第二十六章 因縁
飯島との因縁を終わらせる必要があった。いつか大火事になりかねない。今でも執着が強いらしく、文の近所に偵察に行った時は、たまに周辺にいたりもした。普通に電話もかかって来るし、その兆候が十分にあった。ある日、僕はそこに居た時に声を掛けた。取っ組み合いの喧嘩になるかもしれず、解決できるかもわからないが、猶予のない中でその選択をした。
「おい、やめろって言ったよな?警察に突き出そうか?」
僕を見るや否や、こちらに近づいてきたので警告をした。何が大地と同じだ。こいつは、あんな大層な志を持ってなんかいない。
「丁度会いたいと思ってたぜ。そんなこと言うなよ。文は何て?アイツも理解しただろ?」
馴れ馴れしく、友人で会った時の様な反応を示した。一瞬フラッシュバックしたが、もう僕の心は凍り付いていた。
「自分に親権があるとでも思ってるのか?その子、今何してるのか知ってるのか?」
少なくとも、誤って子供が出来たというのなら、責任感と言うものを必ず持つだろう。そうなれば、彼女が泣いて離れて行っても、別の意味で放っておけはしないはずだ。せめてその子の安全だけは、気になって仕方ないのが普通なのだ。
「知らねえよ。文が生みたいって言ったんだろ。俺は反対だったんだがな。まあ、文が帰って来るなら、関係のない話ではなくなるな。流石に育児放棄はしない。」
その感性は下衆以下だ。そんなのは責任感とは言わない。お前にとってその子の命は、文との契約書とか何かと勘違いしているのだ。そして、やはり知らないのだ。こいつにとっては衝撃でもないだろう。あってはならない事実を。
「もうその子は、文の元を離れたよ。お前を繋ぎとめるものはもうないんだ。」
亡くなったということは言いたくなかった。僕にそれを伝える権利はないし、言えた所で分かっているからだ。
「で、諦めろと?」
直ぐに本性を出す。もっと狡猾な奴だと思っていたんだが。出だしから飯島に怒りが見えてきた。
「三度目だよ。文は帰ってこないって解らない?文、泣いてたよ。辛そうにしてた。愛してるならさ、どうすべきかはわかるだろ。」
お前のためにではないが。穏便に済ませようなどと思ってはいけない。自分の理論しか信じない奴に、何を言っても無駄だ。挑発とも捉えられる言葉でも良い。
「偉そうによ!お前は文と居ることを良い気になって誇ってるだけなんだよ。害悪が。」
今にも殴りかかってきそうだった。だが、その一線はまずいとこいつ自身も心得ているみたいだった。
「お前と何の関係がある?それに、僕は文を幸せにできるなんて、思っちゃいない。文も幸せになれると思ってない。誰と居ようと、何処に居ようと、彼女はもう全部に疲れてる。」
見下されているかもしれないが、こちらも同じだ。それに優劣をつける必要はないし、気に食わないのはお互い百も承知のはずだろ。
「何してるの?」
その時、僕の後ろ、遠くから文の声が聞こえた。この辺りには来ないって約束していたのに。絶対に来ちゃいけなのに。文は電柱から半分身を出して、伺っていた。距離はある。逃げることは容易い。そうではなく、これ以上この男に刺激を与えるのは愚策だった。
「文!はあ…飯島、そこから動くな。文と最後の会話をしろよ。説得でもなんでもすれば良い。でももし、それができなかったら、金輪際、僕らには近寄るな。」
文が何故か対話の意思を持ったことを尊重し、僕はそう促した。文は僕が飯島と口論になっている所を見て、わざわざ声を掛けたのだ。だが、飯島も解っていたのだろう。どれだけ言葉を投げかけても、返って来るのは首を振るサインと同じであると。大きく舌打ちをして、僕を殴り飛ばそうとしたが、文がスマホを掲げてチラつかせ、抑止力にした。
「私から言うね。もう一度一緒になるとか、あり得ない。でもね、今までの事は水に流してあげる。甘い思い出もあったし。その代わり、今後誰かと一緒になっても、暴力は振るわないって約束してよ。」
それはギリギリで保っている優しさだった。絶対に水には流せないし、流してはいけない事だったのだ。なのに、飯島に更生のチャンスを与えた。もしも、こいつに将来があったとして、あの最悪を繰り返さないため。それは、怯えていた時の錯覚ではなく、向き合って尚の言葉だった。
「文、俺はお前が良いんだ。お前しか駄目なんだ。暴力なんて振るわない。こいつよりも文を分かってあげられる。今まで殴った分、殴ってくれて構わない。」
