第六章 存在

 全てを委ねる勢いだったが、帰りは離れて歩いた。まだ知らないことも多い。受け入れてくれた実感も薄かった。

「寄っていい?気持ちも落ち着いてないだろうし。」

 文は進行方向を指さして僕に聞いた。彼女がどの方角から来たかは知らない。だけど、文は僕に付いてきてこんなことを言ってくれたのだ。

「うん、お願い。」

 それ以上の言葉は出なかった。色々な感情が絡み合っているせいで、他の事に気を回せなかった。家に上げることへの抵抗も、考えに至らなかった。アパートに戻って安っぽい階段を上がっていった。

「ここ?入るね。」

 玄関外の廊下は掃除が行き届いておらず、よりみすぼらしさを演出していたが、文に驚いた様子は無い。僕が玄関を開けると、すり抜けるようにして僕の横を通り入っていった。最近は身の周りの世話を怠っていたため、部屋は汚かった。人としての品性を疑われるレベルではないが。

「まあ、座って。」

 足の踏み場くらいはあって良かった。僕の前を先導する彼女をリビングのソファに座らせ、電気をつけた。茶を淹れる元気もなく、そのまま僕は隣に座った。

「今日が初めて?死のうって思ったの。」

 文はいつも通りの落ち着いた声で問いかけた。相変わらず目は虚ろで、一目だと感情があるのかを疑ってしまう。

「いや、その…そうだね、行動に起こしたのは。」

 僕は自傷行為については言いたくなかった。死のうとしたところを目撃されているし、同じものだろうと思われるかもしれないが、違った。上手く言葉にできない。だけれども、どこか自殺より強い偏見を買うのではないかと心では思っていたのかもしれない。そういう理由ではぐらかし、距離を取ってしまったのだ。

「私もさ、何回かあって…気持ちはわかる。ホントふざけてるよね。死んだって何も変わらないのに、死ぬしか逃げれないの。他に方法はあったとか、死んだら言われるだろうけど。苦しくて苦しくて仕方ないこの心は、そんな回避じゃどうにもならないのに。」

 僕は会った日の事を思い出し、俗世のような慰めはしないとは予想できたが、その行動に対し肯定的な意見が飛んでくるとは思いもしなかった。分かりあえると彼女は言ったが、鈍い僕とは裏腹に、既に鋭く同色であることを察知していたのかもしれない。

「文も?なにかあったの?」

 抱えているものがあるのは何となくわかっている。しかし、せいぜい自暴自棄になるくらいのものだろうと考えていた。身近な、と言えば語弊があるが、近しい人が強い自殺願望を持っているとはにわかには信じがたいことだ。

「私の場合、いじめとか、家庭環境とか。ごめん、詳しくはまだ言いたくない。まあ、色々。薬の取り過ぎで病院に搬送されたこともあったり、首釣ろうとしたり。結構上手くいかないもんだよ。」

 冷静と言う言葉が似合う文だが、重篤な症状を持っていそうだった。華麗に、淑やかに見えるが、その内はぐちゃぐちゃであることを垣間見てしまった。僕は良くない思考に走っていた。卑しいことではない。それは一種の傾向で、文は優れた容姿を持っていてモテるから、その分優しくされることが多く、それが当たり前で、苦労は少ないだろうと。それだけ人に愛されるのなら、愛されることにも困らないだろうし、一人になんてならないに違いないと。僕の様な誰からも愛されず、その苦しみで死にたい気持ちなんかわかるわけないって。そういう一種の偏見を持っていた。でも違ったのだ。いや、ある側面では。実際はひねくれた考えだけというわけでもない。僕は彼女を好きになったのだ。それは綺麗だったからだ。優しいとか以前に、それが一番僕の気を惹いていた。そんな風に、今の文を見て、手を差し伸べる男は沢山いるだろうし、その美に彼女が救われることだって大いにあるではないか。僕はそんな全てが憎かった。欲の塊みたいなのが本心であることも、美しいというだけで人を魅了してしまうという事実も。だが、何度も顔を合わせる度、心の底から欲してしまうのだ。

