第3話 初めての夜の……あと

「あ……の」


 額からどっと汗が噴き出す。

 すぐ真下にはレオハルトの精悍な顔があった。


 目が合う。


 冴え冴えとした光を鳶色の瞳は宿していて、咄嗟に視線を逸らす。その先にあるのは、太くたくましい首。そこから広がるのはがっしりとしたむき出しの肩と広い胸だ。


 どこを見たらいいのか分からなくなって恐慌状態に陥った。


「す……すみませんっ」


 慌てて上半身を起こしたが、彼の手が今度はアルテイシアの腰を捕らえる。

 そうなると、立ち上がろうにも立ち上がれず、ベッドから降りようにも降りられない。


 すとん、とレオハルトの腹の上にまたがるように座った途端、顔が燃えるように熱い。


「お前、軽いな。ここの娼館主は飯もろくにくれないのか?」


 不満げにレオハルトが眉根を寄せるから、アルテイシアは慌てて首を横に振った。


「とんでもない。娼館主には本当によくしていただいて」

「それでこれか。まるで鶏がらではないか」


「……え……っと」

「もっと喰え。この街で飢えている者がいるなど許されん」


 これは、なんと言えばいいのだ。

 答えあぐねていると、レオハルトの片手が自分の腰から離れる。


「綺麗な金髪だ。この国では珍しいな」


 節だった指でアルテイシアの髪を掬い取り、レオハルトは眩しいものでも見るように目を細めた。


「そう……ですか」


 ひやりとした。

 確かに聖モンテーニュ侯国は、黒髪黒瞳くろかみこくとうが一番多い。金髪碧眼きんぱつへきがんはミリオシア王国民の特徴でもある。


(なにか……。疑われている?)


 鳶色の瞳に射抜かれて冷や汗が出る。

 だが、すい、と彼はその瞳を逸らした。


 ほっとしたのもつかの間だ。


 不意にレオハルトがアルテイシアを腹の上に載せたまま、腰を浮かしてもぞもぞと動き出す。


「うひゃあ!」


 アルテイシアは悲鳴を上げて膝立ちになった。なんだ。なにがはじまるのだ。このままなにか自分はされるのか。


「うるさい。じっとしていろ」

 何事がはじまるのかと怯えるアルテイシアの腰をとらえ、レオハルトは唸る。


長靴ブーツを脱ぐ。ちょっと待て」


 どうやら仰向けに寝そべったまま、足をこすり合わせて長靴を脱ごうとしているらしい。


「え。あ……あの」


 わたし、一度下りましょうか、と言おうとしたのだが長靴はあっさり脱げた。すぐにがばりと上半身を起こし、アルテイシアを抱きすくめる。


「ひ……っ」

 思わず上げかけた声を飲み込む。


 薄いシュミーズドレス越しにもわかるほど、筋肉質な腕だ。ぎゅ、と抱きしめられると比喩ではなく苦しくて肺から息が漏れた。


「お前、冷たいな。寒いのか?」


 レオハルトはアルテイシアを抱きしめたまま器用にベッドの中央までいざり、そのまままた身体を仰向けに倒す。


 アルテイシアは彼の裸の胸に右頬を押し付けた形で身を固くした。


 どくどくと早鐘のように脈打つのは自分の心臓か、それとも彼の心臓か。

 頬は熱いのに身体の中心部は冷えた。

 拳を握りしめ、いまから起こることを予想して硬直していると、レオハルトの掌が自分の背中から腰、尻にかけてを撫でた。


「……っ」

「どうして娼婦に?」


 目を固くつむり、ひたすらじっとしていたら、低いレオハルトの声が聞こえてきた。


 彼の胸に耳を押し付けているからだろう。ぼわりとした不思議な声音に聞こえる。


 それに彼が話すたび、アルコールの匂いが濃く香った。


 ただ。

 相変わらず手はアルテイシアの背中にある。


 その手も指も。


 愛撫でもなく、まさぐるような動きもせず。

 どちらかというと、怯えた小動物をなだめるように撫でる動きに似ていた。


 だからだろう。

 知らずに口から本心が出た。


「母と慕う人が病に……。薬とお菓子を……どうしても買いたくて」

 ぎゅ、と拳を握りしめる。


「娼館主からは『一晩でいい』と言われて承諾しました。なので……」

「このあたりは、もともとおれの祖先が持っていた領地だったんだ」


 レオハルトがアルテイシアの言葉を遮ってそう言った。


「スロイレン男爵領……だったのですか?」


 目を開く。

 アルテイシアはここに来て2年だが、ここは侯爵の直轄地のはずだ。


「いや、スロイレン辺境伯領だった」


 吐息が頬にかかる。濃いアルコールの香りが鼻先をかすめた。心なしか声に眠気が混じっている。とろんと語尾が揺れた。


(辺境伯領……? 男爵領、ではなく)


