第二十五章 雨が伝う
僕は妙に落ち着いていた。未練と言うものがあるなら、直ぐに死ぬような真似はしないだろうし、文は僕を捨てたわけでないというのは理解していた。ぼろぼろのビニール傘を指して、文を追った。この雨で傘を指して走るのも難しく、歩いていた。変な冷静さに、僕自身も驚いていた。
錆びてボロボロになってしまったベンチ。雨によって、その錆びも全て洗い流されてしまいそうだった。どうしてか、僕はこの道が良かった。ここを通りたかった。文がこの道を通ったと言う確証も全くなかった。そして、居なかった。あの日のように、座っているはずもなく、ベンチが雨に打たれているだけだった。ここを見ていると、まるでこの街にはもう誰も居ないかのような気分になる。でも、この寂しい情景が好きだった。
文はどこに行ったのか。そんな風に候補を考えていたが、その道を真っ直ぐ行った大通りに彼女は居た。車が通る心配もなく、ただ、雨の中にいた。広い舞台に一人で、観客は居なかった。力尽きたようにそこに座り込み、息ができない程の水量に、打たれ続けていた。
「帰ろうよ。」
僕は歩いていき、声が届く距離でそう言った。傘に大粒の雨が当たり、僕の耳に騒音となって届いていた。
「私ね、考弥と出会ったあの日、人を殺そうと思ってたの。」
雨のせいで瞬きすら容易にはできないのに、文はわざわざ顔を上げて僕に語り掛けた。
「誰を?」
僕は立ち止まった。衝撃ではなく、なぜベンチにあんな風に留まっていたかを、ずっと考えてたからだ。
「私を傷つけた人、皆。」
だとしても、殺したわけではない。それは重要なことだろうか。
「でも、しなかったんでしょ?」
ただ、今もそんな感情があるのか。
「君を見たら、自分が死ねばいい。って思った。でも、誰かを殺した方が、楽だったかも。私は、この人生が苦しい。」
また毒だ。これは、僕と出会わなければ良かったと、そう言ってるのだろうか。恐らくは違う。幸福に生きたかった。ただそれだけだ。文はずっと、ずっと何を望んできたのか。全てを捨てられないと言っていた。死だけが望みではない。だったら?僕は傘を差し出すことができず、距離を保っていた。
「文は、興味もないのに僕の食事に乗ってくれた。僕にとっては、あれが奇跡だった。」
幸福と言う言葉は口から出なかった。今までも、ずっとだ。僕は何を得れば幸福だと言い切れるのか。
「たまたま、お腹が空いたの。レバニラ、美味しかったよ。考弥、私はもう、なんにもない。空っぽ。でも、なんだかまた行きたくなっちゃうな…」
気まぐれだったというのも間違いないのだろう。文は僕が求めて良いような人では無いというのも、あながち間違いじゃない。生きがいがない、という美味ではない共通点だけが、僕らを引き合わせた。運命とか、そんな言葉は使うべきじゃないな。
「僕に合わなかったら?それこそ誰か殺して、自殺してた?」
文の生い立ちを知ってしまっている僕は、それをただの皮肉や悪態に収まらないものだと解っていた。殺すというのも、計画的だったかもしれない。
「こんなとこ、誰も来ないから。考えるにはちょうど良かったの。なのに纏まる前に君が来た。考えるの邪魔したの。顔もジッと見られたし。」
放置された人形。それは今思えば言い得て妙だった。日ごろ無表情ではあるが、ほぼ無心に近い状態でそんなことを考えていたのだ。美しく、そこにある。それだけが今も忘れられない。
「僕は出会えて良かったよ?」
僕は一歩前に出た。運命何て言葉は乙でもなんでもないが、あの偶然にだけは心揺れるものがあった。
「私もよ。でも、大っ嫌い。」
文が泣いてるのかも、確認できなかった。でも、その表情は、余りにも悲し気があり、この世の全てを呪っているかのようだった。そんな顔で僕を見つめ返す。全部を諦めた表情、それを見て、耐えられなくなった。なんでもいい、彼女を救ってくれ。雨音が邪魔だ。この傘も。彼女が雨に打たれるというのなら、僕もそうする。僕は傘を放り投げ、絶望を露わにする文に駆け寄り、座り込み、抱きしめた。
「ああああ。なんで。なんで…。」
文も力なく僕の後ろに手を伸ばして。抱きしめ返した。縋れるものは僕でなくていい。何か一つだけでも、良かったと思ってくれ。
沈んで溺れてしまいそうな雨。当然、こんな雨の中、傘も差さずに居るのは僕らくらいだ。でも僕らは流されてしまいそうなそれらの中、抱きしめ合っていた。こんなどうしようもない僕に居場所があるなんて。冷たい水滴が全身を伝うのに、ひしと体温を感じそれを噛みしめていた。君は心から笑って生きてはくれないけれど、これが幸福だとは言いたかった。
文は号泣していた。子供みたいに、うわああん。と。その全てを、この雨は流してくれやしない。どれだけ絶望しても、呪っても、ただ冷たさだけが落ちてくるだけ。僕はこの瞬間、知ってしまった。もう彼女が幸福になることはなく、それをとっくの昔に失っていると。どんな愛を与えても、希望を与えても、良い人生だったと思う終わりは訪れない。それでも、今ここには、温もりを感じられるのは僕ら以外なかった。僕も悔し涙のようなものが溢れ出していた。心の形が変わってしまう程、何かを思っているのに、何も変わらないのだ。僕らの抱える問題も、この先も、過去も。口を開ければ頬を伝い、雨水は入って来る。息苦しくてしょうがなかった。
「帰ろっか…。」
着てるものが水分を全部吸ってしまうくらい、いやそれ以上の時間、抱きしめ合った。お互いの鼓動と息がもとに戻り、この雨に飽きるまで。そうしてようやく、僕は文を起こし上げ、帰る場所があると言ったのだ。
「うん。帰る。」
本当に道に迷った少女のようだった。純粋さはなく、通って来た道も、茨が過ぎたが。僕は傘を拾い上げ、文を入れたが、これからという問題を蹴り飛ばすみたいに、諦めを心で付けてしまっていた。
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