第五章 禁忌

 その日の事は良く覚えていない。いや、正確には思い出したくなかった。僕は強い絶望感に耐えられず、手首を切ってしまった。怖かった。刃が通り、血が滲み出てくる瞬間までは。刃の切れ味が悪いのか、力を入れられなかったのか、止血する必要がない程の流血で済んでいた。

「こんなものか。」

 布団に横たわり、ティッシュペーパーに血を吸わせる。よくスッとするなどと言うが、そういう感覚も無かった。むしろ自分を痛めつけることが必要だと感じている分、快楽とは程遠かった。しかし、傷つけるという部分においては気持ちが軽くなることを否めない。自己嫌悪を形にできる瞬間でもあるからだ。死んでしまっても構わなかった。そうなってしまえと言う勢いのまま、刃を引くことができるなら死ぬことができるのだろうか。

「ああ、まだか。まだ、苦しまなきゃだめなのか。」

 僕にとっての生き方など、もう必要ない。苦しみに全てが覆いつくされてしまった。それでも日は上る。やらなくちゃいけないことがあって、死体みたいにそれに垂れ下がるのだ。独り言が増え、精神的に参って来ていた。そんな異常事態に気づかぬまま、僕は体を動かし続けた。

 また何週間が経った。リストカットはやめられなくなってしまった。多分、自慰行為に似ている。慣れて来てからは刃の通りが悪いとイライラするようになった。もっと深くという固定観念ができてしまうのだ。勿論、死など知ったことではない。手が使えなくなるとかも。将来性なんて必要ないんだ。反面、何処かでストッパーが掛かっているのかもしれない。死にたいなんて言いながらも死んでないんだ。動脈を切ってしまう事なんて、それだけの気合いがあれば簡単なはずだ。血が滴らないように応急処置をし、塞がってはまた切るというのを繰り返した。一枚の布を裁断し、縫合する。その作業を続けたら縫い口はどうなる?傷口はそれみたいに、継ぎはぎのようになり、塞がった後はいびつになって跡が残るのだ。そもそも普段は赤く開いているため見せられないし、そうでなくても隠さなくてはいけなくなった。袖のきっちりとある服を着るようになり、汚れてもいいリストバンドをするようになった。忌み嫌われる人間に転がり落ちて、もう後戻りはできなくなった。

 もう文の事もほとんど忘れていた。こんなにも連絡をよこさないんだ。あっちも忘れているだろう。そんな僕を繋ぎとめる者が無くなってしまい、ついに死ぬことにリアルを持たせようと僕は試みた。

「あの路地、もう廃墟となったマンションがあったな。」

 散歩道の道中、丁度文と出会った場所周辺には廃れてしまった建物が幾つもあった。僕は死の痛みで何が一番マシかを考え、投身自殺に至ったのだ。ものは試しで、きっと気弱な僕は踏み込めずに帰ってくるだろうが、もし勇気を持てたなら楽になれるのだ。やるだけ得だろう。僕はそう思っていた。

 夜中の一時くらいに例のベンチの前を通り、その場所に向かい、階段を登って行った。立ち入り禁止のテープも張られておらず、すんなり入れた。人通りも少ないため、警察もパトロールに来にくいというのも行動を起こせた要因でもあった。十何階上ってようやく屋上の扉まで着いた。ここも特に鍵は掛かっておらず、軋んだ音を立てながら重く開いた。

 ここからの夜景は綺麗というわけでなく、目に入るのは道を照らす街灯くらいのもので、闇と静寂が広がっていた。フェンスもこれ見よがしに剥がれている部分が多く、身を乗り出すことを誘っているようだった。試しに僕は破れたフェンスを潜り抜け、フェンスを背にその縁へ腰を据えた。

「死ねる。この高さなら。」

 足が震え、地面に衝突するまでの時間を想像する。きっとそれは一瞬だけど、身を投げた瞬間後悔するのだろう。それでも、踏み切る必要がある。そうしなくては苦しいままなのだから。これは妥協案に過ぎないのだ。これ以上の苦しみを味わうか味わわないかの簡単な選択なのだから。だから、後悔するとか以前にそれしかなかった。生きていれば、とかどうでもいい。今が苦しくて仕方ない。今の今までも良くなるかもしれないとかいうふざけた可能性にずっと踊らされていたのだ。もう待てなくなった。救いがあるというのなら今必要だった。苦しみばかりに耐えてそれを待つなど甚だおかしい。そういう、自分が今死ぬ理由を考え始めると、飛び込めそうな気がした。苦しみだけを抱え、他の事を考えないようにして僕は立ち上がった。そしてそのまま体を傾けた。

