第二十二章 忘却

 一年が、過ぎようとしていた。だが、僕は忘れていたようだ。今まで不幸続きで、下り坂に今もいるという事を。手始めは、バイト先だった。

「うち、畳むことになったんだ。近所にデパートできたからさ、経営難。今までご苦労様。考弥君、君への態度は悪いと思ってる。ずっと真面目にやって来てくれたからさ。まあ、バイトは他でお願いね。今までお世話になったよ。」

 斎藤店長はある日、こんな事を言い出した。長くやって来て、なんだかんだで恨むような人柄ではなかった。後味が悪かったわけじゃないし、僕を愚図だという事を、嫌味を持ち続けず、和解してくれたのでそれでよかった。だが、バイト先はここしかなく、良く食い扶持を繋いで来れたなと思う程に通っていた所なので、また何かを始めなければいけなかった。

「ああ、なるほど。かなりの大手が絡んでましたし。こんな僕を置いてくれて感謝しています。」

 僕は長くここに居るのに、失敗は絶えなかった。なのに雇い続けてくれたのは理解と言わずなんと言おうか。そういう風に、僕は煙たがられる人間で、普通に仕事ができない駄目な奴なのは今でも不変だ。その日は普通業務を行い、多めの月給をもらい、縁が切れてしまった。思い出せば、続けたのは文という存在、ただそのためだったな。何も気力が起きないあの感覚、いや今でもあるのだが、あれが突き動かすものなく続いていたなら、僕は家無しにでもなっていたのだろうか。だとしても、あんな出会いを希望などと考えたのは誠にちゃちだと考えさせられるな。

 次の一歩。それはどうするべきなのだろうか。普通に就職?それともまたフリーター?分岐点に早くも立たされたため、将来性という単語が後ろから見張っていた。前に、文は結婚などどうでもいいと言っていた。まだ、そんな事を話し合うような時期でもないが、関係性が続くとしたら、その将来性を度外視するわけにはいかないではないか。途端に、文が居なくなってしまった時の事を考えてしまった。僕は、何に生きる?僕は、文に何を望んでいるのだろう。僕が今まで、文のためという名目で動いていることを思い出したのだ。僕と言う人間の未来は、そうではなく、僕自身の成長によって成り立つと気づいた。なのに、その力と根性が沸いてこないのはなんだ。腐っているのか、もう。諦めたあの日から。

 思案する日々は、そう長くは無かった。春が終わる頃、僕はとうとうまた手首に赤い跡をつけてしまった。堂々巡り。僕はなぜか、前に進めなかった。一つは、文との未来。僕は今、正社員などとして働けるだけの気力が無かった。そして、バイトを続けることへも、しんどさが深くなった。今までは惰性でやっていたし、そう考えずにできていたから、こんな事態になった。そして、それを続けた所で、文とより良い関係性を続けていけないような気がして、未熟で、それに甘える自分を呪った。もう一つは、考える時間が増えてしまったことだ。さっきの事もその内ではあるものの、今までを振り返り、考えを巡らせる時間、隙が増えた。今では憎悪を覚える飯島との思い出と、その道中で強く焦がれた友情への熱い思いが、大地と重ねていたことを思い出し、噴き出した。未だに、僕は大地の事を受け入れ切れてなかった。そんなに時間は経っていないから当然だが、あの苦々しい経験が、その存在を堅固にし、根付かせた。友情を覚える人、それと文が絡んだ。山野は友人だと言っていいだろう。でも、もし、文と別れるとなったら、その関係性も崩れるだろう。だから、山野が女性だからとか、そういう事を抜きにしても、友人として付き合いを深くしていくというのは憚られたのだ。そうなれば、また友人と言う友人もおらず、将来への不安、それに伴う文と言う不確かな存在がフラストレーションとして堆積していた。

