第二十章 現実の歪み
汗を拭き、落ち着くと、今一度話が始まった。より現在の時間に近づいていき、内容も終わりに近づいてきた。
「一人暮らしを始めて数年。あの年齢で生活を十分に支えることは難しくて、さっき言った怪しい仕事もせざるを得ないって感じで、夜に染まっていった。言っとくけど、風俗とかじゃないよ?うん。それで、さ、そう言う事もあって、ある時、街で集団暴行にあったの。病院に搬送されて、私も迎えに行った。軽いニュースにもなったから知ってるかもしれない…それが大体、年齢で言うと大学二年。二十歳の時。詳細は知らない。文もショックのせいであまり思い出せないって。そんなの思い出して欲しくないけど。私も、その後からは文となるべく一緒にいることに決めたの。でも、目から光は無くなっちゃってた。
数カ月で退院したんだけど、その後も酷い状態だった。自傷行為が耐えなくなって、オーバードーズで救急搬送されて、再入院ってことにもなった。私だけじゃ力になれなかった。辛いって言葉もちゃんと吐いてくれた。人生に疲れ切ってしまったってことも、ちゃんと口で伝えてくれた。短大だったからね、私は美容師の資格もう取れてて、もう就職も目途が立ち始めてたけど、遅らせた。文に少しでも幸せになって欲しくて、できるだけ支援したくて。それでも、駄目だったの。そう、思えばこの頃から…文の心はもう私の傍には無くて、深い水の中に落ちて行ってた。それから、一年くらいかな、確か八カ月。病院での暮らしが終わって、また退院。落ち着いてたけど、もう殆ど今の文になってた。それまでは私も、文に何かあってもいけないから、夢を止めてた。感謝はしてくれてたけど、私は実際何も出来てないよ。それで、私も節目だったから、都会に出たの。まあ、ここも都会っちゃ都会だけど。それで、今みたいな関係性になった。会う頻度も変わってない。そこだけは安心できる点だった。
文が二十二の時、アイツと出会った。そう、飯島。私は今までの傾向でヤバいって思ってたけど、意外と上手くいってた。久しぶりに文が笑顔で話すんだよ?止められるわけないじゃん。始まりも偶然出会ったとかで、ヘビーな事情も無かった。でも、もうわかるでしょ?最初だけだった。あいつも暴力振るう奴だった。典型的なDV彼氏で、優しくなるのと暴力を繰り返して文の反発を抑制してた。顔は広いし、普段愛想は良いから、それが表に出ることも無かった。文も、新しい一歩を踏み出せるって思ってたから、またもやしばらくは泳がせてた。それに、純粋な愛っていうのを文は知らない。飯島が文を束縛するのも、愛の一つだって思ってる節があった。依存。その形は歪みに歪んでるのに、嬉しいと感じる所さえあったの。ただ、文も単純じゃない。明らかにその頻度も増して、束縛と言う域を超えだしたから、私にも相談してくれた。私もあいつと何度か話した。その度に、愛想よく、最近疲れてるし、文に強く当たってしまってるのは認める。とか、文が苦しんでるなら絶対にもうしないとかで躱された。その時は文、あいつを激しく非難してなくて、強くも言わなかったから、痴情のもつれだろうって思ってた。
馬鹿なのは私だった。文がどんなに嫌がったとしても、引き剝がすべきだった。飯島にもっと問い詰めるべきだった。恐喝でもなんでもいいから。文との間に子供ができた。勿論、望んでなんかいなかった。性交渉も殆ど無理やり。ただ、文は疲れ切ってたし、怯えてたし、公にはしなかった。
私にだけ、言ってくれた。あの時の声を、思い出したくもない。ただ悲しむだけじゃなかった。なんか、吹っ切れたみたいに笑って言われたのよ?私はここに来るタイムラグが無かったら、きっと飯島のやつを殺しに行ってた。その子をどうするかって話し合う前に、私は仲介して二人を別れさせた。それから、文は子を産んだ。下ろすことの罪深さを知ってたの。文は夜の街で、平気でそんなことをする人達と出会って来ていたから。」
山野はまた、湯呑に手を伸ばした。もう熱くはない、冷えてしまっているものに。飯島は、文の言ったように途中まで友人としては問題なかったから、僕も疑えずにいたのだ。
「それで、今があると…文は、子育てに疲れ切ってる様子だった。面倒を飯島が見れば良いじゃないって。」
文はその子を愛しているのか?いや、きっと愛してはいない。それは罪なんかじゃない。確かに生んだのは彼女。でも、こんな生い立ちの中、責任を持てと言うのはどんなに惨たらしいことか。文にだって、羽を伸ばす権利はある。その子にも人生があり、決してないがしろにして良いものではないが、どうしても、文が面倒を見るというのは酷に思えてならない。
「は?嘘…今なんて…。考弥君との子?いや、話的にそんなわけないよね。文は確かにそう言ったの?」
山野の顔が、まるで密室で時限爆弾のタイマーが開始されたみたいに硬直し、この世の終わりのようなものになった。どういう意味だ。何を言ってるんだ。
「この耳で聞いたよ。飯島も最低だけど、自分も。みたいなことも。」
その固まった顔からは、何があったか想像は付かない。僕は、あったことをなるべく教えた。
「良い?落ち着いて聞いて。文の子はいない。文の子は、三年前に亡くなってるの。それ以来作ることなんてなかったし、その子以外あり得ない。」
僕の顔も、心も硬直した。現実が、僕が受け入れようとしている受け入れがたい苦悶の上を行き、覆いかぶさってくる感覚がした。何が起きてる。
「じゃあ何?文の妄言?」
文はとうとう頭がおかしくなってしまったのか。
