第二十一章 自分
文の人生を背負うというのならば、僕自身にも変革が必要だった。このふざけた自己嫌悪を、自傷行為という逃げ口に向かわせない努力もしなくてはいけなかった。ずっと前に考えた破滅。僕が絶望し、生きることを諦め、自分を傷つけるというのなら、きっとそれが待っている。僕は文が負った程の心の傷ではなく、比べようもないものだ。しかし、僕が今まで死ぬほど苦しかったと感じた、あの感情は本物で、否定できるものではない。そこに映った苦しみや悲しみは、文字通り、僕には耐えがたいモノだったからだ。だから、僕の前進と言うのも簡単なものではない。
まずは精神科に掛かった。僕の考え通り、鬱病だと診断された。間違いなかった。知って、自分で理解すると、どこか安心感があった。病気のせいで体が重く、怠惰でいるわけではないことを、少なからず保証してくれる要素であってくれるからだ。そうは言っても、自己嫌悪や、根底にある絶望感がどうにかなるわけでもない。僕にも、時間が必要だと言われた。僕の心は良くなったわけでもないし、むしろ救いようのない感情は増し続けている。人と接するときの態度は、普通に、なんら問題ないのないものに見えるだろう。しかし、それは精神の成長なんかではなく、幸福を追い求めることへの疲労であり、もう苦しみしかないという諦めでもあった。それに気づいた。文を押し上げるには、自分がそうあってはいけないというのに、変わらない感覚があってしまったのだ。だから、僕は強い信念と決心を持ったわけではなく、ただ意識としてあらなくてはならないと解っていただけなのだ。よって、非常に難しい問題でありながら、破滅と言う道も、選びかねない精神状態だったのだ。その内で、自傷行為をやめることにした。文が、今も。なんて言ってたのを思い出す。僕は同じ道を行こうとしているのだろうか。
陰ながらの闘病の間、文はいつも通りに落ち着いていった。飯島は関わることを暫く諦めたらしく、腫物の心配もひとまずはなかった。いっそ飯島に子供が死んでいることを教えれば、引くか。いや、半分偏見だが、子供なんて全くもって関心はなさそうだ。あの手この手で文に近づくだろう。塀にぶち込むか、あいつの知らない場所まで行くことをしなくてはいけないかもしれない。そういう風に、時は流れた。僕は真実を口にするタイミングを見計らっていたが、来るはずもなく、言えないままだった。
春ごろになって、自傷行為からは離れることができていた。依然、抑えがたい自暴自棄な感情に襲われるが、その感情ではなく、行動を抑えることは出来ていた。文との関係も良好で、特段問題もなく、月日は流れた。例の話は心のなかにあったけど、いつ打ち明けるのかは難しい問題だ。数カ月後か、数年後か。そもそも、文に受け入れられる態勢ができるのかが謎だったのだ。でも、日々と言うのは悪くなかった。このまま将来を考えられるくらいに、文と一緒に居られるなら、たらればだが、僕の心は少しずつ回復するかもしれないからだ。
そしてある日、前に遠出でもしたいと思ったことを実現できることになった。無難に遊園地。捻りもなければ意外性もなかったが、想像以上に僕はわくわくしていた。その場所は観覧車もあり、ジェットコースターもあり、かなり規模が大きく人気な場所だった。鬱の症状の一部なのか、人が雑多にいる場所を酷く辛い環境だと日ごろ思っている僕だったが、この場所は耐えられそうだった。
「私、来たことないのよね。屋台とかも出てるし、良い所ね。」
文はすっかりいつもの文だった。自分たちの駅から一時間、ここまで一緒に彼女と来た。客足も多く、海外からの観光客もいたりなんかして、かなり賑わっていた。
「僕も、あんまり。詳しくないから、適当に回ろうよ。」
普通の、当たり前の、心休まり、続いて欲しいと思うデートだった。僕らの抱える問題を隅に追いやり、今と言う時間を楽しむことは出来ていた。ただ、文はどうなのだろう。強いショック反応を見せた日が今の今までチラついている。文の美しさに見とれる以上に、僕は文の顔を、表情を見る機会が多くなった。しかし、変わらないのだ。会った時から、無表情で虚ろ。それが彼女だったから。
「…ったけど。猫アレルギーなのよ。私。」
アトラクションに並んでいる時も、会話した。他愛もないものだ。少なからず楽しんでくれている文を見て、僕は隅に置いておけない問題を、今日ばかりは考えないと心に誓った。今はペットを飼うとしたら何か、と言うことについて話していた。
「アレルギーか。好きなのに嫌だね。僕はないな。猫ね。僕も猫派だし、実家暮らしの頃は、一人暮らし始めたら絶対飼いたいって思ってた。首が回らなくてやめたなあ。」
