第十三章 甘い日
今まで大したことはなかった。冬も真っ盛り、時期はクリスマスシーズンになり、僕は少々浮かれていた。わざわざ気にしたことはなかったが、今年ばかりはそのことを考えていた。文と交際相手らしく過ごせると言うのなら、輝かしい。場所は?ケーキは?そんなことに胸をドキドキさせながらも僕は文に電話を掛けた。
「何?あ、クリスマス?開けてるよ。」
返ってきたのは嬉しい返事だった。透かされる、または運悪く一緒に居られないというのが今までだったが、ツいていた。
「どうする?正直何をすればいいのか分からないんだよね。」
僕は乾いた笑いを出した。想像がつかない。そもそも彼女なんか居たことはない。特別にしたいという気持ちが強く、自然でいることを考えれなかった。
「別に変わったことじゃないよ。私、毎年ケーキなんか食べないし。どこか出かけて、ケーキでも買って、家でデートとかでいいんじゃない?」
文は毎年誰かとは過ごしていそうだなと、思ったけど、最近知った文からはそんな空気は少なかった。それでも求められることは多いだろうし、それ故の意見だと思った。僕は大胆な所がある文に成り行きを任せることにした。
クリスマス当日の夜、街の商店街前を待ち合わせにし、僕はそこに辿り着いた。大通りはかなり賑わっていて、都会らしさを存分に放っていた。並木のある歩道に、ポツリと佇む女性があった。
「文、お待たせ。行こうか。」
文はいつもらしくドレス調のワンピースだが、本来こういう時に着るもののイメージがあるのは僕だけだろうか。それともただ単に文が日ごろからオシャレに気を遣っているという事なのか。
街の中はカップルも多く、暖かみのある雰囲気に満たされていた。最初は普通に並んで歩いていたが、手をつなぐアベックも多く、僕をその気にさせた。往来する人ごみの中で、僕は文の手に親指と人差し指で触れた。歩く度に残った指が触れそうになり、心が揺れる。文から握り返してくることはなかったが、僕がそのまま握ると、彼女も呼応してくれた。
「そうだ、ケーキ。何が好き?」
丁度ケーキ屋が見えてきた所で僕は聞いた。案外、行列は出来ておらず、予約なしでも大丈夫そうだった。なくても良いとあの後聞いたし、わざわざ予約はしなかった。
「フォレノワール。」
少し考えた後、文は答えた。確か、黒いのが特徴のケーキだったか。聞き慣れない言葉に一瞬戸惑った。前のバイオレットフィズみたいに、ちょっと変わったものかもしれない。
そのまま入店し、ショーケースを覗き込んだ。様々なケーキがあったが、文の言ってたモノがあった。ただしそれは二人で食べるには多く、ワンホールだった。
「うーん。私これでいいや。」
一人サイズのものをそれぞれで選ぶことになり、彼女が最初にその一つを指で指した。それは山形のシュークリームで、名前も聞き覚えがないものだった。
「文って、ちょっと上のランクの人って感じがする。僕もそれにしよう。」
これまた僕では行き着きそうもない所を指さしたから、そんな風に思ったのだ。やっぱりちょっと、釣り合わない。どうでも良いことのはずが、心の中では気にしてしまっていた。
「どういう意味よ。じゃあ、適当にご飯買って帰ろ。」
文は薄く笑うだけだった。僕らはそれから街をぶらりと歩き、ショッピングを楽しんだ。それは甘い時間だった。最近は下り坂でもなく、僕にしては良いこと続きだった。今日も、文句の付け所が無かった。ずっと手は繋いだままで、道なりに帰った。
家に着き、そのままパーティーの流れになった。部屋の身なりは質素なものだが、これはこれで悪くない。各々がチキンやピザなど、好みのモノを並べ、それらを二人で食べた。文の言った通り、普段と変わらない会話をしながらそれを食べていった。しかし、特別じゃないかと聞かれれば否定はできない。確実にいつもより穏やかな空気感があったのだ。
「これいいね。エクレアみたいで美味しいよ。」
デザートに例のシュークリームを食べた。ケーキ屋で買ってきたそのスイーツは、意外とさっぱりとしたクリームだったため、重い印象がなかった。
「うん。胃もたれしちゃうかもって思ってたけど、これなら大丈夫ね。」
文は上品に、そして器用にプラスチックのフォークでそれを崩して食べていた。僕よりも食べるスピードが遅く、女性らしさを感じさせられた。人が食べている姿は素敵だ。美味しそうというのもあるけれど、活き活きとしている様子が伺えるのだ。誰かが食べているのを見て、そんな風に感じたのは随分と久しぶりだった。
食べ終わった後は二人で曲を聞いてゆったりと過ごしていた。クリスマスソングというわけでもなかったが、中々にロマンチックだった。二人で一つのイヤホンを使ったから、距離が近かった。この空気に僕は酔いしれた。お酒は入っていなかった。なのに、昂ぶってくる気持ちがある。
「ねえ、文。特別じゃないって言ってたけどさ、特別な感じ、しない?文が良かったらなんだけど、その、キスとか…したいなって。」
震える唇で、その感情を表に出した。何万人という観客の前で難しい芸を披露するかのように、それはもう、息が詰まるような緊張感だった。まさか自分の口から、こんな事を言う日が来るとは。そして言ってしまうとは。文は、どういう反応を示すのか。恐ろしいかった。
「いいよ。良い時期だし。はい。」
文は流し目で僕を見た後、僕と向かい合い目を閉じてくれた。間はあったものの、結果的に容易くその口を譲られたので、しばらく現実を受け入れられなかった。僕が緊張と混乱で動けずにいるのに、文は黙って目を閉じ続けている。体の震えを抑えることができなかったが、僕はゆっくりと顔を近づけ、接吻を交わした。
心臓がバクバクと鼓動し過ぎているのか、頭が真っ白になり、充実感がなかった。唇が触れあい、暖かく、生々しいというのに。それともこれは僕の心が疲弊しきっているせいなのか?それとも本当のところ、心は状況に左右されていない正常さで、ただ単に幸福を感じ取れない。そういう感覚がしないでもなかった。そんな、何かが満たされることもなく、大した満足感を感じることもなく、僕は離れることとなった。
「ありがとう。緊張したけど、できてよかった。」
僕は本音を伝えられなかった。この霧がかかってしまっている状態を、文に何て言ったら良いのか分からなかった。満たされないと言ったら、不快に思ってしまうだろうし、何よりも、自分の今の気持ちを言葉にしたくはなかったのだ。求めるものが手に入ったとしても幸福になれないと言うのなら、何が救いになるのか。
「凄い伝わった。まだ震えてる。」
文は平々としていて、緊張感はなかった。相変わらず起伏がなく、何を思っているのかが伺えない。嬉しいのか、そうでないのか。そういう個性が、いつも本気で好きで付き合ってくれていると思えない要因だった。泳がされてると心のどこかで思ってしまっているから、あんな感覚に陥ってしまうのだろうか。
それからは、少し遅くなるまで普段通り過ごした。最初の数十分こそぎこちなさはあったものの、それも収まり自然に居られるようになった。だが、心が落ち着いても、達成感や安心感がやって来ることはなかった。僕はまだ…。
「じゃあ、また今度。正月明けにでも会おうよ。」
過ごした後、玄関で僕は文を見送った。時間は十一時頃で、ちょっぴりのんびりし過ぎてしまったかもしれない。
「おっけ。予定が分かったら連絡するね。あ、そうだ。ひょっとしたら、これから大変になるかも…色々、気を付けて。」
文は帰り際に、真面目な顔で奇妙な忠告をし出した。具体性がなく、何が言いたいのか理解できない。
「色々って?」
僕は文と出会った日、死線が見えるなどと言っていたことを思い出した。そういう類のものかもしれない。あながち間違いではなかったし、文にだけ見えている何かがあるとか。
「色々よ。杞憂で済めばいいけどね。とにかく、人には気を付けて。」
どうして遠回しな言い方しかしてくれないんだ。そういう心配事なら、尚更しっかりと伝えるべきじゃないのか。だとしても、言い寄りたくないという気持ちが邪魔をして
「分かったよ。心に留めておく。」
と僕は返すだけだった。ただでさえ新たな不安が生まれたというのに、何を警戒しなくてはいけないと言うのだ。やきもきした気持ちのまま、僕は手を振った。
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