 気づけば首を上げ、まじまじとレオハルトを見下ろしていた。


「いつか領地を取り戻す。おれの領地では、誰も飢えさせない。誰も不幸にさせない」


 逆にいま、レオハルトは目を閉じている。欠伸を噛み殺し、そんなことを言った。


「このまま武勲を上げ続け、いつかおれは閣下から先祖の土地をふたたび取り戻す」


 打って変わって芯のある声。

 だが顔は無表情だ。というより、目を閉じて眠っているようにも見える。アルテイシアはそっと尋ねた。


「魔獣が出るような土地をたまわって……それでいいのですか?」

 純粋に不思議に思って尋ねると、レオハルトの口の端が不機嫌に下がる。


「遥か昔、魔獣はここまで出現しなかった。それが……なぜだかかようなことに……。だがな、魔獣は駆逐する。おれのことを王都のやつらは嘘つき呼ばわりするが、ここ数年、劇的に魔獣が減っている……」


「……減っている? 魔獣が?」

 訝し気に問う。


 そんなことあるはずがない。

 魔獣とは駆除せねば増える一方なのだ。ミリオシア王国でもそのために、時期を決め、大々的に騎士団を送り込む。


(あ……でも、こんなことを言えば、男爵が嘘をついていると指摘することになる)


 一瞬、気を悪くするかと思ったが、レオハルトは「そうだ」と深く頷いた。

 その言葉にはまた眠気が多分に含まれていた。


「水脈が復活した。きっといい作物が育つ。おれは再び辺境伯領を取り戻し、ひとをたくさん入植させて耕すつもりだ……。馬や牛を周辺から買い取って……。一部、草原が広がっているエリアがあるから、あそこで羊を放牧しようとおもう。犬もいれよう……。お前、牧羊犬を見たことがあるか?」


「いえ……」


 わずかに首を横に動かすと髪が流れ、レオハルトのむき出しの肌に触れたらしい。くすぐったそうにレオハルトは笑った。


 どきりと心が跳ねる。

 それほど無邪気な笑みだった。


「シトー領の牧羊犬はいい。あれを連れてきて増やそう。女たちには……そうだな、羊毛で毛織物を再開させたらいい……。きっと……」


 よい特産品になる。

 レオハルトはその言葉を最後に寝息を立てはじめた。


「……え。レオハルト……さま?」


 アルテイシアは戸惑った声を上げた。

 顔を近づけ、「あの」と声をかけるが。

 レオハルトは軽いいびきと、濃いアルコールの呼気を吐きながら、完全に眠ってしまった。


 アルテイシアを残して。


◇◇◇◇


 深く眠り込んでいたアルテイシアだったが、急に掛布団を剥かれて飛び起きた。

 咄嗟に膝を抱え、ベッドヘッドに身を寄せる。素早く周囲を見回して戸惑った。


 小さな部屋。

 個室だ。

 ベッドと簡素な丸テーブルしかない部屋には、まだ弱い朝日が差し込んでいた。


(あ……。そうだ、昨日男爵さまと……)


 ねやを共にしたのだと思いだす。

 ちらりと厚みのない壁を見た。隣室からはまったく物音が聞こえない。注意深く耳をそばだてると、歯ぎしりが聞こえてきた。客と娼婦は眠っているらしい。


(まだ早いものね)


 苦笑いを浮かべたとき、ぎしりとベッドが軋み、揺れた。拍子に顔を音の方に向ける。

 レオハルトはベッドに足を下して座っている。

 広い裸の背中が、アルテイシアの前にあった。


(ん?)


