第四章 距離感
待ち合わせ場所は前のベンチにした。ひと通りも少なく、お互いに確実に知っているので分かりやすかった。それ以外の予定は建てていなかった。文は会うと言ったが、会ってから決めようなどと言い出したため従うことにしたのだ。
待ち合わせ場所に行くと前と同じような格好で、遠くから歩いてくる僕を見ながら文は待っていた。もしかしたら、来ないかもしれない。そういう思いさえあったため、その姿を見て安堵した。
「ええと。君の苗字聞いてなかった。」
話しかけたものの、図々しく彼女の名前で呼ぶしかないことに気が付いた。
「文で良いよ。」
本来僕が気にすべきところなのに、マイペースだ。もう、そのペースに任そう。
「文はさ。普段なにしてるの?趣味とか。」
彼女が歩き出したので僕も歩き出し、気さくに聞いた。仕事なども聞きたいが、僕が胸を張って答えられないため避けた。彼女が歩いていく方向は前と同じだったけど、夜はあの店はやっていない。目的などがあるのだろうか。
「趣味か。読書、くらいかな。有坂君は?」
切れかけの街灯を見上げながら彼女は答えた。掴みどころは無かったが、自然と話しづらさも無かった。
「僕も、ないな。昔はレコードを集めるのが趣味だったんだけど…全部売っちゃった。」
僕は苦笑した。今となっては辛い思い出だ。話を広げようとして、それが帰って来るたび深手を負う。窮屈な生活が心の中でざわめいた。
「私も衣装には力入れてたよ。これとかその名残。」
繊細な絹のワンピースに指を指し、文は静かに笑った。少し厳かな印象を与える着こなしをしていることは彼女自身も理解してるようだった。
「へえ。綺麗だ。そういえば、今日は何処に行こうとか決めてるの?」
文と目が合い、気まずくなり、直ぐに話題を逸らした。綺麗なのは間違いない。
「バーでも行こうかなって。」
そういえば繁華街の近くに店があったな。とは言え、流石に警戒心が無さすぎる。ほとんど知らない相手と一対一で酒を呷る危険性など僕でもわかる。この瞬間だけ、あどけない少女と歩んでいる感覚になった。
「それはやめた方が…余計なお世話かもしれないけど、もっと気を配るべきだよ。僕が君に対して酷いことをするかもしれないだろ?」
そんな危害を与える気など毛頭ないが、心配でたまらなくなった。僕がそういう機会を逃したとあれば滑稽だが、そういう問題ではない。
「もう、どうでもいいよ。そういう汚いこととか割り切ってるし。」
目も合わせずそう返された。これは…気まぐれさじゃない、もっと奥深い何かがあった。僕と合った時、何か似た者同士だと言いたげな反応をしていた。彼女にも救いきれない事情があるのか。
「良くない。僕はさ、合って間もないけど、君に気がある。まだ深い所まで知る様な関係ではないのは分かってる。けど、せめて文が自暴自棄な感情を、諦観ではなく、共感と言う形で向き合ってもらえる存在で居たいんだよ。僕には不適切かもしれないけどさ、蔑んだ心ではいて欲しくない。」
やや早歩き気味になる彼女の袖を掴み、僕は心の内を晒してしまった。嫌だった。僕は相当に自分を過小評価していて、彼女とは釣り合うはずもないと思っている。そういう存在に、好きだとか、愛してるだとか。愚鈍な言葉を吐きかけるのは余りにもおこがましく感じるからだ。
「わかり…あえるかもね。ごめん。私、今日は帰る。また連絡するから。」
抑揚のない声のまま、彼女は俯きため息をついた。今はそっとしておくのは間違いじゃないだろうけど、その深い部分さえ知りたくなった。救えるとは思えない。でも、僕みたいに誰にも知られずに潰え消えるよりも、綺麗な彼女らしく、華やかでいて欲しいと思った。
黙って頷き、走り去っていく文の背中を見届けた。泣いてなどいなかったが、心のショックは大きいみたいだ。僕はベンチに戻って座り、昔好きだったレコードの一曲をスマホで流し、その時間に浸った。誰も通らないここは、錆びの匂いも、風の音も全てが邪魔されることなく伝うため、感覚が過敏になった。一人と言う寂しい時間を、自分だけの時間と言う粋な解釈で過ごすことができる。そこに付き纏う孤独感はどうしても拭えないが、黄昏れるにはちょうど良い。
もう一度、自分だけの日々に戻る事となった。体が重くやる気もないが、分かり合えるかもという文の言葉だけが僕を突き動かした。生きている限り、人と言うのは希望に手を伸ばしたくなるものだ。鬱陶しい。
「すみません。今、担当の者が不在でして…いえ、分からなく無いのですが。」
例の本屋で品出しを任された時に、客に声を掛けられ、僕は従来のどんくささを露呈することとなった。
「ちっ。なんでそんなことも分からねぇんだ。二度と来るか、こんなとこ。」
客は僕の態度に腹を立てたようで、店頭のマガジンラックを蹴り飛ばして帰って行ってしまった。裏を見れば顧客の必要な情報が分かるのだが、それが頭に入っていない僕は、曖昧な対応をし、このようになったのだ。ミスは誰にでもある。そんな慰めが聞かないほど僕には多い。その度に、今自分が存在している理由が分からなくなり、涙が吹き上がりそうになるのだ。僕が縋ろうとしている糸は余りにも細く、生きる理由には比例してくれない。文への思いは熱いが、それ以上に生きたくない。
その日の仕事を終えた僕はまた自分のアパートに帰る。あの夜からおよそ一カ月と一週間が経っていた。文は連絡すると言っていたし、電話番号と顔を合わせることはしていなかった。それに考えが染まっているのなら良かったが、苦しみが勝り始めた。
「はあ。文と居てどうなるって言うんだ。僕なんか死んでしまった方が良いのに。救えないというのなら、そろそろか。縛り付けるものなんかないし。」
頭を掻きむしり、死ぬ方法を思案しだした。自己嫌悪が膨れ上がった最近では、死の恐怖より、死の苦痛を耐えさえすれば楽になれるという思考が生まれ、実行できるハードルが下がって来たのだ。もしも文と一緒に成れて、そうしていられるなら、それは僕の望んだことなのだろうが、やり直せる気はしなかった。どん詰まりになった全てをもう一度立て直せるとは思えなかった。それよりも、何もかもから解放されることの方が必要に思えたのだ。
一人で居る時間は自分以外否定する者が居ない故、考えは悪い意味で固まっていくものだ。疲れた。しんどい。邪心で埋め尽くされた僕は、ついに死への一歩を歩むことにした。
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