ここだけの話

桜井直樹

〈1話完結〉

「あのさ、ここだけの話なんだけど」

 こういうふうに切り出す女子は、つまり「こっそり広めてね」という自慢話である場合がほとんどだ。私も同じ女だからわかる。男子に訊いたら、なんとそのままの意味に受け取っていて驚いたけれど。

 だいたい、どんな場合でも本当に「ここだけの話」なんてあるわけがない。心底秘密にしたいのなら、自分の中でだけ抱え込んで墓場まで持っていくものだ。つまり「ここだけ」はどこにでもあるってこと。

 ところがある時、私が一番尊敬していたバイト先の女性の先輩が言った。

「あのね、ここだけの話だから、絶対誰にも言わないでほしいんだけど」

 正直、私はその言葉だけでがっかりした。所詮この人もその程度の女だったのか、と。

 けれどよくよく聞いてみると、確かに他のどこででもできる話ではないことがわかった。むしろ、私を信用して話してくれているのだと感じて嬉しかったくらいだ。

 その話はこうである。

 先輩が一人暮らしをしていた賃貸マンションの、多分下の階の住人だと思われるのだが、何号室なのかまではわからない人にたまに会うらしい。

 その人は背の高い細身の女性で、いつもマスクにサングラスに帽子、というスタイル以外は見たことがないそうで、もしかしたら有名人なのではないかと考えたと言っていた。モデルなのかな、と先輩は思っていたらしい。それほどの長身痩躯の美しいルックスなのだそうだ。

 ある日、偶然エレベーターで一緒になったので、先輩は自分の住む七階の下の六階だとは知っていたけれど、敢えて「何階ですか?」と訊いたのだそうだ。もし本当に有名人なら、知られていると思われたくないだろうと配慮してのことである。

 すると案の定その女性は「六階です」と答えて、階数ボタンを押した先輩にお礼を言って降りていったらしい。

 それから自分の部屋に帰った先輩は、いつもそうするように、夜遅くにも関わらず、ベランダの窓を開け放って空気を入れ替えた。一日中留守にすると、空気がこもる気がして嫌なのだそうだ。きちんとしている先輩らしいなと思う。

 そこで聞こえてきたのは、階下からの男性の大声だった。

 鉄筋コンクリートのマンションなので、窓を開けていなければ音が反響してどこが音源なのかはわからないのだけれど、窓を開けていたせいで、その声が発せられているのはまさに自分の部屋の真下だとわかったそうだ。

 途切れ途切れに聞こえる声は、窓が閉まっている部屋の奥での会話だからだと思う、と先輩は言った。けれど、男性の怒鳴り声だけがやたらと耳につくので、先輩は気になってなかなか窓を閉められなかった。むしろ、その成り行きを聞き届けなければならないような気がしたという。

 それで冷蔵庫から缶ビールを持ってきて、さらに上着を羽織ってまでベランダに出て、野次馬根性というよりは、なんとなく心配で何も手に付かないので、心配事を抱えて眠りたくなかったという理由で聞き耳を立てた。

 男性の罵声が大きく聞こえてくる。相手が何をやらかしたのかまではわからないが、そこまで言う必要があるのかと文句を言いたくなるほど、人格否定を含んだような怒号だったらしい。

 正義感の強い先輩なので、あまりに酷いようだったら匿名で警察でも呼んでやろうかと思ったそうだ。痴話喧嘩にしても一方的すぎると。

 すると、突然階下のベランダが開いて、女性の叫び声が聞こえた。「きゃあ!」とか「やめて!」とか、とにかく危険であるらしいことは伝わってきたという。先輩はすぐにスマホをポケットから出した。そのまま少し待った。

 男の声が言った。

「誰のおかげでお前みたいな醜い女が生きていられると思ってるんだ?! 俺が養ってやらなけりゃ、誰もお前を雇ってもくれないんだぞ!?」

 そこでふと先輩は、例の女性のことが浮かんだらしい。いつもマスクにサングラスに帽子姿で、決して顔を露わにしないモデルと勘違いしていた女性だ。

 あれはもしかして、本当は醜い傷か何かのある顔を隠していたのだろうか?

 先輩はスマホを握りしめたまま、さらに耳をそばだてた。男はまだ大声で叫んでいる。女性の声はまったく聞こえない。

「もうお前なんか生きてる意味はないんだよ! さっさとここから飛び降りちまえ!」

 それはさすがに言い過ぎだろう。そう思った先輩は、ベランダの柵から身を乗り出して、こっそりと階下を覗こうとした。が、たったショート缶一本とはいえ、ビールを飲んだのが悪かったらしい。うっかり手を滑らせた。上半身は柵を超え、くの字になった腹部でなんとか持ちこたえている。足は床から離れてしまった。

 ──やっば……。

 先輩は覚悟したらしい。ただ、この男女の顛末を聞き終えるまでは死ぬに死にきれない。なんとかうまく階下のベランダに降りられないものかと思案していると、細い手が伸びてきた。例の女性だった。助かった、と思ったという。

「あなた……」

 彼女はそれだけ言って、小さく微笑んだ。

「ありがとう」

 その顔は非常に美しく、傷も痣も何もない。本当にモデルか女優のようだった。さらに、男の影などどこにもなかった。

 そう、女優の彼女は、自宅で芝居の練習をしていたのだ。多分、男性のセリフは録音されたものを流していたのだろう。それを聞きながら、彼女は動きの練習をしていたのだ。

 先輩の腕が、くいと軽く引っ張られた。半分以上柵を乗り越えていた先輩の身体は、そのまま簡単に宙を舞った。

 階下を通過する時に、女性の顔がはっきりと見えた。今売出し中の、若手美人女優だった。

「この話は絶対誰にも言わないでね。私、彼女のファンだったの。まさか同じマンションの真下に住んでいるなんて思わなかったわ。彼女を助けようとして殺されたのなら本望よ。だから、私が彼女に殺されたってことは、絶対誰にも言わないでね」

「はい、はい! 絶対言いません! まさか先輩の死因がそんなことだったなんて……」

 ベランダに飲み終えたビールの缶が落ちていたことから、先輩の死は事故として片付けられていた。

 そう、私は先輩の幽霊からこの話を聞いたのだ。

 ここだけの話だと言わなくても、きっと誰も信じやしないだろう。

 テレビの取材で画面に映っていた若手美人女優は、「そんなことがあったんですね……痛ましいです……何もできなくて……」と涙を浮かべ、その後ブレイクした。

 先輩が成仏できるように、私は決してこの話を俗に言う「ここだけの話」にはしないと誓った。


                                  〈了〉

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