第4話 マーガレットの遺言

「まいったな」

 覆っていた手で顔を撫で、レオハルトは呻いた。


「処女には手を出さないと決めていたんだが……。なあ」


 呼びかけられ、アルテイシアはそっと顔から手を離した。


 目が合う。

 鳶色の瞳だ。

 昨日、薄暗い室内で見たときよりも虹彩は透明度が高く、茶水晶のようにさえ見えた。


「あんた、おれでよかったのか?」


 問われて言葉が出ない。

 そんなこと、聞かれるとは思わなかった。


 自分は買われる側だ。

 誰に、などと考えたことはなかった。


 できれば金払いがよく、自分に利益をもたらす客であってほしい。そう願うことはあっても。


 自分に選択肢が与えられるなど想像もしなかった。


「……えっと……」


 無言が耐えられず、どうでもいい言葉が唇からこぼれる。

 真っ直ぐな視線は相変わらず自分に向けられていて、アルテイシアは視線を彷徨わせた。


「……だよな」

 それをどう解釈したのか、また絶望の色をにじませた声をレオハルトが漏らす。


「いえ、あの……」


 どうしたものかと狼狽えていると、廊下から存分に注意を払った足音が聞こえてきた。

 その音はぴたりと扉の前で止まる。


 素早くレオハルトがベッドわきの帯刀に手をやるのを見てアルテイシアは怯えた。


(え……? 敵? なに)

