歯ブラシをも磨く

福田 吹太朗

歯ブラシをも磨く


 しとしとと雨が降り続いていた。

 とはいうものの、ほんの少しの降水量の雨が、かれこれ三時間あまり降り続いていただけなのだ。

 ここは山間部にある小さな町なのだった。

 町民の数はせいぜい二百人程度といったところ。だが風光明媚な場所であったので、県外からも、すぐ近くの市や町からもそこそこの人が訪れるのだった。

 空はどんよりと曇り、雨は一向にやむ気配はなかった。けれども雨量が少なかったせいで、避難警報などは出ていなかったのである。

 この周辺の地形は、少し変わった形状をしていた。

 高い標高の場所にも関わらず、町の外れには大きな窪みがあって、降った雨はいったんその辺りへと集まるのだ。

 雨は一向にやむ気配はなかった。

 しかも雨脚は次第に増していて、窪みの水かさは徐々に上昇していったのだ。



 次第に日が暮れてきた。

 太陽の位置は雲に隠れて分からなかったのだが、周囲が明らかに暗くなっていったのである。

 午後四時を過ぎると、まるで地面が鞭で叩かれたように、雨は一気に強くなっていったのだ。

 陽もとっぷり暮れる頃になると、大概の住み慣れた町民は我が家へと大急ぎで帰っていったのだった。

 だが例外も存在した。

 まるで孤島に取り残されたような人たちは、山を降りようにも間に合わず、とりあえず避難場所となっていた、町の公民館へと慌てて移動したのだった。

 公民館の入り口に掲げられていた看板には、「みすず町 公民館」などと達筆の文字で刻まれていたのだった。

 地元の青年団の代表である、清里という若い男性が中へ入っていった時には、もうすでに五、六名程度の逃げ遅れた人たちが畳の間であぐらをかいて座っていたのだ。

 清里は身長が高かったので、部屋の入り口の梁に頭をぶつけそうになっていたのだが、それでも中に入り、たった今起きていることの状況を、説明し始めたのだった。

「ええ、皆さん、本日は大変な目に遭われたことと思われます」

「思われます? 実際大変な目に遭っているんだ」

 早くもそう文句を言ったのは、田中という夫婦の、旦那の方なのだった。

「大雨警報が遅れましたのは我々の不注意で、誠に申し訳ございません」

 清里は素直に頭を下げたのだった。

 だが田中の怒りは鎮まらない様子で、

「今さら謝られても困るな。一刻も早くここから出られるように、手配してくれないか? それが誠意ってもんだろ?」

 すると横にいた妻の清美も、

「そうよ。私たちは観光客なんですからね? こんなところに押し込めるなんて、迷惑もいいとこだわ?」

「申し訳ございません」

 清里はまた頭を下げた。すると入り口の方向から、

「何であなたが謝る必要があるの? 文句があるのでしたら、直接町長に言ってもらえませんか?」

 そこには一人の、若い女性が立っていたのだ。



「あんた誰だ? 随分と度胸があるじゃないか」

 するとその若い女性は、

「私は青年団の副代表をしております、諸田と申します。ちなみにこちらは、代表の清里です」

 田中はそこで少し冷静になったのか、口調も穏やかになって、

「それもまあそうだな。あんたらに言ったところで、お役所が何かしてくれる訳じゃないしな」

 清里はまた軽く頭を下げて、

「わたくしはいったん、皆様の食料だとか、生活必需品等を取りに行ってまいりますので。どうかもうしばらくの間は、こちらで待っていてはもらえないでしょうか?」

 誰も異論を唱える者はいなかった。清里は部屋を出て行き……すぐに公民館の外では、車のエンジン音が聞こえたのだった。

「待つって、いつまで待ったらいいんだね」

 今度は田中ではなく、もう少し年輩の、初老の男性が尋ねたのだった。

「浜さん、申し訳ないのですが、ここから麓の中心街まで、車で片道十五分はかかるんです。ちょっとだけ辛抱してはもらえませんか?」

 どうやらその男性は、諸田とは顔見知りらしいのだ。

 田中がまた発言しようと、挙手をしたのだった。

「ああ、ええと……お宅たち、知り合い? ここにいる全員、我々夫婦を除いて、皆この町の住人て訳なの?」

 すると今度は、肌のやや浅黒い、誰が見ても外国人と分かる、まだ若い男が発言をしたのだ。

「あの私は、ここの町の出身ではないです。私の名は、イブラヒムです。パキスタンからやって来ました」

 諸田はかなり気になったらしく、

