第三章 不器用
彼女のことが頭から離れない。四六時中あの綺麗な顔や声、華奢な体を思い出すし、それ以外の事が疎かになるのだ。何度もため息をつきながら、スマホに映る彼女への綱とにらめっこし、その番号をタップできなかった。彼女の事を考えれば考えるだけ、様々な要因が重荷になった。僕は何も持っていない。例え文に近づくことができたとしても、その先は真っ暗だ。せめてもの自立と言う枠組みには収まっておきたかった。だけどそれをするための幾つもの胆力を、僕は持ちたくはなかったのだ。そんな幻想に過ぎない恋のために、捨てようと思った一切合切を取り戻そうなんて思えない。
「でも、でも。進まなきゃ、会う事すらできないんだよな。」
心が強く強く願うあまり、現実と向き合うしかなくなった。今自分にできることを最低限でもやらなくてはならない。例えそれが唾棄されるような希望だとしても、否定できない感情が覆いかぶさってくるからしょうがないではないか。
強くなるとはかけ離れているが、僕はとりあえずバイトを探すことにした。何もしたくないというのが本心だけど、彼女と会いたいと思うならせめてそうしろと自分に戒めた。自分の面倒もろくに見れない奴に惹かれる者などいないだろうから。
僕はのろまで接客はダメだ。前の職場では顧客をイラつかせる要因になるため、失敗に失敗を重ねた結果、営業から降ろされる始末となっていた。僕はなるべく裏方で出来るバイトを探し、その一つを見つけた。
「オッケー。採用ね。じゃあ明日から。うちはマイペースをモットーにやってるから心配しなくてもいいよ。」
本屋の、「斎藤」店長は優しくそう言ってくれた。身なりを整え、どんくさいことを明かしたが、快く採用してくれた。向上とは言えないが、自分なりの最低ラインはこれで保てそうだ。
「どうも。よろしくお願いします。では、僕はこれで。」
そういうわけで、僕は望んでもいなかった日常に戻ることとなった。文との出会いに運命などと言う大それた言葉は使いたくもないが、僕が好転するという可能性を含み始めたことも否めなかった。
バイトは週に五日、午前10時から午後5時までがシフトで、運ばれてくる書籍を分類し、陳列するというのが基本業務だった。簡単だし上手くいく。そう思っていたはずが、2週間もしないうち僕に牙をむいた。
「考弥君さあ、もう少し真面目にできないかなあ。明らかに遅いし、店が回らないよ。マイペースで良いとは言ったけど、1日のノルマくらいは達成してもらわないと。」
斎藤店長は最初こそ優しく、何度も失敗しても多めに見てくれたが、堪忍袋の緒が切れたのか、こんな事を言い出した。知っている。これも日常だ。決して斎藤店長が悪いわけではない。僕は…無能なのだ。そんな僕でもここ2週間は自分のできることと対面してきた。文のことを考えながらも、ひとまず接触を諦め、会える態勢を整えようと。
「すみません。決してふざけているわけではないんです。僕は全力何です。」
全てが言い訳がましく聞こえてくる。僕がどれだけできない奴で、頭も回らないかは、いつまで経っても世間は理解してくれなかった。僕が悪いというのが世間の評価だ。そして、実際にすべきことをできない僕にはそれに反論する資格はないことも知っている。どうしてまだ僕は生きている?
