第二章 出会い
その日は蒸しっぽくて、外に出たいという気分になった。昼過ぎの空は曇っていて、雨も降り出しそうだった。そんな天気模様と同じく、あんな状態が続いていた僕の生活も、どん底だった。ライフラインと私生活をギリギリ保ち、カネになるものは殆ど売った。品性すらも損なって、人としても最低だった。だからもう何も無かった。
なけなしのお金をポケットに突っ込んで街に出た。出歩く僕に目的などあるわけもなく、街を死んだ目で見渡しながら歩くだけだ。気分が気分なので人気のない所を選び、歩いていた。たまに外に出る時には、ここを良く通るため、散歩ルートといった所か。
毎度毎度来るたび、道中の歩道には、錆びついてて誰のために置いてあるかも分からないベンチがあり、今まで一人だって座っている者は居なかった。だが、今日はそこに座っている者がいた。でも少し様子が変だった。ずっと動かずに遠くを見つめている。良くできた人形だ。僕は初め、本気でそう思った。その人形は女性で、繊細な目をしていて、華奢な体に虚ろな表情をしていたために、精巧さを感じたからだ。僕はそれに目を取られ続け、そのまま過ぎ去ろうとしたのだ。その時に気づいた。これは人だと。今思えば見間違いようがないではないか。こんなできた人形があるならば、こんな所で放置されているのはおかしいし。ずっと目を合わせながら過ぎ去ろうとしてしまったことで、僕は気まずくなり、声を掛けてしまった。
「どうしたの?こんな所で。」
彼女の目が僕に向かうために動き、僕を捉えた。またまた人形かもしれないと僕は思い、息を飲んだ。どこからどう見ても人なのだが、その存在自体にたおやかさを感じ、顔色一つ変えずに目を合わされたため、そう思った。
「私?ううん。別に。いや、あなたも…」
彼女はすくっと立ち上がり、目線を少し上げた。含みのある言い方で、その意味は分からない。もしかしたらみすぼらしい僕に嘲笑を送ったのかもしれない。でも、そういうわけでもなさそうだった。
「少し、歩かない?」
彼女はそのままゆっくりと指を前に差し、首を傾げたのだ。何の気まぐれか。からかっているとばかり思ってしまうが、決めつけられない。彼女は常に虚ろな目に、落ち着いた顔をしているため、その心情を汲み取りづらい。僕が人形だと錯誤したのもそういうわけか。更に、ゴシックと言うわけではないが、ドレスに似た黒いワンピースを着ていたため、その印象を深くしている。
「え?うん。君が良いなら。」
気まぐれでもなんでも良い。僕はそんな綺麗な彼女に惹かれて、そう答えた。いや、しかし、何の接点も無いのにどうしてだろう。それがどうしても紐解けなかった。彼女は歩きだし、僕はその横を歩いた。二人とも何かを話し出すわけでもなく歩いたが、不思議と気まずくはなかった。ちらちらと彼女を目で追い、雲のせいで自分の影を目で追って紛らせることもできなかった。
「あのさ。どこかで食べない?おいしい中華料理店があるんだけど。」
僕は街角までたどり着いたとき、こんな事を言ってしまった。自然とだ。僕は積極的な人間でもないにも関わらず。もしかしたら口説きたかったのかもしれない。何処まで落ちぶれても現世に縋っている。
「いいわね。丁度お腹空いてきたし。」
彼女は流し目で僕を見ながら了承してくれた。僕はこうもすんなりと受け入れられたので、心の中では驚いていた。僕は昔よく行っていた店の暖簾を潜り、入っていった。適当なテーブル席にそれとなく座り、彼女と向き合った。正面からじっと見ても、未だ人形と言う印象が拭えない。変な感覚だった。
僕は余計なことを考えないためにもメニューを開き、目を通したが、重大なことに気づいた。お金を持っていないということだ。僕のポケットにある小銭はせいぜい安いジュースを二本買えるほどで、こんな所で注文をするような金額でもないし、それこそ飲み物くらいしか頼めないのだ。まずいと思っていると彼女から声が掛かった。
「出そっか?」
表情に出ていたのか、僕の様相からそういう言葉が出たのかは分からないが妙に優しいことを言ってくれた。でも、それだと僕が出してもらうのを前提で誘ったみたいで嫌だし、恥ずかしかった。
「でも…誘ったのは僕だし…今会ったばかりの人にすることじゃないよ。」
僕は驚いたまま、言葉を詰まらせながら返した。よりによって僕なんかに優しくする道理はないし、今まさに僕が口に出したことは正論も正論だった。
「へえ。今会った人に食事を誘うの?」
彼女は届いたグラスの水滴を指で掬いながら、また首を傾げる仕草を見せた。そのまま
「でしょ?おすすめは?レバニラね。じゃあそれを二つ。」
と僕におすすめを聞いて、そのままそれを店員に注文しだした。店員もいつも通りのように注文を確認し、厨房へ帰っていった。彼女のあまりにも積極的な態度に、更に僕は混乱してきた。確かに誘ったのは僕だが、顔を顰められて卑下されてもおかしくはないと思っていた。彼女の言った通り、今会った人に誘うことではない。それも完全にナンパではないか。冷やかされている感もあったけど、態度には出ていなかった。
「ごめん。そうだ。名前も聞いてなかった。僕は有坂 考弥。それと、どうしてあんな所に座ってたの?」
