第2話 スロイレン男爵という客
「愛してる」
不意に隣室から客の声が聞こえてきた。
「あたしもよ」
荒い息で娼婦が応じている。
また、ぎしりとベッドが軋む音が続く。
ふと、アルテイシアは思った。
明日、隣の娼婦はまた別の客を取るだろう。
その客に「愛している」と言われれば、彼女は「あたしもよ」と答えるのだろうか。
たぶん、答えるのだろう。
(……わたしには、できない)
情がわきそうなのだ。
一夜限りの、しかも金銭を介した関係だということはアルテイシアも理解している。
だが、隣の……いや、この娼館にいる娼婦たちのように割り切れないような気がした。
初めて客を取って。
初めてそんな行為をして。
そうしたら。
どうしても忘れられない気がした。
次の客をとっても、きっと初めての客のことが頭から離れないだろう。
そんな状態で次の客がとれるのだろうか。
『あんた、一晩だけ身を売るかい?』
娼館主はそう言った。
娼婦になるか、とは言わなかった。
アルテイシアの性格がわかっていてそう声掛けをしたのだと思うのは考え過ぎだろうか。それとも、難物であるスロイレン男爵に気に入られれば、いずれずるずるとこの世界に入ってくる。娼館主はそう思い、そのとき、娼館に有利な条件で契約をかわすほうが得策だ。そう読んだだけかもしれないが。
どっ、と。
階下で大きな笑いが起こった。同時にいくつもの足音が響く。
客が大勢来たのだ。
アルテイシアはごくりと唾を飲み込む。
きっとこの中にスロイレン男爵がいる。
「男爵。何度もお伝えしてますが、今年は6年目です。特別な年です。わかっていると思いますが、女にあんまり入れ込んでは……」
「うるさい、ウルバス。いつおれがいれこんだ」
その会話のあと、どっとまた笑いが起こる。「そりゃそうだ」「いままで団長をとりこにした女はいないからなぁ」そんな男たちの声が階下から響いてきた。
「これはこれは。ですが今宵は違います。男爵のために、とびっきりの娘をご用意いたしました。今度こそきっと男爵にご満足いただけることでしょう」
隣の部屋からの娼婦の喘ぎに混じり、階段を上る音と、娼館主の声が廊下から聞こえてきた。
「別にどんな女でもかまわん。それより支払いのことだが、この娼館内にいる部下の支払いはいつもどおりに」
聞きなれない男の声。
「全額、男爵にご請求でよろしいので?」
「ああ、ウルバスに渡してくれ。おれが支払う」
「まだまだ討伐途中ですが、男爵のことです。かなりの戦果をあげておられるのでしょうね。きっと閣下からも特別なお給金をいただけること間違いありません。今日はお祝いを兼ねて存分にお楽しみを。さ、男爵、この部屋でございます」
声と足音が扉の前で止まる。
アルテイシアは拳を握りしめ、大きく息を吸い込んだ。
(大丈夫、やれる。わたしはやれる)
何度も言い聞かせたが、胃液がせり上がってきて吐きそうだ。
「アリ」
扉が開く。
廊下の方が明るいからだろう。逆光で娼館主の顔も、客の顔もまったくわからない。
アルテイシアは目を細めた。
(背が高い……)
中肉中背の影は娼館主だろう。その隣の人物。それが男爵だ。
扉枠に凭れかかるようにして立っているのに、それでも娼館主より頭ひとつ大きい。
すらりとした細身。腰ベルトの位置がずいぶんと上だ。足が長い。
「……珍しい娘だな」
かちゃりと金具の音が鳴る。男の
室内にふたりが入ってきた。
娼館主が扉を閉める。
廊下からの光が遮られ、ようやく目が慣れたアルテイシアは男の姿が確認できた。
それは男も同じなのかもしれない。
遠慮なく伸ばされた指がアリの顎を捕らえた。
確認するように上を向かされる。
アルテイシアもまじまじと男を見た。
一言で表現するなら野性味あふれる男だ。
ぐっと高い鼻。切れ長な瞳は猛禽類に似ている。太いが形の良い眉といい、薄いが酷薄そうには見えない唇といい、武人らしい自信と力強さがうかがえた。
だが。
(……ずいぶんと、酒臭い……)
