第6話 男爵の女
◇◇◇◇
二日後の夜。
アルテイシアは魔境近くの宿泊施設で、洗い終わった皿を布巾で拭いていた。
「じゃあ、あたしはこれで帰るけど」
声の方に顔を向ける。
かまどの火が消えたかどうか確認をしていたエニスが火かき棒を持って立ち上がった。
アルテイシアより一回り年が上の彼女は、魔境近隣の村から通いで来ている調理員だ。宿泊施設に泊まって作業をするわけではない。時間になればここに来てアルテイシアと一緒に作業をし、決められた時間にはここを退出する。
「大丈夫ですか? もう外、だいぶん暗いですけど……」
つっかえ棒で上げた木窓から外を見る。
薄く灰色の煙が立ち上る向こうは夜のとばりが降りていた。ロバか馬で来ていれば問題ないだろうが、徒歩で帰るのは危険のように思う。
「夫と一緒だから大丈夫。荷馬車で帰るから」
火かき棒をかまどの側に置き、エニスはエプロンをはたいた。ついていた灰が白く舞う。
「ああ、ポーターさんでしたっけ」
彼の夫は、この宿泊施設に食材や必要資材を荷馬車で届けてくれているポーターだ。アルテイシアもあいさつをしたが、陽気で大柄な男だった。
「そう。だからまた明日の朝、食材と一緒にやって来るわね」
にっ、と白い歯を見せてエニスは笑う。
「お待ちしています。道中気を付けてくださいね」
アルテイシアも笑い、拭き終わった皿を積み上げた。
「でもあれよねぇ、なんかこう……身構えて損したわ」
皿の枚数を数えていたら、エニスがそんなことを言う。
視線だけ向けると、エプロンを手早く外した彼女が肩を竦めてみせた。
「男爵の女と一緒に働くって言うからさ。どんな高慢ちきではすっぱな女が来るのかと思ったら……」
「あー……」
アルテイシアは知らずに顔をしかめる。
レオハルトがアルテイシアのことを『おれの女』とか言って紹介したのだろう。エニスだけではなく、騎士団の騎士たち全員がアルテイシアのことを『男爵の女』と呼んでいるこの状況が不快でしかない。
(マーガレットが聞いたら激怒しそうだわ)
ムカムカしながら、アルテイシアは棚を開いて皿を仕舞う。
「ときどきいるのよ、騎士の口利きとか団長の紹介で手伝いに来る女。だけど、そういったやつらって、仕事しないの。ほとんど男の部屋にいて夜の相手だけ。ようするに給料泥棒なのよ」
エニスは苦笑するが、アルテイシアは驚いた。
「そ……それがまかり通るのですか」
「まかり通ってたのよ。だから、あんたが働いて、しかも美味しい料理を作ってるのを見てびっくりしちゃってるわけ。たぶん、騎士のひとたちもじゃない?」
だからだろうか。
朝に騎士団と合流して魔境に到着し、昼ご飯からこの宿泊施設で調理を開始したのだが、鍋を洗ったり、じゃがいもを剥いたり、ましてや配膳をしている姿を見て誰もが不審そうな顔をしていた気がする。
よく考えれば『男爵の女』ではなく、『男爵の女?』と語尾が上がっていたような気もしてきた。
「本当に男爵の女なの?」
エニスはエプロンを持ったまま両腰に手を当て、興味津々にアルテイシアに尋ねる。
「……うーん。まあ……。半分は当たっている、というか」
「なによそれ」
エニスは愉快そうに笑う。
「まあ、あたしはどっちでもいいけどさ。でもここでは一応『男爵の女』にしておきな。そっちのほうが安全だから」
「安全?」
皿を仕舞い、使用した布巾を集めていたアルテイシアだったが、顔を上げてエニスを見る。
「なにが、ですか」
「男爵の騎士団だけじゃないから、ここ」
むすっとエニスは口をへの字に曲げて見せた。
「あたしもさぁ、今期は男爵の騎士団だって嬉しかったわけ。なにしろ治安いいからね。男爵もウルバスさまも、女子供に手を出すような奴は問答無用で撃つから」
「そう……なんですか」
娼館に繰り出してきたりする男たちだが、一般人や素人には手を出さない、ということなのだろうか。
「だけど、今回男爵の騎士団だけじゃ人が足らなかったのかな。なんか傭兵も何人か混じっててさ。そいつらは男爵の騎士団みたいに行儀よくはないから……。あんたなんて、ここ、泊まりで仕事するんだろう? 男爵の女だって言い張ってたら手は出されないだろうから」
「なるほど」
エニスの言うことももっともだ。
上役の恋人には手を出せないということだろう。
(……そこまで考えて、男爵は『おれの女』って言ったのかしら……)
そんなことを一瞬考えたが、「違うだろうな」と即座に否定した。
「おい、まだ時間がかかりそうか?」
いきなり厨房の勝手口が開き、ぬっと男が顔をのぞかせた。エニスの夫であるロイだ。
途端に外からの冷たい風が吹き込み、アルテイシアの首元を撫でた。
汗ばんでいたほどだったのに、一気に鳥肌が立つ。
「寒っ! えー、やだなに。外、寒いの?」
エニスが顔をしかめ、わざとらしく足踏みをしてみせた。
煙が抜けるように窓を開けてはいるが、厨房ではかまどを使って煮炊きをしているからアルテイシアも寒さに気づかなかった。
「そんな寒い中ずっと待っていた俺にねぎらいはないのか?」
ロイがむっとしている。
「ごめん、ごめん。さあ、帰ろうか」
エニスが破顔すると、ロイも笑顔になり、後ろ手に持っていたショールを妻に差し出す。
「家まですぐだ。寒いんなら俺に抱きついてればいいし」
