偽聖女として断罪されましたが、隣国で魔境の浄化に尽くします!
武州青嵐(さくら青嵐)
第1話 娼婦の ”アリ”
ベッドと簡易な机しかない小部屋で、元聖女のアルテイシアは立ち尽くしていた。
耳を澄まさずとも、隣の部屋からはベッドの軋む音と男女がむつみあう声が聞こえてくる。
(……大丈夫……。きっと大丈夫)
だが、初めて聞く女の喘ぎ声や、男の荒い息遣いに恐れおののいた。
隣ではいったいどのようなことが行われているのか。唸り声のようでもあり、すすり泣きのようにも聞こえる。
なんとなくではあるが、この小部屋で行われているであろうことはアルテイシアもわかっている。
偽聖女として断罪され、母国ミリオシア王国から逃亡し、聖モンテーニュ侯国に潜伏して2年。
娼館ドレスティアの調理員として雇われてからは、『娼館とはどのようなことをするところか』理解したところだった。
調理場にふらりと立ち寄った娼婦たちが話す下世話な会話に顔を赤くすることもあれば、内容がわからずにきょとんとして苦笑されることもよくある。
だが、実際にどのようなことを行うのか。あるいは、自分の身体が客からどのように扱われるのか。
アルテイシアはよくわかっていない。
この小部屋に連れてこられたときも、娼館主は『客に任せておけば大丈夫』としか教えてはくれなかった。
「ああん……っ!」
隣室から娼婦が甲高い叫びをあげ、アルテイシアは震えた。
いったい、なにをされたらあのような声が出るのだ。
寒い。
ひたすら、寒かった。だから震えたのだ、と自分に言い聞かせた。
これから自分が行うであろうことを予想して恐怖したのではないと。
隣室で行われている行為を否定するものではないのだ、と。
事実、アルテイシアは娼婦たちを蔑視してはいなかった。
様々な事情を抱え、それでも大金を稼ぎだす彼女たちの逞しさに舌を巻くことはあっても、世間が向けるような悪意を覚えたことはない。
古来より女性が取り仕切ってきた職業だ。
独自の規範や節度、世界観の中でそれははぐくまれ、発展してきた。アルテイシアもそれは理解している。
(大丈夫、私はやれる)
アルテイシアは小刻みに震えながら、自分の腕を抱えた。
ドレスティアの館主がアルテイシアに着せたのは、いわゆるシュミーズドレスと呼ばれるものだ。
腰を締め上げるコルセットも、スカート部分を広げるクリノリンもない。
ハイウエストにリボンベルトをつけただけの衣類だ。
ただ、襟ぐりと背中は大きく開けられ、布が身体に密着するように非常に薄い生地ででき上がっていた。
すべては身体のラインをはっきりと見せるためだ。
ひとえに女性の身体を官能的に、蠱惑的に、優美にみせるためだけにデザインされたドレス。しかも夏向きだ。
そのせいで寒い。
窓は閉めているのだが、それでも冷える。それもそうだ。冬がすぐそこまで来ている。
(マーガレットは大丈夫かしら)
腕をさすりながら、アルテイシアはうつむく。急な冷えは呼吸器に悪い。
この娼館の地下。
娼婦や従業員たちが寝起きするその一室にマーガレットはいる。
神殿では世話係として自分に尽くしてくれたマーガレット。
偽聖女と断罪され、監禁されたレルーン修道院で処刑されるのを待っていたアルテイシア。
マーガレットはそこからともに脱走し、そのまま母国を一緒に逃げ出してくれた。聖モンテーニュ侯国にまで随行してくれた彼女は、いま、無理がたたって病に臥せっている。
娼婦たちは『もう長くないんじゃない?』とアルテイシアに声をかける。だから、高価な薬も滋養のある食事も無駄ではないか、と。カネがもったいないよ、と。
アルテイシアにもマーガレットの命運が尽きようとしているのは分かっていた。
だが。
長年聖女として尽くしてきたのに、ある日偽聖女と告発され、誰もが掌を返したように突き放した自分にここまでついて来てくれたのは彼女だけだ。
そんな彼女を簡単に失うことはできない。
聖女とは、ミリオシア王国創設に深く関わる存在だ。
当時大陸は魔境だった。
魔境には魔獣が住み、その糞尿は大地を
人々は魔獣に怯えて生活をしていたのだが、大神イライネーゼが大地に聖女を遣わした。
彼女が騎士に言祝ぎを行うと、聖なる力を身体に宿し、魔獣を
そうして魔獣を殲滅しつつ魔境を縮小し、ミリオシア王国は栄えはじめる。
以降、神殿は神託によって‶聖女〟を選び、魔獣退治に派遣される騎士に言祝ぎを与えて聖騎士にする。
もちろん。
神話だ。
実際に初代聖女のような力をもつ女性など存在せず、ただただ聖女役に選ばれた未婚の女性が討伐隊の騎士を聖騎士に仕立て上げて、武力でもって魔獣を殺しているにすぎない。
『ジョイアス伯爵家の娘が聖女に選ばれた』
そんな宣託を受け、両親は長女であるアルテイシアを神殿に差し出した。
溺愛している妹は手元に残しておきたかったのだ、と幼いながらも寂しく感じたのをいまでも覚えている。
アルテイシアはそれ以降、歴代聖女と同じく、魔境に魔獣討伐に向かう聖騎士に言祝ぎを行ったり、祀りを真面目に取り仕切ってきた。
17歳になったあの日、偽聖女と告発され、獄房のあるレルーン修道院に収監されたところをマーガレットによって連れ出されるなど、当時は思いもしなかった。
あの日。
命からがら隣国に逃げ出したが、マーガレットが持参した金品やカネはあっという間に底をついた。
このままでは路頭に迷う。カネを得るため、なんとか職を探そうとしたものの、マーガレットも本来は上流貴族の出身だ。深窓のアルテイシアと世間知らずさでは大差ない。
