第二十三章 動かぬ心
行為に必要なものは、買ってきてもらった。あんな会話をしたのに、ピンクなムードに染まっているというわけでもなく、入りは服を着たまま体を擦り合う所からだった。文の体は曲線が美しく、それに指を這わせるだけでも昇って来る気持ちがあった。キスをして、横になった。前戯というやつか。僕には経験はないが知っている。僕らはそれを暫く続けていた。
「したこと、ある?」
文は耳元で囁くように聞いてきた。上半身を脱ぎ、体を重ね合った。まだ行為には至ってない。
「ないよ。初めて。」
童貞だ。そのせいなのか、この行為を軽く見ることが嫌いだ。そういう経験が無いことをからかうような表現をする輩も。それが世間の声と言う気はないが、どこかしたことのないことが恥ずかしいことの様な風潮があることが苛立たしい。愛を知ることができず、どんなに求めても、手にできない。その事の何が恥ずかしい。それを指さして笑うことができるか。誰にも愛されないことはコメディにはなり得ない。僕はこの行為自体に価値を求めたくはなかったのだ。性欲が満たされる。そうではなく、お互いに愛し、捧げられる。その意味こそが肝要なはずなのだ。ただ心に決めた人だけが良かった。それは、童貞だからと決めつけられ、揶揄されるようなことなのだろうか。
「そっか。また震えてる。前ほどじゃないけど。」
きっと、文の事を知らない時にこれに至ってしまったとしたら、君は経験豊富で、もう何人かと交わってるんだろうな。なんて、心で失意のようなものが生まれてしまっていたかもしれない。こんなことに慣れている。という事に対して、でしょうね。みたいなものを。それもまた、経験がない故の卑屈さか、はたまた嫉妬だと言うのだろうか。でも、今は違う意味で失望感がある。濡れなかったよな、今までは。可哀そうに。恐ろしい過去を文は思い出してしまうだろう。ではなぜ、自分から来た。その心情を、もっと深く、深く知りたかった。
「そうだね。ねえ、あのね。あんまり性に自信なくてさ。大丈夫かな。」
文が角度を変え、僕が上になった。体は興奮していた。文の体は魅惑的だ。どの部位も、愛撫したくなる。でも、消えないあざもあった。それを踏まえても、綺麗だが、自分がこれからすることに、良い偶像が無かった。
「と言うと?」
文は下着を脱ぎ、僕にも促した。纏うものは何もなくなり、普段触れることのない場所が触れあい、全身を温もりが駆け巡っていた。
「早くいっちゃうかも。とか。どういう風にしたらいいのか。とか。」
もう準備も終え、後は中に入るだけなのに、纏まりのない思いが行き来していた。嬉々としているわけではなく、こうまでして、僕は幸福の中にいなかった。してしまえばそれも変わるか?そんな気はしなかった。
「いいよ。数秒でも…体に任せて。もし、早く終わっちゃってさ、元気あったら、代わりに手でしてよ。」
文は自分らしくいた。僕はここぞとばかりに取り繕い、悪い意味で多面的に見てしまうのに、いつも通りの、落ち着き、見通せないような声だった。
また頭が真っ白になる。僕のモノが入っていき、密着する。文字通り、文に包まれているみたいで、果てしない快楽がやってくる。心臓もくっついてるかのように直接鼓動が伝わり、僕の拍子は文の上を行っていた。僕を気遣ってか、文は淑やかに吐息を漏らしながら声を上げた。自分でも良くわからず、体は動いていた。文の胸や腰、僕が本能的に魅力を感じる場所に手は伸びた。その快楽に身を任せていたら、直ぐに終わってしまった。数分、または本当に数秒か、思考が遮断された中、ドクドクと流れ出していくものがあった。そして、同じだった。これ以上の愛情表現はないはずだ。僕の予測、それに手を合わせるかのように、終ぞ多幸感もなく、虚無と言えば話が早い感情がただ居座っていたのだ。冷静さが戻り、今の感覚を再認識する瞬間に、その事をも認識してしまった。心より沸く情動は、救いようがない絶望だと知ってしまった。
「気持ち良かったよ。それ、捨てたら、もっかい横になって?」
終わった後の文も何一つ変っていなかった。もしかしたら、僕もこんな風に感情の起伏が少なくなってしまうかもしれない。何かに縋ろうとしているのが、それ自体が嫌になってくる。僕は言葉に従い、パッと着れるものだけ着て、横になった。
「結構ざっくりいっちゃってるね。死ぬとこまでやるの?」
まだ赤く、衝撃を与えたら血が滲んでくる僕の傷を撫でながら、文は言った。あの日と同様、辞めよう。というニュアンスではなかった。
「かもね。もうどうしたらいいのか…」
僕は今の感情を伝えられない。それが距離でないことも気づいた。何かが崩壊していた。
「どうしたら、か…私にも分かんない。どうにかなるとも思わないよ。ただ目の前のこと、するしかないんだよね。」
まるで、文の背中を追っかけているみたいだった。文が崖から飛び降りようとするのを、制止するためにではなく、自分が追い越し飛び降りるためか、手を繋いでそうするために。僕が強く引っ張って、他の道に行こうとしても、文は来てくれない。いや、来れないのだ。そして、僕も既に見直しが難しい状況なのだ。
「だよね。明るい将来とか、くだらないね。」
僕はついに口にしてしまった。よりによって、文と未来へ掛けていく道ではなく、諦めの言葉を吐いてしまったのだ。だが、まだ間に合うかもしれない。全ての希望を捨てることだけはできなかった。
「そう。くだらないの。」
文はフッと笑い、それ以上の事は言わなかった。僕に必要なのは、文が幸福を見失い、見えなくなったもの。それが何かを新たに気づかせることだった。しかし、僕自身がそれを感じ取れないというのが、地獄の門であった。
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