第二十四章 更なる…

 まだ。まだ。そんな言い訳を重ねて来た。本当にまだだった。だが、解決しようのない問題に直面した時、そう思ってたことを後悔する。幸福だと思えば良かったのになどとだ。どうやったって無理だったのに、喉元過ぎれば熱さを忘れる。

「いつもこう。自分、それが起因。ふざけてるよ…」

 文と居続けられるならそれでよかったというのは安直だった。それなのに、許してはくれない。僕らは別々の道を歩むべきだった。理由としてはくだらないだろう。仕事は、悉くダメだった。何かを始めようとしても、必ず躓く。一、二カ月それを続けていてようやく解った。僕が終わろうとしたのは尤もな理由だったと。正社員時代に比べて余裕があるわけでもなく、完全に残り汁を啜っているような生活にもなる。そして、それを解っていても、もう動く気力が湧いて来なくなった。ドラマチックな変動があったわけでもなく、解っていたことだが、いよいよ後も無くなってきたわけである。もう一つ、僕は文と出会って一年が経つのに、何か成長したか。していない。むしろ精神は悪化し、滞りを見せないのだ。これでは示せるものもないではないか。文にもかなりの迷惑を掛けていた。

 それに、もう少し時間を置いて。ともいかなかった。文の仕事の方でも問題があったらしく、暫く出勤できないとのことだった。クビ、というと違うようだが、いつ問題が解決するかもわからず、解決するとしてもかなり時間が掛かるらしく、職と食い扶持を失ったのと同義だった。文は心配ないと言ってくれたが、いつまでもこの問題を先延ばしにするわけにもいかず、僕のために束縛することもするべきじゃなかった。きっと、これは別れ時で、僕に可能性がない以上、文に居る意味がなかった。無責任でこんなことを言っているわけじゃない。文のことを思うからこそだ。ただ、最終局面とも違い、直接的にそれと向かい合う段階でもない。これからどうするかと言うことをじっくり話し合えば、解決策を見つけられるかもしれない。しかし、何もできない。という現実が足を引っ張り、やがては離れなくてならなくなる可能性だってある。だから、話し合いたかった。そんな別れ話になる前にも、未だ取り着くことのできなかった問題も、これからの文についても。せめてその責任だけは果たしたかった。最も、文が別れる必要を感じているかと言うのも重大な事柄だ。それでも居続けたい。と言ってくれるなら、別れようなんて僕から告げる気はない。

 文が仕事の日、夜に出かけて昼に帰ってくるというのが常だった。行く当てが無くなった文はしばらく僕の家に居た。家事は基本僕がするが、必要な部分は手伝ってくれ、付き合い方は良好と言えた。この日は雨模様が酷く、いつも通り体が重かったが、話さなくては。という気になった。

「文、ちょっとさ、色々話したい。良い?」

 澄ました顔で雑誌を眺める文の横から僕は語り掛けた。勤務しなくなった日から数週間が経っていたが、文にも動きはなく、現状をどのように把握しているかも伺えなかった。

「良いよ。どうしたの?」

 雑誌をパタリと閉じ、座り直してくれた。

「これから…のこと。文は何処か新しいとことか探そうって思ってるの?」

 問いただすような意図は一切なかった。僕がどうにもならない状態にあると伝えるためだ。文がこれからどうしたいのかを聞くことが難しく、このような言い回しになった。

「私、もしかしたら遠くに行くことになるかも。今は、まだ解んない。焦ってるの?」

 それは別れようなどと言う意図のものではなく、隠喩でもなかった。僕の焦燥感と、文と居られないかもしれないという恐怖は感じ取られていたみたいだった。

「凄く。文は良いって言ってくれるかもしれないけど、僕は何もしてあげられないし、足を引っ張るだけだと思う。文と別れるのは考えたくもないよ?だけど、そうした方が良いのかなって、考えちゃうんだ。」

 恐怖と言う感覚、それは変わらずにあった。様々な理由があり、それが変化し、形も違ったが、恐怖があるということだけは停留し続けていた。文を抜きには考えられない人生になってしまい、それが抜けてしまった時を恐怖し続けている。

「私はさあ、もう死んでんの。そう思うことにした。だったら、別に終わりとかどうでも良くない?」

 解ってる。それは。僕も自分をそう捉えている部分がある。だが、この腕の傷と同じ、そしてまた、あの日と、あの時と。僕は君にだけは笑って生きてほしいんだ。生きていたいって、笑って歩いて欲しい。心の底からそんな風に思うんだ。だから、彼女自身が死ぬことを望むなら僕も一緒に行くが、その要因を僕が作り出してしまうなら、そんなものは理想でもなんでもなかった。