そんなミステリアスなこの女性の素性を知るためにも僕は質問した。彼女を見ていても、建てられる予想は一つもなく、その行動も然りだった。
「私?「文」(ふみ)よ。別に変ったことじゃないと思うけど。ただ座っていただけ。」
文は名前を言ってくれたものの、僕の質問の意図を流し、聞きたかったことを答えてはくれなかった。ただ茫然と何処かを見つめながら座っていたのだ。理由の一つや二つあってもおかしくはない。まあ初対面だし、流石の彼女も答えたくないのも当然だが。
「歩こうって言ったのは?」
僕は一つでも知りたくてまた質問をした。文が僕といる理由を見つけたかった。気まぐれだとしても時間の無駄ではないか。
「誰かに話しかけて欲しかったのかも。さあ、食べましょ?うん。美味しい。来て正解だった。」
再び意味深な言い方で返され、僕はどうにも彼女の考えが掴めなかった。その後、注文していたものが届き、食事が始まった。久しぶりにまともなものを口にし、自分の現在が如何に惨めかが骨身に染みた。
「良かった。ありがとう。」
ずっと胸を刺激するものがあったが、それを僕は置き、食べることに集中した。人と食べる食事は久しぶりで、味が一転したかのように美味しかった。
「私からも質問していい?」
彼女は食べていたところ、ゆっくりと箸を休め、僕に聞いてきた。そんなことを言われるとは思っておらず
「へ?ああ、いいよ?」
と間抜けな返事をしてしまった。
「あなた、死線が見えるんだけど。心当たりある?」
彼女の口からは現実では聞いたこともない言葉が出てきて、変な人だという印象を僕に与えた。それに、死相ではないのか?とは言うものの、僕は生きるのを諦め、もうどうなっても良いという心意気はそれに準拠していた。
「死線?良くわからないけど、生きるのは面倒になったな。」
僕は死ぬまで自分だけで抱えていると思っていた闇を見せることになった。普段の会話で生きるのが面倒などと言えば、確実に近寄りがたい人だと思われるだろう。
「なんかあったの?あ…言いたくなかったらいいよ。」
文は膝を進めると共に、箸ももう一度進め始めた。僕のことを打ち明けるような間柄ではないが、君にならいい。と思った。きっと綺麗で、欲しかったから。理由なんて、単純でそんなものだ。
「何をやっても上手くいかない。働くことも出来なくなったし、一番の親友も失った。疲れたんだよ。努力するのも。足掻くのも。もう何もせずに溶けて無くなりたいって感じ。」
文の目を見て話せなかった。自分が何を言っているのかも、僕自身は理解したくなかったのだ。これ程までに無気力だと、いよいよ救いようなどない。
「ふーん。それは残念。でも、そういう深い悩みを抱いている人に会えて良かった。自分だけなんて地獄だもんね。」
文は自分が同じだと示唆することを口にし、激励を送ることはしなかった。実際に彼女も相当なものを抱えているならその行動は正しい。僕みたいに全てが苦しい人間には、頑張れとか、良くなるとか言う言葉は表面を撫ぜるだけなのだ。僕はただ、悠々と生きているわけではなさそうな文を見て、何も知らないのに強い引力を感じてしまった。一人にしないで…諦めた心から顔を覗かせる空虚な叫びが、僕に生きる意味を植え付けようとしているみたいだった。不快だった。
「君も何か抱えてるの?」
共通点が欲しくて、僕は聞いた。文の事が気になるというだけで、心から気に掛けることのない自己都合だ。
「まあね。誰しも何かは抱えてるよ。さて、凄く美味しかった。今日はありがとう。話せて良かった。」
文は僕の事を良く思っていないのか、往々にして直接的な言い回しをしてくれなかった。きっと関わり合いに成ろうという意思もないだろう。誘いに乗ったのもただの気まぐれだった。彼女は会計を済ませようと手を上げようとした。乗り気じゃないと判っていながらも僕は何かに縋りたくて、惹かれてしまって。
「待って。連絡先、聞いてもいい?また話がしたい。」
その行動を制止して引き止めた。彼女は殆ど無表情のまま、手をゆっくりと下げ、僕の目を見た。その目はまたも虚ろで、読み解けなかった。蔑みでもなければ無関心でもなかった。ただただ心が宿ってなくて、冷たい印象すらなかったのだ。僕が欲しているこの胸に問いかけ直す程、何もなかった。
「そう…うん。教えるね。自分からも聞いておくね。ありがと。」
その目のまま、彼女はスマホを取り出し、僕に連絡先を教えてくれた。僕は自分が欲にまっしぐらに走っているような卑しさを、自らに感じたままそれを受けたが、気まぐれだけでは無さそうな彼女の行動に今度は動揺のようなものを感じた。その後、僕は心臓が波打つ無駄な緊張感に心を焼かれながら、席を立って離れていく彼女の背中を目で追った。
この出会いはきっと何かになるわけではないだろう。僕が望んでいるような結果にはなり得ないし、文が僕と居ることを望むような女性には見えない。僕はスマホに残った彼女の連絡先を見ながら、震える手でそれを持っていた。僕はいよいよこれが恋だという事に気づいてしまった。今あるのは期待でもなく、喜びでもなく、後悔に似た何かだった。自分の無力さが背後から投影され、激しく望んでいることを忘れたかった。
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