「痛い…なあ。本当に苦しい。痛い、なんで。もう嫌だ。またこれだ。何回繰り返す。」

 初めはほんの小さな綻びだ。また、ただ一歩前へ歩み出せば良かったのに、自分の首を絞めていく快楽に、人生を負のモノにするのだ。再び自殺願望が迫って来て、僕がその鋭利さを際立たせる。圧殺されるかのような非情な現実。何処まで行っても幸福はないような絶望感。その全てに押しつぶされそうになるのだ。沸点も低くなり、多少の事でも抑えがたい怒りが沸いてくる。このままでは本当に、僕がずっと前に臨んだ終わりに逆戻りし、この救いようのない感情を、そのまま救いようのないにしてしまう。

 僕は寂しくなって、文を家に呼んだ。今も離れていくことを考えてしまうけれど、絶対にそうなっては欲しくなかった。でも、こんなことして、文の絶望を救えないと知っているはずだ。僕は結局何もできない。

「お邪魔します。どうしたの?目にクマができてるよ?」

 玄関から歩いてきて、僕の様子に少し驚いた様子だった。僕は最近、普通に振る舞っていたし、察知はされていなかったみたいだ。

「文、また、切っちゃった…もうやめるって思ってたのに。」

 僕はその傷口を文に見せた。最悪な気分だ。僕は何をやっている。導かなくてはいけないのは僕の方ではないのか。縋ることはするべきじゃないだろ。

「…なんで?また嫌になっちゃった?」

 文に咎める気はなく、僕の横に座り、優しく問いかけてくれた。自分自身が終わりに向かわせている。馬鹿なのか。

「沢山…これからどうなっちゃうんだろうって。確かなものが一つもない。」

 離れないで。とは言えなかった。そんな言葉を吐いたあの日と比べ、どこか先の見えている人生だったからだ。がむしゃらに目の前のモノを掴むということができなかった。

「これからね。難しいね。バイト、辞めちゃったから?暫く、私、ここに居ようか?」

 文の言葉は優しかった。泣いてしまうくらいに。でも枯れてた。何がどうやっても、前に進めない気がした。いや、進みたくはないのかもしれない。

「うん。何か、死ぬほど考えちゃって…それって、面倒見てくれるって意味?」

 そこまでしてくれると言うのか。それでも変えようとしたくないと思ってしまいそうで、晴々した気持ちではなかった。そんな屑に僕自身はなりたくない。

「そうよ。あの家いると落ち着かないし…ほっとけないし。」

 文はそう言うと、僕の側面から頭に手を回し、傾けさせ、頭を触れさせあった。そのままぎゅっと、抱きしめ、揺らしてくれた。同情だけではない、愛があるスキンシップを文からしてくれた。愛。僕は今までそれを感じ取れなかったのだ。今、ようやく、自分から形にしてくれた。でも、これだ。埋まらない何かがある。

「将来のこと、考えたりする?僕は分からなくなっちゃった。」 

 そのまま、文の体に触れ、僕からも抱きしめ返した。その埋まらないものを確認するためにも、そうしたが、やはりだ。

「考えない。ようにしてる。考弥は大丈夫だよ。」

 彼女の言葉には重みがあった。その考えないようにしてるものの中には…。あまり気苦労を掛けさせたくはない。

「文が言ってくれるなら、安心する。長い時間、こうしててもいい?」

 僕は嘘をついてしまった。その安心と言うのは仮初でしかなく、今もこうして不安を煽り立てるものでもあるのだ。

「勿論。そうだ、する?そういう気分でもない?」

 その言葉は僕からではなく、彼女からだった。ただ、文の性事情を思い出してしまい、複雑な心境だった。喜び、興奮。そんなものではなく、泡立つような忌避感に似た何かがあった。

「いや、しよう。だけど、辛いのが理由じゃないよ。」 

 僕は求めることにした。そういう否定的感情があったが、いつまで経っても僕と彼女が交わることに、過去と言う事情を織り交ぜたくはなかったのだ。本来は、僕と君。今この場はそれだけが重要なはずだから。そして、この悲しき思いを沈めるためではなく、関係性にもう一段階を加えるのがこれの意味だ。

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