「勿論。追い追い理解していこうよ。今は大丈夫なの?」

 そういう考えを置いておいたとしても、そんな事を止めて欲しいなどとは言えなかった。あの感情が何処から来るか僕は理解したし、人の事を言えない。また、辛かったら頼ってとも言えなかった。いつものやつもあるが、どうも必要とされていない感じがしてしまったのだ。さっきの考えからか。

「わかんない。正直なんとも。ね、ろくな人間じゃないでしょ?」

 文は下を向き、僕と目を合わせずに答えた。

「そんな…」

 僕はやっぱり支えるような言葉が出なかった。文の事を何も知らないから?自分だってロクな人間ではないから?自分に自信があったら寄り添い、大丈夫だから心配しないで。なんて言えたのだろうか。僕も目を逸らすように下を向いたため、気まずい空気になった。

「そうそう。この前はごめん。急に帰ってさ。またどこか食べに行こう?奢るからさ。」

 暫く沈黙が続き、耐えかねたのか文は話題を持ち掛けた。僕はそれよりもずっと連絡してくれなかったことに不満があった。事情があるのは分かるけど、それでも長すぎた。

「うん。気にしてないよ。ねえ、手、握ってもいい?」

 だが、今この瞬間は許しても良いと思った。僕は会った日のように、自然に、されど僕らしくなく、そんなお願いをした。

「…」

 僕がそう言うと、文は黙って手を伸ばし、手を添えてくれた。僕は指を絡ませ、脳裏に焼き付けるようにその手を握った。僕がずっと求めていたものがそこにあった。自分を見つめてくれる。思ってくれる愛。そこにあるはずだった。僕はそれを手にしたらこの苦しみから解放されて、過去のことなんてどうでも良いと思えるのだと思っていた。それ程までに欲していたから。だけどそれだけでは晴れない心の靄があった。それに気づいてしまったのだ。こんなにも暖かく、求める情熱を満たしてくれるのに、救われようのない絶望が心にあると分かり、強い徒労感に襲われた。

「ねえ、文。こんなことを言うには早すぎるけど、離れないでほしい。」

 押しつぶされそうな気持ちのまま。握る手を引きよせ頭を近づけた。そんな資格はないと解っていても、抗えなかったのだ。

「…。」

 文はまた黙ったまま頷いた。言葉はいらない。とも解釈できるが、文が僕の事をどれだけ気を寄せてるか分からないから、できることなら言葉で返して欲しかった。

 それからどれくらい経っただろう。かなりの時間黙って手を握っていた。それが気になって時計を見たら三時を超えていた。

「落ち着いた。こんな時間までごめん。文は予定とか大丈夫なの?」

 一呼吸置き、ひとまずは自らを殺す気持ちが収まっていることに気づけた。今更ではあるが、僕は聞いた。

「大丈夫よ。明日は何も。だから出歩いてたんだけどね。」

 それもそうか。あんな時間にあんな場所に赴いた行動には疑問が浮かぶが、あまり追求すべきでないだろう。文はポンと僕の手を軽く叩くと立ち上がった。そのまま

「私、今日は帰るね。もし思い追い詰めたらちゃんと言ってね?」

 と帰る素振りを見せながら、僕が言えなかったことを言った。

「次はいつ会えるの?文が普段何してるかも分からないから、いつ連絡していいか分からないし。」

 内心ではまた長期で会えなくなるのではないかと言う危惧があったため、僕は去り際を引き留めた。

「仕事は一つじゃなくて。でも最近は暇ができたから、頻繁に会える。それに、気軽に電話してよ。仕事中とか気にしないから。出られなくてもまた連絡するし。」

 彼女はまだ多くの謎を残したまま、僕の問いを返した。心を開いていない気もして、もとよりそんな求める段階ではなくて、歯がゆさを感じてしまう。故に僕は手を振り

「また、連絡する。文からもお願い。」

 と見送った。繋がりが薄く、フラッといなくなってしまいそうな不安感がずっとあるのだ。そんな文の様な空虚な感情が、僕を前に押し出してはくれなかったのだ。

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