 たくましい背中ではあったが、丸まっている。

 アルテイシアに背中を向けて両足をベッドに降ろし、両手で頭を抱えているのだ。


 いわゆる、苦悩している姿に見えた。

 どうしたのか、と問いかける前に頭に浮かんだのは、『二日酔い』だった。


 昨晩、レオハルトからはだいぶん濃いアルコールの匂いがしていた。

 実際、アルテイシアと話をしているうちにすぐに眠ってしまったし、通常彼が飲んでいる以上の酒を体内に入れたのだろう。


 アルテイシアは時折レオハルトを揺すってみたりしたが、まったく起きる気配がなかった。


 熟睡している男の腹の上にただ乗っているのも変だ。

 仕方なく昨日は彼の隣に並んでそのまま眠ったのだ。


(だとしたら、お水とかを勧めた方がいいのかしら)

 よいしょ、と自分もベッドから足を下そうと身じろぎをしたときだ。


「おい」

 低いうめき声が聞こえてきた。


「はい」

 アルテイシアは返事をして、再び彼に顔を向ける。


 そして眉根を寄せた。

 広い背中。


 シャツを着ていないむき出しの背には、いくつもの傷跡があったからだ。


 かなり年数が経ち、みみずばれのようになっているものもあれば、茶褐色になってはいるが大きく痕を残したもの。それから昨日つけられたと思しき傷は、血こそ完全に止まっていたがまだ痛々しいほどに赤く腫れている。随分と痛そうだが、本人は気にならないらしい。


「昨日、おれはお前に手を出したのか?」 

「え? 覚えておられないのですか?」


 目をまたたかせて彼を見る。

 手を出すも何も爆睡していたじゃないか。


「……さいあくだ……」


 戸惑うアルテイシアの前で、絶望を音声化したらこんな感じになるのではないかという声をレオハルトは漏らす。そのあと、ゆっくりとレオハルトは顔を覆う手を外し、振り返った。


 てっきりアルテイシアに向けられると思った視線は、ベッドの中央で止められる。


 つられるようにアルテイシアも視線を追った。

 そして、気づく。


 そこに血の跡があることに。


(あ……)


 初めての行為のあと、出血するのだとアルテイシアは聞かされていた。客が帰ればまとめて洗濯するから気にするな、シーツだけ剥いでおいてくれと清掃員に教えられたのだ。


「それは……」


 男爵様の背中の傷から、と言いかけてアルテイシアは口をつぐむ。


 もし。

 もし、昨日なにもなかったのだとわかれば、この男からカネがもらえないのではないか。


(薬代……)


 そうすれば、マーガレットの薬代はどうするのだ。

 今日また別の客をあてがわれたとしても、きっとこの男ほどの金持ちではないかもしれない。


「……男爵様はどこまで覚えておられるのですか?」


 アルテイシアは床に降ろしかけた足を再び抱え込み、レオハルトの様子を慎重に探る。


「ウルバスたちとこの娼館に来て……。娼館主にこの部屋に連れてこられたのは覚えている。お前の名前も」


 レオハルトは早口にまくしたてた。


「アリだろう? おれは娼館主にお前が生娘かどうか確認して……」

「男爵様は、わたしを抱きしめてベッドに」


「いや、抱きしめた。抱きしめはした」

「そのままふたり、ベッドに倒れ込んで……」


「待て! 言うな!」


 悲痛に叫び、再び頭を抱えたレオハルトを見て、アルテイシアは確信した。


(この男……。覚えてない)


 心の中で自分の信ずる大神イライネーゼ神に感謝しながら、アルテイシアは両手で顔を覆った。


「ひどい……っ。あの夜のことが記憶にないなんて……っ」

「いや……っ! 決してそのような……っ」


「男爵様がわたしの下で何度も激しく動かれたこともお忘れに⁉」

「はああああっ⁉」


「わたし……何度も男爵様を求めて声をかけましたのに……」

「は……。え……?」


「あんなにわたしの身体をさわった殿方は男爵様だけなのに……。特にお尻をずっと。お尻。あ、背中も……」

「え……。あ……、え? 尻……? 尻⁉」


 うううう、と泣きまねをし、顔を覆った指の間からアルテイシアはレオハルトを盗み見る。


 かなり、うなだれている。


 実際は、アルテイシアを腹に乗せて長靴ブーツを脱ごうともがき、怯えたアルテイシアをなだめようと背中を撫で、眠ってしまったレオハルトを起こそうと名前を呼んだだけなのだが。


(ちょっと可哀そうかな……)


 良心が痛みはした。

 大神イライネーゼ神に「でも嘘はついてません」と弁明もした。


 すべては薬代のためだ。そう自分に言いわけをしつつも、なぜこんなにこの男は落ち込むのだろうと不思議でもあった。


 ここは娼館だ。

 客と従業員がそういうことをする店だ。


 しかも娼婦たちが言うには、未経験の娘は男が喜んで買うという。娼館主も大金を払うだろうと言っていた。


(それなのに……)

 レオハルトは激しく落胆しているように見える。

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