らなかった。母国を追われ、路上で暮らし、その後、冷えきった土間で朝から晩まで水仕事をしていたら、足や手はあっという間にしもやけとあかぎれの餌食だ。
「……え。ちょっと待ってください、男爵」
ふと視界の隅に脱ぎっぱなしの長靴が目に入り、アルテイシアは顔を上げる。
「いま、足どうなってます?」
「どうなっているとは?」
物珍し気にアルテイシアを見ていたレオハルトが首を傾げる。
「
「別に。裸足だ」
机のわきから、にょっと伸びた足を見てアルテイシアは顔をしかめた。
「信じられない……っ! 裸足⁉ この寒い中、わざわざ裸足⁉」
「足が冷えるというお前の感覚の方が、おれにはわからん」
互いに異物を見るような目で見合ったが、レオハルトが「そういえば」と目をまたたかせた。
「調理場で不足しているものはないか? 通いのポーターに準備させるが」
「不足ですか?」
熱心に足指を一本ずつもみほぐしながらアルテイシアは言う。
「器具ですか? 食材ですか? いまのところどっちも大丈夫です」
「そうか。またなにか必要になれば言うがいい。用意しよう」
「ありがとう……ございます」
渋られるのかと思ったらそうじゃないらしい。娼館の調理場など、鍋に穴が開いても修理に出してなんとか使えないかと皆で相談するぐらいなのに。そういえばロイが男爵は気前がいいと言っていたなと思い出す。
「いや、おれの方こそ礼を言わねば。まだ初日だが、お前の作る料理は評判がいい。部下のみなが口々にほめに来た」
満足そうな顔をしているのを見てアルテイシアは苦笑する。
それはレオハルトが『おれの女』宣言しているからではないだろうか。お追従として「いやあ、料理もお上手とは!」と言っただけにすぎないのだろう。
「ウルバスさんもそう言ってました?」
だからそう尋ねてやる。
「ウルバス? さあ……あいつは何か言っていたかな」
ほらね、と思わず笑いそうになり、顔を引き締めた。
「あ、そうだ。ポーターのロイさんから聞いたんですが、泉が復活していてその水をつかっているんですよね、いま」
再び顔を上げて尋ねる。
「ああ、そうだ。去年までは使用できなかった泉だ。いま、ウルバスに命じていくつか他の水源も調査中だが」
レオハルトは椅子の背に凭れ、手に持っていた文書を机に置く。
「他にも使用できそうな水脈が見つかりそうだ」
「あの……業務には支障をきたさないようにしますので、その復活した泉を見に行ってもいいですか?」
「かまわんが、ここは魔境だ。行くときはおれに声をかけるように。同行する」
「わかりました」
返事をして、金盥から足を出す。タオルで拭いて、素早く靴下をはいているとさらにレオハルトが話しかけてきた。
「お前は水脈が気になるといってついてきたが……。なぜそこまで?」
目を向けると、探るような鳶色の瞳にぶつかった。
「それは……。その」
まさかつい数年前まで聖女として暮らしていて、汚染された水脈を目の当たりにしていたからです、とは言えない。
「……わたしは天涯孤独です。もし、男爵がおっしゃるようにここの領地に住めるのなら……。この地で羊を飼い、放牧なんかしながら暮らしたいな、と思って」
たどたどしく答える。
完全に口から出まかせなのだが。
話していくうちに「本当にそんなことができればいいな」と真剣に思っている自分に気づく。
だからだろう。
「そうか、なるほど」
レオハルトはまばたきをする。
そして。
大きな笑顔をアルテイシアに向けた。
「それはいい考えだ」
その笑顔に、ただただ魅了された。
いままであまり表情を動かさない人だと思っていたが、見ていると胸が温かくなるような。呼吸が楽にできるような。
そんな笑顔だった。
「羊はいいぞ。毛もとれるし乳もとれる。肉はうまい。なんなら牧羊犬の飼い方も教えてやろう」
滔々と語り始めたせいでアルテイシアは我に返る。
彼の笑顔に見惚れたのが恥ずかしくて、顔を熱くして伏せた。
「あの……。お湯を捨ててきます」
アルテイシアは再びサボに足をいれ、金盥を持ち上げる。顔だけではなく足がまだほこほこと温かい。
「ああ、そうか。わかった」
レオハルトは少し残念そうな顔で口を閉じ、再び書類に視線を戻す。アルテイシアはそのまま部屋を出た。
そのまままた一階に下り、トイレで中身を捨てた。
金盥を厨房入り口付近に伏せて置き、また二階に戻ろうと階段を上る。
「あ。ちょうどよかった」
そこで声をかけられた。振り返るとウルバスだ。
「男爵にこちらを渡してもらえる?」