つい顔をねじって男の指から逃れる。
男の呼気どころか身体中から酒精の匂いがした。
「アリ、こちらはスロイレン男爵だ。うちのお得意さまだよ、粗相のないようにな」
「スロイレン男爵……」
アルテイシアは呟く。あいにくと聖モンテーニュ侯国の社交界には疎い。
いったいどのような家門なのかはわからないが、本人の評判は娼婦たちからある程度聞くことはできた。
『カネ払いはいいけど、とにかく気難しい』『ひとこともしゃべらなかった』『行為の最中でさえ声も出さないもんだから……。なんかこっちもなえてきた』
そう言ってから、気の毒そうにアルテイシアを見るのだ。
『あんた、最初で最後の客があの冷酷男爵とはお気の毒』と。
(だけど、この男と寝ればおカネがもらえる。薬が買える)
ならば、とアルテイシアは腹を決めた。吐き気ごと迷いや不安を飲み込んだ。
「初めまして、アリと申します」
シュミーズドレスの裾を摘まんで膝を曲げる。
「おい」
途端に男の不機嫌そうな声が室内に響いた。反射的にアルテイシアは顔を上げる。まさかこの段階ですでに自分は嫌われたのか。
代われと言われればどうしたらいいのか。
「生娘じゃなかろうな。生娘は好かん」
「え……」
どきりとしたアルテイシアは娼館主を見る。だが、娼館主は表情を変えない。やわらかな笑顔を浮かべたまま男爵に向かって頭を下げた。
「まだどこの客にも出しておりません。男爵のためにご用意した娘です」
「それは……」
「あの」
アルテイシアは咄嗟に男の手を握った。硬い掌に若干怯む。表面がざらりとしていて、指の付け根にはまめらしきものがある。マーガレットや神官たちとはまるで違う掌だった。
「ど……どうぞ、今夜よろしくお願いいたします。必ずやご満足いただけるよう努めます」
頭を下げると、酒臭いため息が降ってきた。
「存分に可愛がってやってくださいませ。それでは」
娼館主はそう言って素早く退室した。
薄闇の中、男とアルテイシアが残される。
隣からはひときわ大きな声で「あああん……っ」と女の声が聞こえてきて、反射的にアルテイシアは握っていた男の手を離した。
「名は?」
ぶっきらぼうな声で問われる。
「アリと申します」
顔を向けると、意味ありげに笑われた。たぶん、偽名だということはお見通しなのだろう。
「レオハルトだ」
男が言う。
(男爵……ではなく、名前で呼べと言うことかしら)
戸惑っていると、隣室からは娼婦の名前を連呼する声が聞こえてきた。
やはりこういうときは、下の名前で呼ぶものなのか。同時に、ぎしぎしぎし、とベッドが軋む音が室内に響くからいたたまれない。
「隣は誰だ。任務をまともに遂行していないからあんなに元気なのか?」
レオハルトの眉根が寄る。かなり機嫌が悪そうだ。
舌打ちをし、腰につけた剣を鞘ごと抜いてベッド脇に立てかける。
そして上着に手をかけた。脱ごうとしたのだろう。右肩を動かしたところで、「つ……っ」と声をもらす。
「あ……。大丈夫ですか?」
声をかけると口をへの字に曲げられた。
「ちょっとヘマして背中をな。悪いが上着を脱ぐの、手伝ってくれ」
「かしこまりました」
慌てて近づき、レオハルトの後ろに回った。もがくように動く彼の上着を脱ぐ手伝いをする。
ふ、と。
酒の匂いに混じって若干汗と血の匂いがした気がした。
シャツを見る。
広い背中だ。
薄闇の中、シャツの白だけが月光に似た色をしていた。
その、腰あたり。
ちょうどベルトの上だ。
少し染みがあるのが見える。血だ。
「これ……傷が開いてませんか?」
咄嗟に声をかける。
「魔獣の爪にやられたんだが、縫うほどではない。布があたっているだろう?」
「いえ……。ありませんが」
「ああ、ではどこかで当て布が外れたのだろう。見つけたら捨てておいてくれ」
レオハルトが興味なさそうに言う。
「は? え? 治療……」
してないのだろうかと狼狽する。
魔獣退治は国家事業だ。医療従事者は同行していないのだろうか。
(どうして治療してもらってないの?)