「半分はそう。でも、その子が亡くなったのは紛れもない事実。忘れてしまったんだわ。亡くなっちゃった。あの子がいなくなっちゃったって、文の口でちゃんと言ってたし、一度はその現実を受け入れてたから、てっきり乗り越えることができたんだって、思ってたのに。」
山野は両手で顔を覆い、泣き出してしまった。文は、記憶を掘り返そうとして気分が酷く悪くなり、それに失敗していた。あのパニックにも説明がつく。彼女は忘れているものがあると自覚しているものの、それが何かを思い出すことができず、記憶自体が触れられることを拒絶しているのだ。なんて人生だ。救いはないのか。
「その事実を伝えるのは相当ヤバそうだ。今度こそ自殺してしまうかもしれない。でも、受け入れられてないって言うのも大きな問題だよね。子がいると思い込んでるわけだろ?」
子供がいる。というのが彼女にとっての今の現実だ。居ないことを訴えたとしても必ず水掛け論になるし、そもそも対話になるとも思えない。文は理性的ではあるけれど、それを認識してしまった瞬間、全てが崩れてしまいそうでもあった。
「そうだね。墓場までってわけにはいかない。文が前に進むなら、必ず転換期は必要だね。でも、私は何もしてあげられない。ずっと、ずっと…あの子は一人。考弥君さ、ホントに安心したの。君は、裏もなくて、純粋だったから。疑いはあった。でも、大丈夫で。ホントに。私は、どうしたらいいのかな。文のためって解ってても、そんなこと口が裂けても言えない。それって、物凄く我儘なことだよね。どうやったら文は幸せになってくれるのかな…私はなんて…。もしかしたら、文は私のこと良く思ってないかも。心では恨んでるかも。」
山野は俯いたまま、声を籠らせながら自分を責めた。山野は良い友人だ。文のことをどこまでも思っているし、そうまでしてあげられる人はなかなかいない。彼女は不甲斐ないと自分に刃が向かうのかもしれないけれど、文にとって、間違いなく絶対的な支えになってる存在だ。
「山野、そんな風に自分を責めるのはやめよ?僕にとっても山野は心の支えになってるんだよ。文をしっかりと理解して、やるべき以上のことをしてきたんだよ。今も相談役として心強いし、文の傍にそんな頼もしい人が居るってだけで心が暖かいんだよ。…バイオレットフィズ。」
僕は同情ではなく、本心で慰めた。誰が彼女を責めれよう。今だって、こういう相談のためにわざわざ帰ってきてくれているし、文を気に掛け続けているのだ。僕は宥める言葉の後に、ボソッと呟いた。
「?」
山野はそれに何の関係があるか分からず、少し顔を上げ、赤くなった目で僕を見つめた。
「文の好きなカクテルだよ。すみれのリキュールが入ってて、独特な風味があるんだ。嫌いな奴の名前を思い出す飲み物なんて、好きにはなれないよ。いくら味が美味しかったとしても、名前を出す度頭を過ぎるんだよ?そんなもの普通避けるよ。でも、文はそれが好きなんだ。いつも頼むんだって。
だから、文は山野の事嫌いになんかなってないよ。大好きだよ。こじつけみたいだけど、違うって僕には分かる。自信持っていいんだよ。文は遠い。手を伸ばしても届かない。だけど、ちゃんと山野も文と歩んでこれたと僕は思うよ。何かしてあげなくちゃなんて思わなくいいんじゃない?僕もさ、山野が辛いことあったらいつでも聞くよ。僕で良ければだけどね。それくらい感謝してるし、かけがえのない存在だって僕は思ってるよ。」
山野の名前は、すみれ。文があのカクテルを好むのは偶然じゃない気がしてならないのだ。頓智などではなく、その必然性を僕は信じた。
「そうなの?初めて聞いたよ。ありがとう。私も暖かい。考弥君、文のことお願いね。君も自信持って。間違いなく、文にとって今までで一番良い男だよ。もう、こんなこと知ってしまったら、引くに引けないとは思うけど、そんな使命感じゃなく、心の底から愛してあげて欲しいの。子供が居たからって別れたいなんて言わないで欲しいの…」
山野は微笑んだかと思ったら、また込み上げ、伏せ、涙声で続けた。現実は、余りにも重い。文を手放したりはしない。だけど、幸せにできるヴィジョンは、まだ見えていなかった。
「言うわけがないよ。ショックだった。既に子供が居て、子育てをしてるって聞いたときには。ただもう、使命感の延長線上なんかじゃないよ。この前さ、文、僕と付き合った理由を、一緒に死ねるかもって思ったからって言ったんだ。僕は怖いとは思わなかった。なぜか、安堵したんだ。そういう結末にはしたくないが、文と転げ落ちるなら良いかもって思うから。気づけてない傷も、いつか気づいてもらうように努力する。ゆっくり行こう。昔から、それが生き方なんだ。」
のろまで良いと、初めて思った。それには恐怖もくっついていたものの、時間が掛かることだというのは疑いようのないことだった。僕は僕自身を変えられない。人一倍、何かが足りないってことも。それでも、人並みに、人らしく生きたいのだ。
「そうね。なんかあったらいつでもすっ飛んでくるから。今日はありがと。今度奢らせて。」
山野は少し、いつもの明気な表情を見せてくれた。それは僕も同じ気分だ。感謝をすべきなのは僕の方でもある。まだまだ、解決しなくちゃいけない問題がある。不安を背に、僕は頷き、その日は終わった。文は出会った時、何を考えていたのだろうか。このような過去を持ち合わせながら、少し歩かない?などと、気を引き付けるような発言をし、食事にも乗った。それも、文が言っている意思と反する行動だったのだろうか。
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