第十九章 問答
「山野、話がしたい。文のこと、聞きたいんだ。」
僕はあれから二日後、山野に電話した。文の過去を知る時が来た。喜びではなく、一種の覚悟が必要だった。
「文は良いって言ってるの?そう。解った、早い方が良いと思うから、今週末帰るよ。電話で話すことじゃないし。」
僕が大丈夫と言ってくれたと答えると、考える間があり、返って来た。そういうわけで、僕らは二人で会う事となった。文はとりあえず家には帰らず、飯島の知らない場所に行くとだけ言っていた。山野との話が終われば、聞いたことを伝えるためにも再び会おう。
当日、僕は山野の実家に招かれた。そこらの店で話すのは避けたいらしく、敢えて畏まった形式を望んだからだそうだ。僕は家に入り、二階の山野の部屋に通された。両親に挨拶ぐらいしようかとも思ったが、関係性が深いわけでもないし、そういう雰囲気でもないのでやめた。
山野の部屋は狭かったが、二人で話すには全く差支えなく、適度な距離も保てそうだった。本棚やポスター、勉強机があり、昔のままだということが伝わって来た。考えてみれば女性の部屋に招かれるのは初めてだが、そわそわはしなかった。
「お待たせ。文、心は許してくれたみたいね。」
山野は湯呑に緑茶を注ぎ、二人分運んできてくれた。座ると同時に山野の茶に茶柱が立っているのが見えたが、彼女は熱さを承知で、機嫌が悪そうにそれを指で沈めた。
「どうだろう…まだ本気には成れないってさ。それに、かなり精神的に追い詰められていた。」
思い出しても、相当辛そうだった。記憶が辿れないという一文が、非常に不吉だ。
「また何かあったの?」
あの日から現在4日だ。報告もしてないだろうし、知らないのも当然か。事情を知らない僕には、あれを正確に伝えるのは難しかった。
「飯島が、文の家に押し寄せてて、逃げてきた。飯島と何があった?」
僕は端的に事実だけを答えた。そして、早速本題に入った。
「やっぱ屑だ。待って、もう、一から話そうと思うんだけど。かなり、深刻な話になるよ?ホントに良いの?」
山野は目を細め、唾を吐いてしまうのかとも思わせるくらいに眉間にしわを寄せた。山野もこう言っているし、世間的にも飯島が悪になるということは間違いないだろう。
「前に山野が言葉を濁したから、覚悟はしてる。僕もそろそろ、文と言う人間について知らなくちゃいけないし。」
子がいるという話を、きっと山野は知っているだろうし、それについても、その過去についても深堀りしたら、僕は耐え難い気持ちに押しつぶされそうになる。でも、それは受け入れる必要がある現実でもあるのだ。
「分かった。途中で気分が悪くなったら言ってね?無理に全部聞く必要もないから。」
真剣な表情で山野は僕に気を掛けてくれた。頼もしかった。僕が彼女を友人と言うのはおこがましいだろうか。僕が目を見て頷くと、山野は続けて、長く、その過去を語り始めた。
「文とはね、中学で出会ったの。中一の頃。当時流行ってたバンドがお互い好きで、友人としてはそこからだった。初々しい時期はさ、普通だった。文は、中学の頃からも滅茶苦茶綺麗な容姿を持ってたから、それはもうモテてた。ふた月に一回くらいは文のこと好きって言う男が現れるくらいで、私も、ちょっと嫉妬してた。自分が好かれること、きっと当たり前だし、何とも思ってないんだろうなって。そんな風に、時が流れた。問題が起こったのは、中二の頃。文は、いじめにあうようになった。同じく嫉妬を募らせる女たちからね。私は、同類だった。文の傍から離れることはしなかったし、文が嫌がることもしなかった。でも、心のどこかで、無理もない。そう思ってしまってた。ただ、文と仲良くしてたから、私にも飛び火した。プールの後着るものが無かったり、弁当に大量の虫とか消しかすとかが入っていたりさ。狡猾だったのは、男の目に触れさせないようにしてたこと。私はともかく、文がそういう目にあったら、庇う男が出てくるから。私は自分が耐えられなくなって、ようやく文の手を取った。教職員に事実と証拠を伝えて、味方も付けれた。それで、卒業までは大きな問題は起きずに過ぎれた。だけど、遅かった。文は私以上に嫌がらせの的だったし、改善する直前までは学校に来れなくなってた。それからは、文の中で心から人を信用できなくなったの。私は友人としてずっと居たけど、地獄をずっと肩組んで歩けたわけじゃないの。それが序章。」
中学時代の話から始まり、山野は次の話を進めるため、お茶に手を伸ばした。文はいじめとかって言ってた。端的に話されてるだけで、真実は何倍も濃度があり、その道は険しかったと想像できた。
「ただ人への興味が薄いわけじゃなかったんだ。」
僕も茶を手に取り、啜った。そんな過去を知ってしまっては、いつも距離感があることを咎めるのは、お角違いというものだ。
「うん。私に対しても、純粋な笑顔を見せてくれなくなった。続けるね。ここから、ちょっと惨い話になるよ?」
僕がもう一度頷くと、湯呑をゆっくりと置き、一呼吸置いた。
「前に言った通り、高校は別だった。それでも、なるべく会うようにはしてたし、近況はちょくちょく報告しあってたから、何があったか私も知ってるわけ。どこから話そうか…。