「ご自宅は、どちらにございますか? もしかして、この近くの旅館とか」

 するとイブラヒムは、大きく首を横に振り、

「いえいえ……! 私はこの町に、もう二年も暮らしております。このさらに上に行ったところの、養鶏場で働いております」

「あの養鶏場のことか」

 田中がそう言うと、諸田は少しだけ驚いて、

「ご存知でしたか? 地元のかただとは、言っておりませんでしたので」

「我々は麓の市から、きのこ狩りに来たんだよ。さっき上の方まで行ったら、鳥がうるさく鳴いていたんでね」

 すると今度は浜が、

「あそこには確かに、外国人が何人か働いているよなあ。俺もたまに見かけることはある」

「あんたは誰なんだね?」

 浜はボンヤリとした表情で、

「私? 私は浜っていうもんだ。地元で農業をしているんだよ」

「地元のかたでしたら、自宅に戻られた方が、いいのでは?」

 田中の妻がそう言うと、浜は、

「知らないのかね? 俺が住んでる方向の道で、崖崩れが起きたんだ」

「えっ?」

 公民館の屋根に当たる雨の音は、いっそう激しくなっていたのだった。



「俺の家は車でここから、せいぜい二十分足らずなんだ。崖崩れがなきゃあ、今頃は我が家の中さ」

「復旧はまだですか?」

 イブラヒムがそう尋ねると、浜は半ば諦めた調子で、

「早くても明日以降だろうなあ。マッタク、運が悪いとしか言いようがない」

「浜さん、もうすぐ食べ物も届くでしょうから、ほんのしばらくの辛抱ですよ。あホラ、噂をすれば」

 公民館の外では、車が停車した音が聞こえたのだ。

 清里が戻って来た。

「皆さんお待たせしました。食料品をお持ちしました。あのわたくしは、誠に申し訳ないのですが、一度家に帰らせていただきます。自宅が崖崩れで、半壊したとのことで」

 すると浜が、

「それはすぐに帰った方がいい。お袋さんも一人で待っているんだろ? 無事なのか?」

「申し訳ございません。母に怪我などはない模様です」

「そりゃあ良かった。すぐに戻った方がいい」

「ありがとうございます」

 清里はまた頭を下げてから、大急ぎで行ってしまったのだ。

 田中がくたびれた表情で、

「誰が俺たちの面倒を見てくれるんだね? まさか町長自ら来る訳じゃないだろう?」

 などと皮肉を言うと、諸田が、

「私が残ります。どのみち私も、自宅には戻れないものですから」

 田中は畳の間のど真ん中で、仰向けになって寝転びながら、

「あーあ、どうしてこうなっちゃったんだろうねえ。ただきのこを採りに来ただけなのにさ」

「あんた、そんなこと言わないの」

 妻の清美がそうたしなめたのだ。

 すると今度は別の方向から、か細い声が聞こえたのだった。

「あのー……シャワーを浴びることは、出来ませんでしょうか?」

 皆が一斉にその男のことを、まじまじと見たのだ。



 その部屋の隅には、さらに二人の男性が座っていたのだった。

 そのうちの一人が、おずおずと挙手をして、発言を求めたのだ。

 諸田は即座に、

「誠に申し訳ないのですが、いつ断水してもおかしくはないのです。飲み水でしたら、今清里さんが運んで参りましたので」

 その影の薄い男性は、

「私はいわゆる、強迫性障害なんです。さっき雨水で濡れてしまったものですから、それを洗い流したくて……」

「雨水なら飲めるぐらいだろ? 我慢するんだな」

 田中がそう言うと、その男性は、

「それがですね、私は……」

 田中は跳ね起きると、

「ああ! 面倒臭いやつだなあ。雨水はきれいなんだってば。水道水と変りゃしないさ」

「それがですね、これは一種の病気でして……」

 田中はキレる寸前で、

「あんた名前は何なんだ? せめて名前ぐらい名乗れよな?」

「私は木下といいます。申し訳ありません」

「まあまあ、お二人とも、落ち着いて」

 諸田が何とか仲裁すると、今度は、部屋の隅っこにいたもう一人が、いきなり話に割り込んだのだった。

「あのでしたら、僕が持ってきた、消毒液を使います?」

「あなたはええと……」

「春日部です。ちなみに僕は、不安障害でして。いっつもこんなデカいバッグを、持ち歩いているんです」

 確かに部屋の隅っこには、大きなスポーツバッグのようなものが、置かれていたのだった。

「ありがとうございます。ご厚意に感謝いたします」

「おいおい、ここは精神科の病棟なのか?」