「そうは言っても、全部捨てられる?僕には無理だよ。生きてる限り、目の前の反吐が出る程くだらない希望とか、幻想に手が伸びてしまうんだ。」 

 それは、ずっと僕が生きてきた理由だった。死ぬまで、希望はある。それは決して明るい意味ではない。それがどんなに実現できようがないものだったとしても、可能性が存在する限り追い求めてしまう。多分、僕と文が付き合うことがなかったと仮定しても、文と言う存在が、幻想が、僕の前からなくなるまでは、僕は死ねなかっただろう。

「…痛いよ。その言葉。捨てられるわけないじゃん。死に埋め尽くされても、それがどんなに輝いてても、なんか生に縋る自分もいるよ。解ってるよ。」

 文は顔を顰め、膝に顎を乗せた。怒りではなく、奥底の淀んだ感情だった。投げやりになればなるほど、冷静になる自分も見え、終局のみを考え行動することが馬鹿らしくなってくるものだ。それは、一つの側面に過ぎないが。

「だよね?なら、終わりも考えるべきだよ。あのね、それが辛いことだって解って言ってる。でも考えてほしい。僕も考えた。文と僕の将来は?僕には思い浮かばなかった。もう一度言うけど、全くもって別れたいって意味じゃない。これからのこと、一緒に考えてほしいだけ。」

 こんなことは言いたくなかったが、言うしかなかった。いつか話す日が来る。それが今日だっただけだ。現実を見て見ぬふりし続けるわけにはいかないのだ。

「それこそ一緒に死ぬって言うのは?ふざけてなんかないよ。」

 捨て鉢でもなく、文は出会った時のような人形みたいな表情で、そんな事を言い出した。痛がって注目されたいとか、そんな自分勝手な理由は散見されず、夢の中でも出そうな程、僕にとっては当たり前の反応だった。

「最後の最後はね。でも、文は、僕なしじゃ生きれないわけじゃないでしょ?」

 その道が違えば、ともすれば幸福を見つけられるのかも。僕が死のリアルを文に与えてしまっている気がしてならなかった。

「そういうさ、誰かが自分の人生になる。みたいな考え方、私は嫌い。私だって、誰とでも死んでいいとは思わない。考弥だから良いんだよ?でも、考弥のことだけに左右されて人生を送りたくはない。つまり、生きる生きないに人が必要とか思いたくないってこと。」

 どれ程愛し合っていても、考え方の齟齬と言うのは生じるものだ。僕にとって文は全てだが、文にとっては、そもそも人に生きがいを見出したくないというのが人生観だった。文の人生を思えばそれは当然のことで、僕のために生きてほしいなどとは、変えようのないことだった。そういう面では、僕が文の迷惑になるかも、なんていう考えは、そもそも共有できなかったのだ。

「言い方変えるね。もし、このまま今の状況が続いたとして、文は僕と居続けたいの?」

 だとしても、問題は別にあった。この先を見るというなら、僕らが一緒に居られるだけの気概と確証が必要だ。

「そうね。すみれに聞いたでしょ?私、ロクでもない人生だったの。今は居心地がとっても良い。幸せなんて言葉は使いたくないけど、一緒に居続けるだけの理由は十分あると思ってる。」

 今では自分から居ることを望んでくれる。しかし、僕は率直には喜べなかった。僕が先程まで考えていたものを改めさせる要因がなく、いつまでも足踏みをしている感じがしたのだ。

「乗り越えなきゃいけないことも多いよ。」

 すみれという名前を聞いて、絶対に目を逸らすべきではない問題を話す機会が来たと思った。この話をしたら、本当に別れることになるかもしれない。それでも、受け止めて、過去に終止符をつけて欲しかった。それを乗り越えなければ、あるか分からない希望すら、見えてはこないだろう。