少なくともアルテイシアがミリオシア王国で聖女をしていたころは、辺境に魔獣退治の騎士団が向かえば医師や薬師が同行した。大規模な魔獣退治であれば聖女も同行して何度も祈りをささげたものだ。
「すまん、ちょっと引っ張ってくれ」
だがレオハルトは意に介さず、さっさとシャツのボタンをはずしていた。やはり可動域に問題があるらしく、ひとりで脱ぐのは難しいらしい。
アルテイシアは慌てて上着を左ひじにかけ、右手でシャツを引っ張るようにして脱ぐのを手伝ってやった。
しゅるり、と。
衣擦れの音をたててシャツが脱げる。
目の前に現れたのは大きな背中。
アルテイシアは自身の心臓が大きく拍動する音を聞く。
正直、若い男の裸など初めて見た。
ごくりとまた唾をのみ込み、シャツと上着を胸にかき抱いたまま、知らずにレオハルトから距離を取った。
その動きに気づいたのだろう。
「はあ……。くそ、面倒くさいな」
レオハルトがアルテイシアを一瞥して舌打ちする。
そのまま窓際のベッドに進み、どすりと座って無造作に髪を掻きむしった。
やはり自分相手では不満なのだろうか。
彼の上着やシャツをハンガーにかけ、壁のフックにひっかけながらアルテイシアは焦る。
娼婦たちの話では生娘というのはそれだけで価値があるらしい。
アルテイシアからすれば、百戦錬磨の美人娼婦の方が価値も高そうだが、男どもというのはとにかく『初めての娘』に目がないのだそうだ。
『だからとにかく、あんたはなにも考えずに男爵様にすべてお任せすればいいの』
娼婦たちに閨房術のひとつでも教えてもらおうと思ったのだが、苦笑してそう言われた。
何も知らない娘の方が男たちはいいのだそうだ。
「なんだ。なにか言いたいことがあるのか」
ついまじまじと見つめ過ぎたのかもしれない。
髪を掻きむしる手を止め、不機嫌そうに唸られた。
「いえ……。その」
アルテイシアは慌てて首を横に振る。そして、素早くベッドへと移動した。
数秒迷った。
隣に座るべきか。
いや、まだ『座れ』と言われていない。
ならば立ったままがいいだろう。
アルテイシアは座っているレオハルトの真向かいに立つ。
ふう、と彼が深く息を吐いた。また部屋のアルコール濃度が上がった気がする。いつの間にか隣室の音は止んでいた。聞こえてくるのも気まずいが、無音というのもまた緊張する
「あの……おいくつになられるのでしょうか」
「は?」
睨み上げられて失敗したと後悔した。
なにか話さねばと思ったのだが、いまのところ不興しか買っていないらしい。だが、『いえ、言い間違えました』とも訂正できない。
押し切るしかない。
「お年です。レオハルトさまの」
「23」
「そ……そうですか。わたしは19です」
会話はそこで終わる。
深く重い沈黙がアルテイシアとレオハルトの間に横たわった。
ああ、なぜ年齢など聞いたのだろう。どうせならもっと話題が広がるものにすればよかった。
激しく後悔していたとき。
いきなり腕が伸びてきた。両肘を掴まれ引き寄せられる。不意打ちに似た動きに対応ができなかった。
「あ」
抱き寄せられる。
そう思って身体を固くしたが、両肘を掴んだ腕はあっさり離れた。そのままレオハルトは自分だけ上半身をベッドに投げ出す。
だけどアルテイシアだって身体を立て直せない。前のめりにベッドに倒れ込んだ。
「あ……っ。いや、あの……っ」
気づけばアルテイシアは四つ這いになり、レオハルトを押し倒したような形で彼の顔を見下ろしていた。
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