 田中は呆れ、木下は感謝していたのだった。



 雨は一向に、やむどころか勢力をますます増大させていたのだった。

 公民館の屋根に打ちつける雨粒の音は、その大きさも速さも、確実に威力を増していたのだ。

 皆が徐々に不安から恐怖へと、その感情を変化させていた時に、またしても別の珍客が現れたのである。

 一人の小学校高学年ぐらいの少年が、澄ました顔で部屋へと入って来たのだ。

 しかも全身はどこも、濡れている様子さえ見受けられなかったのは、奇異なことなのだった。

 これには誰しもが驚いていたのだ。

 またしても顔見知りだったらしく、浜が、

「お、誰かと思えば。流星くんだったっけ?」

 その少年は、

「おっちゃん、ひさしぶり。僕も避難して来ちゃった」

 すると今度は諸田が、

「大丈夫なの? それにしても、外は大雨なのに、ちっとも濡れてないのね」

 少年は、

「カッパを着てきたからね。玄関のところに放り投げておいたけど、平気かな?」

 諸田は一応確認しようと立ち上がり、

「他の人たちの靴とか濡らしたり、ジャマになっていなければ構わないわよ?」

 田中が退屈しのぎなのか、会話に割り込んで、

「坊主、お前も身動きが取れなくなったクチか。気の毒だったな」

 するとその少年は、いきなりこんな話を始めたのだった。

「みんなも大変なんだね。あそこに窪地があるだろ? 僕がばあちゃんから聞いた話によると、昔あそこに身を投げた人がいて、その人の怨霊が良くないことを引き起こすんだって」

 田中は見かけによらず臆病なのか、ほんの少し声が上ずりながら、

「なあきみ、大人を揶揄っちゃあ、いけないよ? そんな話、誰が信じるものか」

「おっちゃん、声が変だぞ」

 すると今度は春日部が、

「それは本当の話なのですか? 余計不安になってきちゃったよ」

 少年はケロリとしながら、

「さあね。僕は話を聞いただけだから」

 一度外の様子を見に行っていた諸田が戻って来て、

「あそこだったら他の人の迷惑にならないから大丈夫だわ。一応、上の方にかけておいたけど」

 すると今度は浜が、

「雨の様子はどうだったね? 表を覗いてきたんだろ?」

 諸田はやや落胆しながら、

「ええ、雨はやむどころか、先ほどよりも勢いを増していました」

 その部屋にいた全員が、肩を落としていたのだった。けれどもただ一人流星少年だけが、

「僕はいったん家に帰るよ。あ、お姉ちゃんカッパありがとね。でもまた着ていかないと」

 田中がその言葉に反応して、

「なあおい、君は避難して来たんじゃないのかね?」

「僕の家はすぐそこなんだ。じゃ。また来るかもね」

 その少年はあっさりと、去って行ってしまったのだった。

「何だあいつ……」

 田中の恨めしげな視線とは対照的に、他の避難してきた人たちの視線は、明らかに不安感からなのか、宙を舞って泳いでいたのだった。



 夜はどんどん更けていった。

 諸田が皆に告げたのだった。

「本日はここで寝ていただきます。広い部屋はここしかないもので。布団は一応、人数分は押入れの中に揃っています。よろしいでしょうか?」

「よろしくないね」

 案の定というか、田中夫妻が早くも文句を言い始めたのだ。

「ここで寝ろっていうの? 見ず知らずの人たちと? ねえあなた、この近くに旅館とかはないかしら?」

 旦那はかなり適当に、

「探しゃあるんじゃないか? ここは一応観光地なんだろ? 探せばあるだろうから、そこに宿を取って一晩宿泊するか」

 諸田はやれやれといったふうに、

「あのー、確かにこの町は観光地ではありますが、旅館で働く従業員の人たちも今は皆、どこかに避難中だと思いますよ? それでもこの大雨の中、探しに行かれますか?」

 田中夫妻は当然ムッとしたのだが……突如として、二人だけの家族会議を開始したのだった。

 すると今度は春日部が、かなり不安げな表情で、

「あのー、僕は無理なんです。そもそもこんなに大勢の人数がいる部屋で、しかも密着するなんて」

 するとそれに続けとばかりに、木下も自分の不幸な境遇を語り始めたのだ。

「私の病気を察してください。気になることがいくつもあります。まず一つ目としては、誰が過去に寝たのか分からない布団で、寝ることは無理なんです。二つ目としては、春日部さんとほぼ同じ理由なのですが、他人と密着するのはかなりの苦痛です」