足元を見られ、何度か騙されてどんどんカネを失った。
最終的にマーガレットは自身の髪を売り、親の形見や息子から贈られた品まで二束三文で売り払った。そうして、なんとか住み込みで働ける仕事を見つけてきたのだ。
それが娼館ドレスティアでの調理員だった。
『お部屋でじっとしていてください』
マーガレットはそう言うが、アルテイシアきっぱりとかぶりを振り、娼館主にかけあって自分も調理員として働き始めたのだ。
それが、1年前。
厳しい暮らし向きにようやく慣れ始め、薄給であれど初めて手にしたお金でアルテイシアは甘いもの好きのマーガレットのためにマフィンをひとつ買った。
『もったいなくて食べれられません』
マーガレットはむせび泣いたが、アルテイシアこそ申し訳なくて涙があふれた。
自分に付き従わず、神殿に残っていればこんな目に遭わなかったのに、と。
アルテイシアのことなど見限り、息子を頼ればこんなことにならなかったのに。
『ここがこらえどきでございます』
レルーン修道院から国境まで向かうときや、飢えに苦しんだとき。あかぎれやしもやけに涙し、侮蔑的な視線から顔をそむけたとき。
なにより、心が折れてなにも考えられなくなりそうになったとき。
マーガレットはいつもそう言った。
『ここがこらえどきでございます』
アルテイシアの肩を撫で、そっと抱きしめてくれる。
その言葉に、何度助けられただろう。
耐える、という一見なにも行動を起こしていないように見えることこそが大切なのだとアルテイシアは身をもって知った。
そしてそれは、マーガレットがいなければわからなかったことだろう。
彼女の言う通り、様々な艱難辛苦に耐えたのち、ようやくアルテイシアとマーガレットの生活は安定してきた。
それが悪かったのかもしれない。
気を張っているときは痛みも忘れるものだ。
ほっとしたり「もう大丈夫かもしれない」と思ったときにやってくるのが病なのかもしれない。
マーガレットは、徐々に食事の量が減り、ようやく肩まで伸び始めた髪は真っ白になった。
頬はそげ、皮膚にはしわが目立つようになって、立ち仕事ができなくなってきた。
ベッドから動けなくなったマーガレットの分まで働くから、とアルテイシアは娼館主に頼み込み、それは認められた。
それが1か月前だ。
マーガレットはそのまま寝つき、時折スープを飲む程度でいつも眠っている。
アルテイシアはその彼女の身体を撫で、衣服を取り換え、清拭をする。そうしないと
目が醒めれば『申し訳ありません』と泣くマーガレットに、アルテイシアは笑いかけた。
『はやく元気になってマフィンを食べましょう』と。
だが、そのためには薬が必要だとわかっていた。
そのカネが手元にないことも。
『給料の前借を……させてもらえませんか?』
アルテイシアは平身低頭娼館主に頼んだ。
『できんな』
すげない返事で断られた。
『なにも意地悪したくて言っているんじゃない。前借をしたところでどうにもならんから言ってるんだ。いいか、借金は地獄の始まりだ。ここにいるやつらを見てみろ。みんな借金のせいで売り飛ばされて来た。カネはあっという間に人としての尊厳を奪う』
アリ、と娼館主はアルテイシアの偽名で呼びかけた。
『喉の渇きに耐えかねても、海水は飲んじゃいけねぇ。あんただから言ってるんだ』
娼館主にアルテイシアやマーガレットの出自を話したことはない。だが、言葉の端々や動きをみれば上流階級の出身だとはわかるのだろう。娼館主はため息交じりに首を横に振った。
『あんたの連れには気の毒だが、薬をいくら与えても死ぬときは死ぬ。悪いことは言わん。このままにしておいてやれ』
『わたしのために、彼女は地獄に落ちました。わたしだけがここにとどまることは、なによりわたし自身が許せません』
髪を売り、親の形見を売り、息子から贈られた品まで売り払った。小汚い女だと蔑まれながらもアルテイシアを守り続けたマーガレット。
もしも。
もしも薬を投与することで状況が改善するのであれば。
ここをこらえれば。
ここを耐え抜けば。
また彼女がマフィンを楽しめるようになるのであれば。
『だが、前借はできんよ』
娼館主は淡々と言い放ってしばらく沈黙したものの、大きくため息をひとつついた。
『討伐の途中だが慰労を兼ねて、もうすぐ辺境から騎士団が戻って来る。魔獣退治の騎士団だ』
この街は辺境に近い。魔獣が出没する地区に隣接している。
そのせいで、侯から命じられた騎士団が定期的に魔獣狩りに出かけるのだ。
騎士団は2か月の活動ののち、討伐を終えて街に下りて来る。
戦果を祝い、酒とともに女を買うためだ。
『今回の討伐騎士団はうちの上得意様であるスロイレン男爵の騎士団だ。まぁ……騎士相手ならそんじょそこらの娼婦でもいいんだが……。スロイレン男爵は気難しい。いままで十分に満足させた女はいないぐらいだ』
娼館主は、アルテイシアを一瞥した。
『これはただの勘だが……。あんたならうまくやれそうな気がする。一晩だけ男爵に身を売るかい? そうすればあんたが望む以上のカネを手に入れさせてやろう』
アルテイシアはしばらく黙考したのち、『よろしくお願いします』と頭を下げた。
そうして、いま、スロイレン男爵を待つためにここにいる。
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