「そうだね」
屈託なくそんなことを言うので、アルテイシアの方が顔を赤らめる。
できるだけ会話を聞かないようにしようと思っていたら、ロイから声をかけられた。
「水の量はどうですか? 明日の朝の分はあるでしょうかね」
「あ……。ちょっと待ってくださいね」
アルテイシアは慌てて厨房の隅に置いている水甕に近づき、木蓋を開ける。
自分の背丈ほどある水甕。そこには調理や洗い物で使用する水が貯められている。
井戸がないこの地では、柄杓で必要分、鍋やたらいに入れて使用するのだ。
「明日の朝ご飯分はありそうです」
五つある水瓶を確認し、アルテイシアは答える。
「なら、エニスと食材を運ぶとき、空の水甕を回収して満たしておきます」
「ちょっと、あたしと食材を一緒にしないでよ」
ショールを肩にかけ、ぶつかるようにして不満を表すエニスに、ロイは「悪い悪い」と笑って頭を撫でてやっていた。
「やっぱり井戸がないって不便ですねぇ」
アルテイシアが呟く。
娼館では中庭の一角に井戸があった。
時間を分けて、洗濯と食器洗いに使用していたのだが、ここは水脈汚染のこともあり井戸がない。
「でも去年に比べたら便利になったもんです、なあエニス」
「ほんとだよ。すぐそこの泉が復活したからね。煮沸して使えば何の問題もないもの」
エニスは露骨に顔をしかめた。
「それまでは魔境の水はほとんど使えなかったからね、汚染で。ふもとから運んできてたから、この人、何往復もして……」
「でもその分、給料ははずんでくれたから」
はは、とロイは笑う。
「他の騎士団は『水運びが楽になったんだから』って去年より給金を減らしてきたけど……。男爵様だけは以前と同じ給金をくださるんだから、本当にありがたいよ」
アルテイシアは微笑むだけにとどめたが、給料を減らす他の騎士団がおかしいのだ。
魔獣の核である魔石は相当な金額になる。それを毎回稼いで帰るのだ。世話になる人間の待遇をもう少し見直してはどうかと意見したいぐらいだ。
「ああ、寒い。やだ、いつまでも勝手口を開けていたらあんたが寒いね」
突如吹き込んできた寒風に、エニスはショールをまき直してからロイの手を握った。
「早く帰ろう。アリ、そこの鍋にさ、余熱で湯を作ったの」
ロイにくっついたまま、エニスはかまどを指差す。さっき、彼女自身が火を消したかまどだ。
確かに炉には鍋がかけられており、木蓋がされていた。
「へこんでて使わない金たらいがあるの。そこにお湯を入れて足湯にするといいよ」
「本当ですか! 助かります!」
風呂の日は決まっていて、今日ではない。
ただこんなに寒くなるとは思っていなかった。彼女の言う通り足湯にすれば、しもやけ防止になるかもしれない。
「じゃあまた明日ね!」
エニスは手を振り、ロイも気さくに会釈をして勝手口を閉めた。
ただそれだけで、室内の温度低下が少しおさまる。
「さて、と」
アルテイシアは煙抜きのための窓をしめ、布巾をまとめて洗い桶に入れる。これは明日の朝、湯を作って煮沸してから洗おう。
そのあと、まな板や調理器具を確認し、調理台が清められていることも指さしで確認する。怖いのは食中毒と火の始末だ。娼館でも口を酸っぱくしてそのことを注意された。
アルテイシアはエニスが言っていた
(ま。足湯に使うだけだし)
かまどに近づき、再度火が消えていることを確認して木蓋を開ける。
もわり、と白い湯気があがった。
わざわざ足湯のために湯を沸かすのはもったいないが、こうやって残り火で作る分には問題ないだろう。それに、水の量もほんとうに少しだ。自分に言いわけをして、たまじゃくしで金盥に湯を全部注いだ。
熱湯というわけではないので、持っているだけでほっこりする。
蓋をしまい、鍋はそのままにしてアルテイシアは灯り用のランプをひとつひとつ消していく。
そうして、調理場を出た。
湯をこぼさないように片手に抱えなおし、後ろ手に扉を閉める。
廊下にも照明がすでに入っているらしい。
ぼわりと橙色に染まる空間を挟み、両脇にはずらりと扉が並んでいる。もう騎士たちは入室しているのだろう。カードゲームでもしているのか、派手な歓声が上がるところもあれば、酔っているのか爆笑が巻き起こっている部屋もある。
アルテイシアはサボをつっかけた足でゆっくりと中央まで歩く。
そこにあるのは、正面玄関と二階へ続く階段。
「こんばんは」
ぴたりと閉じられた玄関扉の前では、騎士が声をかけてくれる。当番で見張りに立つのかもしれない。もうひとりの騎士はつまらなそうな顔をしていた。
「こんばんは。ご苦労さん」
そう言って階段を上がる。
途端に「あれが男爵の女だろ」「みたいだな」と小声が聞こえた。
「顔はいいが……あんなのが趣味なのか」
「おれならもう少し、おっぱいと尻がでかい女がいいな」
ちがいねぇ、と笑っている。
アルテイシアはむっとしながらも階段を上り、ウルバスから教えられた部屋に向かう。
一階は娼館のように扉が続いていたが、二階はある程度どの部屋もゆったりと作られている。それもそうだ、高位者や将官クラスが使用するらしい。
レオハルトの部屋は、その最奥にあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます