第八章 好転?
夜まではそれとなく過ごした。ゲームをしたり、雑談をしたり。居心地は良かった。二人っきりのためスキンシップがしたくなったが抑えた。僕がそれを超えてしまうと深い信頼関係は築けなくなるだろうから。首筋や足を見る頻度が多くなってしまったため、もしかしたら僕の挙動に気づいてるかもしれないけど。
夜になると、行こう。と文が言い始め、僕は夜道を連れられて歩いた。目的地は一駅向こうの街で、恒例行事のように通る必要のない例のベンチの前を通り、駅まで行ったのだ。
「着いた。ここよ。」
言っていた場所は高層ビルの上層にあり、到底僕では普段立ち寄ったりはしない場所だった。高級感があり、少し気の引ける場所だった。僕はもじもじしていたのに、文は無表情でエレベーターの階表示を見つめていた。
こういう所はドレスコードがありそうなイメージだが、ウェイターは私服の僕らをすんなり通してくれた。バーのガラス窓からは夜景が一望でき、ここと同じように光る高層ビルたちが、その夜を照らしていた。バーも「星のカクテル」というオシャレな名前で、その名に似つかわしいと感じた。カウンター席に並んで腰掛け、メニューを開く。前では静かにマスターがグラスを拭いていた。
「何を頼むべきか。」
メニューに目を通したが、分からないものの方が多かった。特にカクテルだ。安酒に慣れている僕にとっては無縁のもので知識が無かった。ビールもあり、無難ではあるが当然相場よりは高く、せっかくなら知らないものの方が良かった。
「適当でいいのよ。お気に入りはこれ。」
文が指さしたカクテルはバイオレットフィズという名前で、見たことも聞いたこともなかった。僕はとりあえずそれに合わせ、二人分を頼んだ。
「前もここに来ようって思ってたの?」
店内を見渡し僕は聞いた。上品な所で、とても酔いつぶれるなどできそうにない。前に僕が危害を与える可能性を考慮していたというのなら、そういう事からはすこし遠ざかる。
「いや、もっと安いとこ。」
どうやら僕の考察は間違っていなかったらしい。しかし、その自暴自棄な側面が消えていないというのは悩ましい部分だ。込み入った心境でいると注文したものが出てきた。その名の通り、紫色の清涼感のある見た目をしており、匂いは花のような慎ましい香りを持っていたのだ。文は慣れた手つきでグラスを傾け、唇を濡らす様に飲んでいた。
「美味しい。頼んで良かった。」
僕も口にしてみると口当たりは軽く、独特な風味があるものの飲みやすかった。これはすみれのリキュールをカクテルにしたものだそうだ。何杯も飲むようなものではないが、もしまたここに来るならば同じものを頼むだろう。ところで慣れた様子だし、文はこういう所によく来るのだろうか。だとしたら何を仕事にしているか気になる。というのは庶民にはなじみが薄そうな場所にのんびりと入っているために、文自身もかなりお金を持っているかもしれないと感じたからだ。
「聞けなかったこと聞いていい?前さ、普段何してるって聞いたじゃん?その、仕事とかって何してるか聞いていい?」
少し勇気が必要だったが紫の流動体に視線を向けながら質問した。
「まあ、色々。基本週5かな。」
案の状、文は透かすように質問を返してきた。知られたくないという雰囲気は十分に感じる。だけど、いつまで経っても距離が縮まらないのには焦燥感があった。そうやっているうちにふと文との関係が絶たれてどこかに消えてしまう。それにはリアリティがあるし、文の曖昧な態度から増してしまうのだ。離れないように引き寄せたかった。ただのエゴだ。
「言いたくないの?」
僕こそがこんなことを言いたくはなかったが踏み込んだ。その距離の詰め方が結果的に放してしまうことになるというのに。恋愛に対しても奥手だから、余りにも下手だった。
「え…ちょっとだけ…夜の仕事…。変なことじゃないけど。」
そう聞くと彼女はどもり、口を結んだ。見た目上焦った様子は無かったが、やはり触れて欲しくないらしく、言葉が詰まったのだ。上手く聞き出せない。遠ざけられる限り無理に聞くわけにいかないし、しつこいと思われる。でも、多少の情報は得られた。
「そっか。もう一つ。フルネームが知りたくてさ、文で良いって解ってるけど付き合っているのに知らないのは変だろ?」