「そうかい。君が大変なのはわかってるからクビにはしないけど、業務内容くらいはしっかりと頭に入れておいてよ?」
きっと店長は優しい方だ。置いてくれるだけありがたいと思うべきか。ただ、今、もの凄く嫌煙されているような感じがした。人に見限られる瞬間と言うのはこういうものなのだろう。ずっと苦しみを抑えて、したくもないことをしている僕は、心の中でどす黒いものがこみ上げ、それに胸を裂かれる感覚があった。
「気を付けます。失礼します。」
店から出て、大きなため息をついた。頭がくらくらする程に、負の感情が押し寄せてきた。外へ出れば出るだけ、自己肯定感など薄れ、生きる価値のなさを実感させられるのだ。故に、文の事が頭をよぎればその分だけ、釣り合わない現実に苛むこととなった。
「この分だと、無理だよな。」
家に帰って布団に転がった。今一度会うことを考えても、自分は前進とは程遠い場所に居る。無駄な苦しみを味わい続けてる気がしてならない。その思いに潰されそうになり、涙が自然と流れ、孤独感がいっぱいになった。
しかし、その時電話が鳴った。スマホの画面を見て発信元を確認したが、バイト先からではなかった。見慣れた番号の羅列が浮かんでいた。毎日、見つめてはそこに掛けることを断念していたため、すぐに誰からか分かり、僕は目を疑った。文からだった。そんなまさか。わざわざ彼女から電話を掛けてくるなんて。息を整え、僕は通話ボタンを押した。
「あ、もしもし。有坂君?なかなか電話くれないし、こっちから掛けることにしたの。」
その口調は明るいものではなく、合った時そのものの落ち着き払ったものだったが、自分に興味を寄せているかのような発言をしたのだ。喜びが噴き出す様な感覚もあったが、理解しがたいという気持ちの方が強かった。
「どうしてわざわざ?もう忘れられてるかとも思ってた。」
落ち着けるためにも布団を顔にうずめるようにして僕は返答した。近づくことができるなら、きっともう一度やり直せるかもしれない。そんな思いが心の奥底ではあった。
「結構気に入ってるんだよ?死んでなくてよかった。」
声に抑揚が少なくて、何処までが本気なのか分からなかった。どちらにせよ、彼女が僕に気があるなどと言う思考は危険だ。それでも電話越しに伝う声の振動が僕には響いた。
「それで?なんで掛けてくれたの?」
話を戻し、聞き直した。まだ、良い知らせとは限らない。
「なんとなく?かな。また、どこか食べに行ってもいいなって。予定が合えばだけど。」
良い知らせだった。今にも崩れてしまいそうな心情と打って変わって、照らされているかの様だった。人間とは単純なものだ。
「もちろんだよ。いつ会えるの?」
喜びの心を押し殺すようにして聞いた。これは一歩目に過ぎないのだから。
「今のところ、私はいつでも。今日でも大丈夫だけど?」
それなら都合が良い。明日はシフトも入っていないし。
「誰か来るの?」
僕は念のためそう聞いた。彼女にとって僕は信頼に値する人間ではないのだ。二人になりたくないと言われても文句は言えない。
「ああ、そうだよね。私少し抜けてるところあって…二人でって思ったんだけど、良くないよね。」
しかし、返ってきた答えは真逆で、警戒心すら抱いて無さそうだった。ずっと短調な声なため、冷たい印象も抱えていたが、それが全てではないらしい。
「いや、むしろそっちの方が良いんだけど、大丈夫なのかなって。」
もう少し引き手でも良いと思う。人付き合いが得意と言えば済む話なのだが、一応、男女と言う間柄なのだ。
「大丈夫って何が?」
あまりそういうことに疎そうでもない彼女がそんな風に聞いてきた。僕の口から言わせないで欲しい。ただ知らぬというより、数手先までも見据えているような彼女の口調にはどこまでも狂わされる。
「ううん。なんでも。じゃあ今日に。詳細は…」
僕はそれに二つ返事で返して、夜に合う事となった。電話を切り、元の自分に居直った。
「それにしても驚いた。良くないなあ。僕が焦がれるだけ後悔することになるというのに。」
僕はぶつぶつと独り言を言いながら、夜までに身なりを整えた。やはり外見と言うのは気になってしまう。少しでもマシな格好にしようとクローゼットを漁ったが、デートにおあつらえ向きなものは一つもなく、特にオシャレも出来なかった。財産にも余裕がないため、火傷することを嫌ったことも作用して、ただの食事と考えることにし、整える部分だけ整えることにした。
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