まずは家庭か。高一の夏にね、文の両親は離婚して、母方が引き取ることになった。冬に再婚したらしいんだけど、そこから家庭がおかしくなった。と言っても、前の離婚も親同士の都合でしかないらしくて、母親もろくな人間じゃないって文は言ってたけどね。再婚からほんの数週間。両親は毎日喧嘩して、言い合いばかりだったらしく、距離を置いたと思ったら、また始まるを繰り返した。それが長いこと続いたの。高二の秋、くらいだったかな。耐えかねた父親が、暴力を振るうようになった。文もしょっちゅう私の家に来て泣いてた。最悪なことに、母親も文を庇うことはせずに、それどころか文を責めるようになったの。父親は暴力、その陰では母親の罵詈雑言。挙句、ネグレクト。文は高二の終わりくらいには、もう中退するしかなくなってた。親が学費を払う必要を感じなくなったから。何て言ったかは流石に知らない。でも文の両親が学校側を納得させるだけの理由を用意したらしい。
その親たちの間でも離婚の話が挙がるころには、勘当して、家を飛び出して、独り立ちしてた。生きるお金を稼ぐため、怪しい仕事もしてた。私もバイトして、何とか文の足しにした。お金の関係って、嫌だけど、生きていくためには必要だった。って言うのが、おおよその文の家庭環境。」
胸が苦しくなると共に、山野がこの上なく好きになれた。勿論、それは異性としてではなく、人としてだ。重すぎる事情があるにしても、きっと文を救おうとしたのは同情だけではないはずだ。
「酷い。味方が居ないみたいじゃないか。」
ここまでくれば呪いだ。文は澄んだ人生を歩みたかったはずだ。その決断に彼女の意思があった訳ではない。そうするしかなかったんだ。
「ホントに。吐き気がする。家庭はそう。でも、その高校でも、良い経験ができてたわけじゃない。また戻って高一。文には初恋の相手がいた。家庭が酷いなりにも、学校を楽しみたいと思ってたの。
入学から半年くらいかな、簡単に文の恋は成就した。週末とかデートに行ってたし、その写真も見せて貰った。でも、成就したのはあっちから来たから。文は告白したわけじゃない。それが一つ目の引き金になっちゃったの。初恋って言ったけど、文の中での不信感っていうのが無くなってたわけじゃない。文には常に距離があったし、相手の気持ちを推し量ることも欠如してた。だから、相手の方でも不信感があった。二つ目は、それの理由付け。家庭環境が荒んでいったり、その他も学校で問題が…さっきと同じような理由の陰湿ないじめとかがあったりで、より態度は芳しく映らなくなっていた。それで、別れようってなったの。文は迷惑かけたくなかったし、自分が相手の気持ちに応えられてないのだけは知ってたから。それが高一の終わりくらい。
高二が始まるまでも、別れる別れないで縺れて、変な関係性が加速していった。それで、高二の春先くらいかな、文が強く振ったの。もう考えられないって。文と別れることが余りにも嫌だったそいつは、文の裸写真を学校中にバラまいた。リベンジポルノってやつ。いじめ組は集団的だったから、クラス替えが行われた後でも続いてて、それを彼氏がバラまいたって断定できなかった。最も、そんな写真持ってるのはそいつしかいないけど。何でかって言うと、尻の軽い女だっていう噂が拡散されて、いじめも激化しちゃったから。文は揺れてた。帰るべき場所もないし、自分が心を落ち着ける場所もなかったから。せめて、学校だけでもまともに生活したいって思ってたらしくて、辞めるに辞めれなかった。だから、そうなっても、行ける時は行ってたそう。
当時は、そんなこと教えてくれなかった。そこそこ上手くいってるって言ってたし、私も大丈夫だって思ってた。その恋愛が絡んだ酷い話をしてくれたのは、家を飛び出した後。彼氏のこと、私は知らないとは言え、聞いちゃってたし、文はその度に強がるから、知った時は罪悪感で死ぬかと思った。あの子の苦しみに比べれば、そんなのくだらないにも程があるけど…。っていうのが、文が家を飛び出すまでの軌跡。」
まともな神経では聞いていられなかった。全ての出来事が陰というか、報われることを知らない。文の死にたいって言葉を思い出す度、それを否定する感情が沸いてこなくなってしまう。これでは、抱きしめて、大丈夫だよって安心させようとしたところで、何の意味もないみたいじゃないか。
「ごめん、山野…まだ、聴くよ。ただ、もの凄く気分が悪い。」
現実か?現実であって良いものか。そんな苦しみだけの人生なんて、今まで生きてこられた方が不思議になってくる。僕が何も上手くいかず、ただ廃れていくだけの人生に疲れて、死のうとしていることが馬鹿らしくなる。いや、違う。文の人生の歯車がおかしすぎるんだ。比較するようなことではない。
「私こそ、ごめんね。ちょっと休憩しようか。深呼吸して。汗、拭くもの持って来て挙げる。」
話だけで脂汗が出た。どんな怪談よりも恐ろしい、現実と言う不変が、滲むような汗を血が混じったものと錯覚するくらいに、気色の悪い感覚と共に肌を伝う。だが、知るのだ。その先を。おぞましいと思う話を。それは文が経験したことであり、おぞましいなんて言葉では表現できない程の苦痛だったはずだ。本来なら、聴くくらいで弱音を吐いていいものではない。本気で愛し、文の絶望を一ミリでも変えたいのなら、僕がその糸を辿らなくてはいけないのだ。
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