「死んじゃうの?」

 その瞬間に声がした。僕はフェンスを掴み、体を止めた。声が無くてもそうしていただろうか。声の主は、言わずもがなと言うべきか、文だった。しかし、ずっと音信不通だったのだ。僕は心底驚いた。

「そう。止めないでよ。それと、なんで居るの?」

 今この瞬間にここに到達した彼女のことが不思議でならない。まるで全てを知っていたかのように表れ、僕に声を掛けたのだから。今まではずっと関わってくれなかったのに。

「私も良く来るから。ねえ、少しだけ待って。」

 文はゆっくりと扉を閉じ、近づいてきた。月が雲から顔を出し、その姿を映し出す。どんよりと暗い日だったが、それが間違いなく文であるということは認識できた。

「なんだよ。ずっと連絡もくれないで。」

 僕は思ったことをそのまま言った。強い期待を持たせられたことに今では腹が立つ。また、自分が勝手に期待してしまったという意見も間違いじゃないということにも。

「本当にごめんなさい。できなかったの。お願い。私はようやくわかってくれそうな人に出会えたの。それがあなただった。自分勝手だけど、待って欲しいの。」

 今の彼女は無表情ではなく、暗い顔をしていた。その言葉も何処か感情的に聞こえ、僕の心を揺さぶった。

「ダメなんだ。生きたくない。」

 僕は爪で引っ掻く様にしてフェンスを掴み、近づいてくる彼女と向き合った。なにもないんだ。もう何も。

「もしも、ね?生きたいって思えるモノがあるとすればなに?もうそれも無い?」

 文は至近距離まで近づいて、フェンスに指を掛けた。その指は艶めかしくて、手を掴みたくなった。僕は君が居れば。熱が引く前はそうまで思った。今もどこかでそう思う。だけど、そんな浅ましさや、卑しさを生きる希望にしようとしているみたいで頭が割れそうだった。泣き落としみたいに手にしたとして、何になる?そんなもので満足してしまうのも嫌だった。

「文、一緒に居て…欲しい。僕にとっては文なんだ。君が望むのなら。でも、助けたいだけなら放っておいて。」

 それでも、言ってしまった。僕らはまだ、早すぎる。一方的で、都合が良すぎる。だが、僕は彼女の手を握ってしまった。心がひしゃげてしまいそうで、そんなことを理由に。夜の風に混ざるように伝わる肌の感触と温度に溶けてしまいそうだった。

「いいよ。全然嫌なんかじゃない。お互い、結構闇を抱えてそうだし。少しくらい飛んでてもいいじゃん。」

 僕にはもったいなさすぎる。彼女は綺麗で、魅力的だ。僕と一緒に居る理由なんて一つもないはずなのに、僕を受け入れると言ってくれた。僕は底知れぬ安堵と未だ信じがたい救済に泣き崩れるようにしてフェンスを潜り、文の肩を借りた。だが心は複雑で、奇跡と言えば聞こえは良いが、まだ僕の命が続いていることは喜ばしいことではなかった。晴れやかな気持ちではなかった。しかし、寄りかかる肉体が柔らかくて、暖かくて、生きてることが身に染みる。

「文、僕は何の価値もないんだ。きっと一緒に居ても不幸にしてしまう。何一つ自信がないんだ。」

 これから彼女と歩んでいくことを考えても、僕と言う存在自体が足枷になった。何も与えられず、求めるばかり。そんな関係性を簡単に予想できたから、素直に喜べなかった。

「そんなの私が決めるよ。それに、私だってロクな人間じゃないよ。」

 体重を寄せる僕を受け止め、そっと撫でながら文は返した。僕の人生が明るくなるとは思えないけど、彼女と出会えて良かったと思えた。相手を何も知らない僕らは、互いに似たものを持っていそうだというだけで、二人になることを望み、ありもしない愛に近づいた。 

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