彼もシャツにトラウザーズという随分ラフな格好だ。ベルトには銃も剣もつけていない。片眼鏡を押し込むようにして、新聞の束を差し出してきた。
「新聞……ですか」
紙の値段が下がり、印刷技術が上がったとはいえ、まだまだ庶民にはなじみが薄い。アルテイシアも聖モンテーニュ侯国に来て以来、初めて見た。
というのも、娼婦たちは字がわからない。読めないのだ。
(あれ? でもこれ……)
この国の文字ではない。ミリオシア王国のものだ。
受け取りながら、さりげなく日付を見る。一番上の新聞は一か月前のものだった。
ざっと一面に視線を走らせる。廊下の照明がそう明るいものではないが、見出しぐらいは読めた。聖女がイライネーゼ神に豊穣の祈りをささげたと書かれていた。
(ああ……、もう豊穣祭が終わっているのね)
冬本番間近。当然と言えば当然だった。
秋に収穫される穀物の感謝をイライネーゼに感謝する祭り。
その前に神殿では大掛かりな豊穣祭を催す。
(次の聖女は……結局誰なんだろう)
あの日。
眠っていたアルテイシアは神官たちに揺り起こされ、いきなり言われたのだ。
『お前は大罪を犯した。聖女ではないのに、聖女のように振る舞ったのだな』と。
なんのことかわからず震えていたアルテイシアはそのまま部屋から引きずり出され、牢獄のあるレルーン修道院に移送されて処分待ちになっていたところを、マーガレットに救い出されたのだ。
結局、アルテイシアは〝真の聖女〟を知らない。
「そう。頼まれててね。今日の夕方に届いたみたい」
新聞をアルテイシアに渡すと、やれやれとばかりにウルバスは大きく伸びをした。ふわりと彼から臭うのは松脂と煤の臭い。よくみると指先が黒ずんでいた。銃の手入れをしていたのかもしれない。
「魔獣退治に銃を使われるんですね」
「他に何を使うの?」
ウルバスに逆に問われて口ごもる。
ミリオシア王国では、魔獣に銃を使わない。まず弓矢と投槍で飛べないように羽を破り、一気呵成に騎士たちが剣で切りかかる。
そういった違いが水脈回復と関係しているのだろうかと思って何気なく尋ねたのだが。
黒水晶のようなウルバスの瞳に射抜かれて慎重になった。
よく考えれば、一介の調理員がそんなに詳しいのも変だ。
「いえ……。ただ、銃が珍しかっただけです」
首を緩く横に振る。ウルバスはにこりと笑った。
「男爵はライフルの名手だ。寝物語にでもそのことを聞いてみれば?」
「ね……寝物語、ですか」
ちょっと怯む。ウルバスは陽気に笑った。
「君と男爵が情を交わしたのは一晩だけだったんだろう? あの日、だいぶん男爵酔ってたし。あんまり話したりできなかったんじゃない? やるだけやって寝ちゃった、とか」
「は……あ」
まあ、やりもしなかったのだが。
「男爵、わりとゲンを担ぐから魔獣狩りの間は禁欲生活だろうし。話しながらでも寝たら? じゃ、おやすみ」
ウルバスは言うと、手を振ってさっさと自室に向かった。
どうやらレオハルトとは対極にあるらしい。
アルテイシアは新聞を抱え、レオハルトの部屋に向かう。
(これのどこかに……あるかしら)
新聖女の名前が書いてあるだろうかと思うのだが、10日分ぐらいを麻縄でくくってあるので肝心なところが読めない。
(部屋の中で確認できるかな……)
足早に戻り、ノックの返事も待たずに開く。
「あの……。これ、ウルバスさんからお預かりしてきました」
暖気を逃さないように素早く入ると、レオハルトは視線だけ寄こした。
「ああ、新聞か。そのあたりに置いててくれ。あとで読む」
「あとで読むのなら……。その……。いま、わたしが目を通しても?」
机に駆け寄り、口早にたずねた。
たずねてから。
(……どう考えても厚かましい……よね)
顔が赤くなる。
男爵ともなると新聞の値段も高くはないだろうが。
他人が買ったものをただで自分が先に読もうとしているのだ。
「あ……。いや、あの。失礼しました。どこに置いておきましょう……?」
しょぼんと肩を落としていると、「いや、かまわん」と声が返ってくる。
「え?」
「まだこちらの書類仕事が終わらない。先に読んでいても構わん」
なんとも思っていない顔でレオハルトが言う。
「い……いいんですか?」
「おれも次、読むんだから、かまどの焚きつけには使うなよ?」
訝し気に言われてブンブンと首を縦に振る。
そのままソファに移動し、爪を立てて一生懸命麻紐を外す。
日付を確認し、立ったまま最新の新聞を広げた。
そして知る。
「マリア・リア……」
愕然と呟く。
新聖女は、妹だった。
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