ペットとか、飼うことも考えたが、結局諦めていたことを思い出した。動物とも触れ合っていないな。次のデートは動物園かな。気が早いが良いかもしれないが。
並んでいたのはジェットコースターだが、僕は苦手意識があった。遊園地なんて子供の頃から行っていないし、だからこそ楽しいというイメージが乏しかったからだ。興味本位で並んでいたのだが、それなりには緊張していた。
「文は当然ジェットコースター初めてだよね?緊張とかしてる?」
僕みたいに、上っては落ちて行く乗り物を目で追ったり、乗車人数をざっと確認したりと言う様子もなく落ち着いている様子だった。
「実はちょっと。なんかお腹がフワッてするんでしょ?心地よい感覚だとは思えないんだけど。」
少し意外だった。聞かなきゃ伝わらないこともあるな。まあ、僕程動揺していないだけなのかもしれないけれど。そんな会話をしていると、僕らの出番が来た。案内されて、二人並んで椅子に座る。僕が外側で、その隣が文だった。全員が座り終えると、バーが降りてきて、位置を固定された。言い方が悪いが、逃げられなくなったという恐怖感が降りて来たみたいだった。
この手のものは絶叫マシンと呼ばれているが、絶叫はしなかった。だが、怖いという先入観の元乗っていたため、スリルがあって普通に楽しかった。何度も乗りたいとは思わないが、列をなしてこれに乗ろうとする人々の感性にも頷けた。勿論、僕は初めてじゃないけど、久しぶり過ぎてそう思った。正真正銘、初めての文と言えば、もう言うまでもないだろう。ジーっと遠くを見て、無表情でこんなものに乗っているのだ。でも深刻さは無くて、口角も上がっているように見えなくもなかったため、僕はクスリと笑ってしまった。
「どうだった?僕は結構楽しめたけど。」
それらが終わり、僕は語り掛けた。機械が高速で動く音は大きく、耳障りだったというのが率直な感想だが、これも本音だ。
「フワッて本当にした。あの一瞬だから良いと思えるかも。変と楽しかったが半分ずつってとこ。」
それは良かった。少しでも楽しいと感じてくれたなら御の字なのだから。
それからはこの遊園地を歩き回り、様々な施設を堪能した。コーヒーカップやお化け屋敷、メリーゴーランド。きっと、遊園地と聞いて思いつくような所には全部行けただろう。途中で小腹が空いて、ホットドッグを二人で買い、屋外テーブルでそれを食べたりもした。そのどれもが、日常に溶け込んでくる非日常で、有限である時間を忘れさせてくれた。気が付くと夕方の鐘が鳴り始め、いよいよデートも終わりを迎えてしまう。
「最後は、やっぱり観覧車。夕焼けを見よう。」
なんてベタで浅はかか。きっと美しいだろう。それは間違いない。しかし、人々の中に存在する、ありふれ、数も見てないのに見飽きた光景なのだ。先天的に見慣れている感じがする。想像に難くない、染みるようで面白げのない風景でもあった。
「赤くなってきたね。締めとしては最高。」
文は肯定してくれた。心の中では、当たり前すぎるなあ。なんて思っているかもしれないな。だけど、君と夕焼けを見たいんだよ。
ガタッ、ガタッっと、静かな音を立てながら、それは登っていく。赤く染まる斜陽は角度を変え、色合いも変化する。人々が小さくなり、雲が大きくなった。小窓がある小さな部屋も、静かでしっとりとしていた。ずっと見つめ合うわけでもなく、風景を見続けるわけでもなく、僕らの視線は自然に色んな場所へ移っていた。天辺まで登っていき、太陽が照り付けるのに、目を瞑る程眩しくなく、遠くにある湖畔の波を、撫でるように赤く染める夕日は、寂しさと美しさを持ち合わせた色彩だった。
「やっと、落ち着いた気がする…もう少しだけ、ゆったりとしていたいなって思う。いや、違うか…」
その景色を見て、文は湖畔の更に奥を眺めながら、息を吐く様にそんな事を言った。文は、ゆったりとしていいんだよ。そんな時間、無かっただろうから。しかし、違うか。とはどういう意図なのか。何に対して言ったのだ。独り言が出たような雰囲気もあり、この場もあり、僕は言及するつもりはなかった。
「そう…だね。また、もっと遠出とかも良いかも。落ち着いたらさ…」
今日は忘れようと思っていたのに、そんな日が来るのだろうかと思ってしまった。こんな情景と、愛しき人がありながら、まだ…。僕はそう言ったが、文はそれについてなにも言わず、ただ遠くを見つめているだけだった。無視ではないというのは感じ取れた。
僕らは遊園地を後にし、近所まで一緒に帰った。今日は良い日だったよ。特色のない一日かもしれないけど、僕には濃かった。そういう日々に、僕は憧れを覚えていた。
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