安易だな。この期に及んで、まだそんなことを言えるのか。僕は口出さないが、滑稽にも程がある。軽蔑するよ、本当に。
「だから、ね?無理。分かってよ。逆にどうしたら諦めてくれる?」
文の発する語感はどこか優しかった。子供に言い聞かすみたいに、丁寧に、刺激せずに成されていた。
「俺は、文が生きがいなんだ。だから、諦めるなんてできない。」
飯島は縋るように訴えた。この気持ちだけは理解できる。文が人の人生を左右できる程に魅力的だというのは、周知の事実だからだ。
「私はあなたと離れることが生きがいなの。あんなことされなかったら、置いておけなかったけど、もう、遅すぎるよね?一緒に居たいって言える時間はとっくに過ぎてるの。」
文はちゃんと対話し、説得しようとしていた。前のような混迷はなく、冷ややかでもあった。ただし、克服したという意味ではない。彼女も、何かが変わったわけではないのだ。
「お前はこれからどうするんだ?こいつで良いのかよ。」
どこまでも僕を愚弄するな、こいつは。まあ、好きにしろ。そう思った。そういう問題でもないんだよ。
「これから?未来なんてないよ?あんたも奪ったから。」
少し、文に苛立ちが見え始めた。やはり、水に流すなんて言ったが、そんな気持ちは存在しなかった。どれだけの思いであの言葉を捻り出したのか。飯島は言葉を失った。既に引き寄せる理由もなく、説得の言葉も思い浮かばなかったからだ。
「もういいでしょ?終わり。さよなら。」
電柱から身を完全に出して、暴力的な感情を抑えるように冷たく放たれた。あまり長い問答を続ければ、またパニックになりかねない。潮時だ。
「畜生!有坂!お前だけは…殺す。」
飯島は僕の胸倉を掴み、今にも拳を振り下ろそうとしていた。殺すか…本気なのか。
「飯島。もう遠くに行った方が良い。未来が欲しいならね。」
どっちみち、ただ服役してもらうという選択は後味が悪く、証拠という証拠も提示できないため、避けた。だから、これは単なる脅しだった。
「てめえ!」
僕の言葉と、遠くでスマホを握り続ける文を見て意味を理解し、飯島は僕を殴りつけた。その衝撃に僕は倒れこみ、頬に大きなあざができた。その瞬間、文は必死に走り、僕らから遠ざかって行った。そうだ。それでいい。僕の心配よりも、この事態を飯島にどう受け取らせるかと言うことが重要で、離れていくという事は実に英断だった。
僕はそれを追おうとする飯島の足を引っ掻け、転ばせた。お互いが地に寝そべるような形になり、それから僕は半身を起こした。本当に殺されそうなほどの憎悪の表情が飯島に浮かび、彼も半身を上げながら僕を睨みつけた。
「猶予はあるよ。後二日、それまでは通報しない。でも、今までの会話だって録音してるし、今日の事も録音してる。証拠は十分。これだけの迷惑を掛けたし、今すぐ逃げた方が良いよ。ここを離れるって、前に行ってたろ?」
飛び掛かってきそうな雰囲気だったが、なるべく冷静に、動揺させるために淡々と話した。当然、ブラフだ。飯島に呼び出された日も録音なんかしていないし、文とそんな打ち合わせをしたわけでもないので、恐らく文も記録していない。この状況が、その拘束を生み出したのだ。これは推測だが、仮に今までの事を全て提示できたとしても、飯島が捕まるかは怪しいだろう。今、僕は殴られたが、ストーカーに関しては実害が発生しない限り、警察も関与しづらいというのは聞いたことがあるからだ。しかし、散々人を貶し、恋人という繋がりしか見ていない発言をした彼には、そうは映らないだろう。
「馬鹿にしやがって。有坂!…クソッ!」
怒りのまま地面を強く拳で殴りつけると、文とは反対方面に駆け出していった。地面には擦った血の跡が残っていた。もう変な気は起こさないだろう。ただ、今までの思い出は頭の中にあった。余念があると言えば嘘になるが、スッキリしたかと問われれば、それも違った。新たな扉を開いたわけではなく、思い出と言う時間が止まったものが完全に動きを取り戻しただけで、今の僕の人間関係は、一歩後ろに下がったと言えるだろう。飯島はとっくに見限っていた。そうだとしても、良い友人ができたと思った歓喜の向上は、無下にはできなかった。
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