 そこで唐突に黙ってしまったので、続きを聞きたかった訳ではないのだろうが、浜が疑問に感じたのか、それとなく尋ねたのだった。

「で、三つ目は?」

 木下は何となく言い淀みながらも、

「布団が真っ直ぐ並んでいないのが、気になってしまうのですよ……!」

 それからは、上を下への大騒ぎなのだった。

 イブラヒムはこう主張したのだ。

「私はみんなと眠ることは構わないのですが、早朝にお祈りの時間があるのです。皆を起こしてしまったら悪いから、遠慮しておきます」

 諸田は弱り果て、

「それはまあ、信教の自由、なんですけど……」

 イブラヒムはさらに続けて、

「それにここには、お祈り出来そうなスペースもないですし」

 そして浜までもが、

「何だったら、私はたとえば廊下とか、台所で寝たっていいんだぞ? ほら、女性もいることだし、今は何かとうるさいだろ? やれセクハラが何だの、男は女にもっと配慮した方がいい、とかさ。女性専用車両なんてもんもあるぐらいだしな」

 諸田は苦笑いしながら、

「浜さん、そこはどうかお気遣いなく」

 そうして長い家族会議の結果、田中夫妻はというと、

「旅館は諦めることにするよ。ただし、ここではない別の部屋を貸してはもらえないかな?」

 誰もが我も我もと、自分本位の主張をし、この小さな田舎の公民館は、さながら小田原評定の様相を呈してきたのだった。



「別の部屋ですか? うーん、ないことはないのですが……」

 諸田が返事に困っていると、田中夫妻は畳み掛けるように要求してきたのだった。

「あるんだろ? あるんだったら、貸してくれたっていいじゃないか。減るもんじゃないんだし」

「そうよねー」

 諸田はため息をつきながら、

「ですが、二つあるうちの一つは、倉庫として使われていて、足の踏み場もないですし、もう一つは……」

「もう一つは?」

「もう一つの部屋は、鍵がかかって開けることが出来ません。鍵も誰かが失くしてしまったので、もう永久に、扉すら開かないんです」

「開かずの間、だな」

 浜がそう言ったのだ。

 田中は愚痴るように、

「何だよ、それじゃ意味ないじゃないか。こんなことだったら……あ」

 突然、建物内部の照明が消え、真っ暗となったのだった。

 部屋の中は一瞬ざわつき、それからすぐに静かになったのだ。

 ただ無情にも雨音だけが、激しく鳴り響いていた。

 真っ暗闇の中だと、余計に音の感覚が研ぎ澄まされるらしい。

 が、やがて非常用の明かりが点灯したらしく、部屋の中には光が舞い戻ってきたのだ。

「停電かな? 停電だろうな」

 浜がそう言うと、諸田はみんなを落ち着かせるかのように、

「停電でしょうね。ですがここには、自家発電装置がございますので。どうか心配なさらないでください。当分の間は、電気は使えるはずです」

 それを聞いて田中の妻の方が、

「あんた、旅館を探しに行かなくて正解だったね」

 などと言ったのだった。

「仕方ない。ここで寝るとしますか」

 イブラヒムが、諦めたように自分の布団へと入っていった。

 浜も、

「やれやれ、全くとんだ目に遭ったもんだ」

 春日部も腹を括った様子で、

「一番端っこなら眠れると思います。何とか頑張ってみます」

 その頃には田中夫妻は、自分たちの布団の中へと、すでに入っていたのだ。

 ただ木下だけが、自分の布団の上で、正座をしていたのだった。

「あのー、ちょっと手を洗いに行ってもよろしいでしょうか? 先ほどから、手汗を大量にかいてしまって。気になって仕方ないものですから」

 諸田はそちらの方向に視線をやりながら、

「お手洗いは、廊下の突き当たりにあります。多分廊下は暗いので、気をつけてくださいね?」

 雨音はますます強くなり、こうして夜はさらに更けていったのだった。



 突然公民館の入り口の方で、ドアが開く音が聞こえたような気がしたのだった。

「私ちょっと行って、見てきますね?」