 この男、敵が多いのだろうかと腰を浮かす。


「アリ。起きてる?」

 だが、扉の向こうから囁くのはアルテイシアの偽名だ。


「……あ」


 どうしようかとレオハルトを見ると、剣から手を離している。顎で扉を示し、無言で促した。


「なに。どうかした?」


 ベッドから降りて声をかける。それが合図のように扉が薄く開いた。顔をのぞかせたのは見知った娼婦だ。


「あんたの連れの……メグおばちゃん。もうだめかもよ。客が寝てるんなら、そっと出ておいで。いまなら間に合うから」


 口早に告げて扉は再び閉じた。

 アルテイシアは愕然と立ち尽くす。


「マーガレット……」


 知らずにその名を呟く。

 ここでは「メグ」「アリ」と呼び合うように決めていたのに。


「ど……どうしよう……」


 もうだめかもよ。

 娼婦の声が頭の中をずっとめぐる。


 薬を飲ませれば。

 大好きな菓子を食べさせれば。


 きっと持ち直すと思っていた。

 いや、そう信じ込もうとしていた。


 わかっていた。本当はもうなにもかも遅いのだ、と。娼館主が言うように「静かに逝かせる」のが一番いいのだということを。


 だけどだけどだけど。


「マーガレット……」


 ボロボロと涙が頬を伝う。


 こんな別れは嫌だ。

 自分はまだ彼女になんの恩も返せていないというのに。


「なにをしている。早くいけ」


 声に引かれるように顔をベッドに向ける。レオハルトだ。険しい顔でアルテイシアを見ていた。


「いや……」

 アルテイシアは首を横に振る。結っていない髪が動きにつれて揺れた。


「行ったらきっと……マーガレット死んじゃう」


 マーガレットは自分を待っている。

 そんな気がした。


 アルテイシアに会うまでは死ねない。

 必死にいま、頑張っている。


 わかっている。ひとは、頑張っているときは大丈夫だ。


 問題なのは。

 安心して気が抜けたときなのだ。


 涙はとめどなく流れ、頬を伝って顎から床に落ちた。


「マーガレット……。マーガレット……」


 動き出せず、かといって逃げることもできず。

 アルテイシアはただ身体を揺らして彼女の名を呼ぶ。


「マーガレット……。マーガレット……」

「アリ」


 放っておけば永遠にその名前だけを呟き続けるであろうアルテイシアを止めたのは、レオハルトだった。


 彼はシャツを羽織り、アルテイシアの右手を握っていた。


 大きくて、ざらざらとしていて、指の付け根にまめができていて、節くれだっていて。

 それはマーガレットの、柔らかでふくよかで、つるつるとした手のひらと大違いで。


 アルテイシアの目からはさらに大粒の涙があふれる。


「いま行かないと後悔するぞ」

 涙でぐちゃぐちゃの顔を覗き込み、レオハルトが子どもに諭すように言う。


「いや。怖い」


 アルテイシアは首を横に振った。それが合図だったかのように肩が震え始めた。顎が細かく鳴る。


「行ったら、マーガレット死んじゃう……っ」

「マーガレットはお前に会いたいんじゃないのか。彼女の望みをかなえずに死なせるのか?」


 ぎゅ、と握った右手に力を込めてレオハルトは言う。


 望み。

 その言葉がアルテイシアの胸を打った。


 いつも自分の望みをかなえてくれたマーガレット。


 母国を、神殿を、親姉妹から追われた自分を守り、「生きたい」という願いをかなえてくれたマーガレット。


 今度は、自分が叶える番だ。


「い……一緒に……っ」


 ひぃっくと盛大にしゃくりあげ、左手で涙を拭いながらアルテイシアはレオハルトを見る。


「だ……っ、男爵さま。一緒に来てくれる……?」


 返事はなかったが、レオハルトは右手を離さなかった。

 アルテイシアは彼の手を握ったまま部屋を出、廊下を小走りに移動する。半歩後ろからついて来るレオハルトは無言だ。


 朝ご飯を部屋に運んでいる従業員が、アルテイシアとレオハルトの姿を見てぎょっとしたが、そのまま地下に向かった。


「アリ! よかった、あんた……、え⁉」


 従業員たちが寝起きしている大部屋の扉が開き、娼婦のひとりがレオハルトを見てぎょっとするが、アルテイシアは構わずレオハルトの手を引いてマーガレットが眠るベッドに向かう。


 すでにそこは人だかりになっていた。

 地下といいつつ、実際は半地下だ。


 天井近くに設けられた窓からは自然光が差し込み、灯りがなくてもいまの時間なら大分部屋は明るい。


「アリだ。場所をあけておやり」


 年かさの娼婦のひとことで、マーガレットのベッドから人がはける。

 ベッドの上には、目を閉じ、口を開いて荒い息を繰り返すマーガレットがいた。


「マー……」

 ガレットと呼びかけようとして口を閉じる。


 そして悔しさに涙があふれた。

 このような際にさえ、本名が呼べないとは。


「アリ」


 ぎゅと右手を強く握りこまれ、我に返る。顔を上げるとレオハルトが自分を見下ろしていた。


「行こう」


 促され、左手で涙を拭ってベッドに近づく。娼婦たちが「誰」「昨日の客だろ?」「だったら……え。男爵様?」とざわめくがアルテイシアの耳にはまったく入っていなかった。


「……ああ、良かった」


 アルテイシアがベッド脇に立つと同時に、まるでそれがわかっていたかのようにマーガレットが目を開いた。


「……ごめん……なさい」


 アルテイシアは呻く。唇が震え、舌がもつれてうまく言葉が出てこない。


「どうして謝るのですか」


 マーガレットがかすれた声で笑う。そのあと荒い息がしばらく続いた。咄嗟にアルテイシアはレオハルトから手を離し、ベッド脇に跪いてマーガレットの手を握る。


「お薬……。間に合わなくて……。お……お菓子も……。たくさん食べてほしくて……」


 その間、アルテイシアは必死に話し続けた。

 自分が話し続けていれば。

 彼女に呼びかけ続ければ。

 きっとまだ持ちこたえられる。


 生きていてくれる。

 そう信じて。


「いいのです。わたしは先にイライネーゼ神の御許へ参ります」

「いや!」


 アルテイシアが悲鳴を上げる。


「ああ、やはり間違っていなかった……。とても呼吸が楽になりました」


 マーガレットは口元を柔和にし、自分が慈しんだ聖女をみつめた。確かにその表情からは、最前のような苦悶の色は消えている。


「お嬢様。ひとつ……お願いがあります」


 申し出に、アルテイシアは弾かれたようにマーガレットの顔を覗き込んだ。

 そうすると、どうしようもなく彼女から立ち上る死の匂いをかぎ取った。


「息子の……サイレウスに伝えてほしいのです」

「サイレウス……。ええ、サイレウスね」


 マーガレットはタートル子爵夫人だ。子はふたり。上が息子で下は娘。ただ、娘は病で亡くしている。上の息子の名がサイレウス。アルテイシアも神殿で何度か会ったことがある。いまはもう立派な青年貴族になっているのではないだろうか。


「母は間違っていない、と」

 マーガレットはそれだけ言うと、大きく深い呼吸を繰り返す。


「わ……わかったわ! そう伝えればいいのね!」


 返事が欲しくてアルテイシアは何度も話しかけるのに。

 マーガレットの呼吸はしばらくすると穏やかに、そしてか細く。


 そのまま消えた。

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