前みたいに急に帰るなんて言い出さないか心配で話題を変えた。名前なんてよっぽどの理由が無い限り名乗れないなんてことはないだろうし。
「「代崎」。が苗字。代わるに埼で「しろさき」。この前の気にしてる?」
文は答える共に僕の顔色を窺ってか、冷静に短調にそんな質問を返してきた。妙に冷たい態度に彼女自身も思う所があったみたいだ。
「いや、全…ごめん、気にしてた。今、距離感感じてるのも正直。」
僕は強がろうとしたものの、皆まで言わず言い直した。そして自分でもよくわからず、本心がポロっと出てしまった。それを聞いた文はグラスに残ったカクテルを飲み干し、ゆっくりと置いた。表情が変わらないから怖い。距離感があるのは当たり前だというのは僕も解っているため、悪い反応を示されてもおかしくはない。
「わかってる…解ってるの。でも距離感難しい。」
怒っているわけでは無さそうだが、いい気分でもなさそうだ。
「それは僕も同じだよ。あらゆることすっ飛ばして付き合ってるし。」
僕が本当のことを言ってしまったのは、これが言いたかったからなのかな。でもお互いに同じことを思っていることに少し安心できた。
「そうじゃないの。私…もうわかんなくなって。人が怖い。本心ではそうなのに、そういられない。矛盾を起こす自分自身にも苛立ちがある。」
違った。僕とは別の大きな問題を抱えていた。何がどうなって今の文になったのかは知らない。それでも僕も自暴自棄になって自分が望まないことを自らにする感覚は理解できたし、それについて恐怖を覚えるのも解る。
「僕と一緒に居てくれるのは?それも本心じゃない?」
この期に及んで僕は自分を庇った。自分が愛されていると信じたいからだ。とは言っても、実のところこれで正解だ。本当に恋人として信頼されたいならば、相手が愛していられると思えなければいけないからだ。
「分かり合えるかもって言ったのは本当だし、付き合って居たくないとも思ってない。その中で肯定的な感情が少ない。何ていうか、消えたい。それで埋め尽くされるの。」
文が言ったそれは僕への否定的な感情ではなく、沸き起こって来る振り払えない自我だった。それがあって、全ての事が霞んではっきりと認識できないのかもしれない。
「文、大丈夫だよ。もう、安心して。消えたい気持ちもわかる。捌け口は必要でしょ?」
僕はグラスを持っていない方の手を優しく握り、こっちを向かせた。普通だったら自分に自信が無くてこんなことをするはずが無かった。酔っているわけでもあるまい。そもそも死のうとした夜はそういう理由で文に寄れなかった。なのに今は自然に自分らしくいられ、普段できないこともできるような気がした。絶対に役回りではない。だけど会った時のように、文と居ると自信からではない勇気が沸く瞬間が何故か訪れるのだ。
「考弥君、ありがとう。ちょっと信用してみる。」
彼女は驚いた顔を見せ、またいつもの表情に戻り、初めて僕の名前を呼んでくれた。そのまま
「私さ、結構問題抱えてるよ?それでも一緒に居たいって思う?」
と続けて聞いてきた。答えは決まっている。
「言うまでもないよ。一緒に居て欲しい。」
それは文と気が合うからなのか、こんな美人を離したくないという動機からかは分からないが、強く願っているのは確かだった。考慮すべき点は、例えば問題を多く抱える文が魅力的な容姿をしていなかった場合、その問題というのが引き際の要因になってしまう可能性を秘めていることだった。人間の汚い部分を、優しいからとか居心地が良いからとかいう言葉に置き換えているような不快感もあった。
「帰ろっか。」
その後は一、二杯頼んで飲んでおり、キリの良い所で文が言った。暗めのムードというわけでもなく、話は日常的なものに移っていた。
「そうだね。」
今日は文との距離が縮まってくれたみたいで良かった。自分の内面を晒すこともできたし、良い日だと言えた。しかし、これからは文の抱える問題とも向き合い、解決できるなら、していかなくてはならない。僕らはバーを出て解散し、各々の家へと帰っていった。
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