「その気だよ。」 

 文は短く返した。その予兆を悟られることはなかった。

「違うよ…文、忘れてることがあるんだ。」

 僕は近づき、いつでも文を落ち着かせられるようにした。その様子に文も何かを感じたらしく、怪訝な顔でこちらを見た。

「なんのこと?」

 やはり自覚は無かった。果たしていいのだろうか。告げてしまって。何度も予測した最悪の反応、それが頭に浸透した。

「僕は、今から物凄く辛い話をする。でもどうか、なるべく落ち着いて聞いてほしい。僕はずっと君の味方だっていうのも忘れないで。」

 僕は文の手を取るようなことはしなかった。軽い慰めに当たるような真似だけはしたくなかったからだ。

「保証はできない。でも、話して。」

 文は膝を抱え、二度(にたび)僕の目を見た。未だかつてない真剣な僕の表情に、応じてくれたようだった。

「文はね、子供が居るって言ってたよね?でも、その子は死んじゃってるんだ。もう。文も、覚えてるはず。」

 早くも文は以前と同じような状態に陥ってしまい、蹲るように更に深く膝を抱いた。

「あの子、あの子が?居るよ?ずっと。昨日も…」

 自覚には至らず、妄言を口にした。

「ううん。今、家に居るの?文が離れてから何日経ってる?」

 今、その子を証明できるものは何一つないはずだった。彼女も、その矛盾点には覚えがあるだろう。

「会ってない?あの子は、もう居ない。居なかった。ずっと。」

 その事実に気づきだしていた。僕が前置きを作ったからか、少なくとも反発的ではなかった。

「そうだ。三年前に。」

 詳細を知らない。文が話せる状態になるかは不明だ。

「あ。あああ!しんだ。死んだの!」

 落ち着いていると思ったが、大間違いだった。文は絶叫し、自分の頭を叩き出した。僕はそれを押さえつけ、それ以上自傷行為をしないようにした。

「文、少しずつでいいんだ。思い出すのは。でも、受け入れるしかないんだよ。何でそうなっちゃった?」

 早すぎる。という問題でもなかった。きっといつしたとしても、こうなってしまっていただろうから。

「あの子?えっと、あの子。落ちて!階段から転がって…。事故だったの!」

 思い出したらしく、発狂はしていたが、僕の受け答えはできていた。焼き切れて名前は思い出せないらしい。だが、こうなるってことはその子を愛していたはずだ。その事実は大事だった。

「そうだね。落ち着いて、大丈夫。文は今、もう一度受け入れられたんだよ。だから、自分を傷つけないで。」

 僕が抑えていると、彼女は少しずつ動きが小さくなり、激昂も抑えられた。

「私は、最低!ごみ。何でまだ、生きてるの?」

 小さくなったものの、その感情が収まったかと言えば、全くもってそんなことは無かった。

「文は悪くない。事故だったんだよね?その過去をさ、それ以上とやかくは言わないよ。だけど、その子はもう居なくて、文は心にしまうべきだとは言わせて。」

 僕は知らない。知りようもなかった。どういう心境だったかも、受け入れられるようなことなのかも。その心情も可視化できず、出来たとしても見ることは僕には許されないからだ。

「そうじゃない!私、その子が死んだとき、何て言ったと思う?よかった。って。そう言ったの。これで自由になれるんだって思ったの。悲しいとか、怖いとか、そんなことよりも先に。最低なの!あの子は生まれたくなんてなかったはず!なのに、いつもママ、ママって寄って来るの。それが可愛くて…それなのにそう思ったの!私はそれが性根だって知った。そんな人の命を、それも自分の子の命を、そんな風に捉えてるのは腐ってなくてなんだって言うの?」

 きっとそれは愛だ。自分の子を大切に思っていなかったら、こんなショック反応は出ない。失ってしまったことを、絡んでくる汚い過去や、関係性と結び付けてしまったから、あくどい感情が流れたのではないか。そして、その時点から完全に壊れてしまった。愛していたものの、文自身が生みたくなかった感情が前に出て、自分を納得させようとしたのでは。文が思ってしまったことは確かに最低だと考えられる。だが、事実はその一線に限らない。

「文は、辛かったんだよ。その子は、最低な奴との子だったかもしれないけど、心から憎んでたわけじゃない。こうやって思い出すのに相当な力が必要なのも、その証拠だと思う。最低だとは、僕は思わないな。」

 文が実際の精神を再認識することも、試練の一つだろう。忘れずに背負っていけるのなら、それは強くなるってことだ。

「そうかなあ?私は子育てなんか無理!って言ったのも覚えてるよ?本当に愛してたって?」 

 文は見たことのない、薄ら笑いを浮かべていた。山野に真実を告白したときも、こんな表情だったのだろうか。

「疲れてたって言うのは本当なんだよ。きっと。でも、その子が死んで悲しかったのも本当のはずだよ?」

 僕は冷静に諭した。文が受け入れつつあるのはこちらも感じ取れていたから。

「じゃあ、これからは?私は何をすれば?ホンっっっトうに疲れた。その子が希望だったとしたらどう?もうわかんないよ!」

 文は僕を突き飛ばすようにして立ち上がり、収まりきらないものがあると訴えた。供養、それも十分に終わってなさそうだった。文の目から涙が溢れ出し、地面に何度も落ちていた。

「落ち着いてよ。僕も一緒に考えるから。」

 そんな彼女を見ていられなかった。抗い難い苦痛から解放されて欲しかった。

「落ち着いてるよ!もう、全部が嫌なの!」

 拳を握りしめ、声を押し殺すように叫んだ。確かに、落ち着きがあった。ただ癇癪を起しているわけではなかった。

「待って!」

 しかし、彼女はそれだけ言うと踵を返して駆け出し、家から飛び出してしまった。座っていた僕は対応できず、遅れを取った。外は最悪の豪雨で、滝のように雨が地面を撃ち続けていた。傘も差さず、そんな所を走っていったのだ。

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