 諸田がそう言ってから、立ち上がる暇もなく、あの少年がまた部屋へと入って来たのだった。

「ねえねえ、聞いただろ? 寝ている場合じゃないぞ」

 浜が眠たそうに目をこすりながら、

「また君かね? 一体何の用だい?」

 流星少年は驚いた様子で、

「知らないのかい? あの窪地の水が、溢れ出したんだ」

 その頃には全員が目を覚ましていたのだった。

「何だ、何だっていうんだ?」

「水が溢れ出したんですって」

 田中夫妻はどこか安閑としており、なおかつ迷惑そうなのだった。

「そんな重要なことなら、携帯に通知か何か、来てるはずだろ。ん、あれ?」

「どうしたんですか?」

 春日部がそう言って自分の携帯をチェックすると、他の者も全員手元で確認していたのだった。

「電話が通じませんね。どうなっているんだろ?」

 イブラヒムは何度も通話を試みていたのだった。春日部も、

「ダメですね。ネットもですよ」

 そこで諸田が立ち上がると、

「どこかに災害用のラジオがあったはずなのですが……」

 彼女はその部屋のみならず、台所へと行き、棚の中や床の上まで探していたのだった。

「あ! もしかしてこれのことじゃないですか?」

 木下が、皆が寝ている寝室の押入れの中から見つけたのだ。

 それはラジオといっても、乾電池で使える訳ではなく、ハンドルのようなものを、自らの手で回して電力を得るタイプのものだった。

「それです。私変なところを探してました。ありがとうございます」

 春日部が必死にハンドル状のものを回していたのだ。

「これって、結構、力が、いるっていうか、クソッ、腕に、力がっ、これくらいで……」

「それくらいでいいんじゃありません?」

 諸田がそう言ったので、春日部はハンドルから手を離し、ラジオのスイッチを入れたのだった。

 途切れ途切れだが、音声が流れてきていた。

「……次は地方のニュースです。昨日から降り続いた雨は、現在では豪雨となっており、みすず町では山頂近くにあるかつては貯水池だった窪地から、大量の水が……」

 そこでラジオの音声は掠れて聞こえなくなってしまったのだった。

「えらいことだわ……! やっぱり旅館を探しておけばよかった……!」

 田中の妻の清美はそこで慌てて後悔したのだが、どの道同じ結果だったことを、皆承知していたのだった。

「えらいことになったもんだ」

 浜がそう言うと、

「えらいことになった、大変なことになった、こりゃきっとまずいことに……」

 一番不安そうだったのは、田中の旦那なのだった。



 雨の音に積み重なるように、ごうごうという風の音までしていたのだ。

 「みすず町 公民館」の一室で寄り添うようにして布団を敷いて寝ていた八名は、眠ろうにも眠ることさえ出来なかったのである。

 結局はあの流星少年も、「僕も家だと怖いから、ここでみんなと一緒でもいいかい?」などと駄々を捏ね、大人たちよりは小さめの布団でこの雑魚寝の群れに合流したのだった。

 誰もが不安になるのは仕方がないことなのだった。

 雨は風の勢いに完全に負けて、ほぼ真横に降りながら、公民館の壁を太鼓のように叩き続けていたのだ。

 薄暗がりの中で春日部が何やら、言葉にならない言葉をつぶやいていたのだった。

 すると諸田が、こんな提案をしたのだ。

「ねえ、皆さん。こういう時はどうせ眠れないのですから、何かずっと話をしている、というのはどうでしょう?」

「身の上話を話すとか?」

「将来の夢とか?」

「やり残したことを話す、なんていうのはどうですか?」

 全員が一斉に答えたので、誰が誰なのか、分からない状況だった。

 そんな中、誰かの声で、

「一人が一つずつ、自分の秘密を話すというのは、いかがでしょうか? もちろん守秘義務ありで」

 一瞬全ての声が止まったのだが、

「それはいいんじゃないのかね? それで行こう」

 と、何となくその場の雰囲気で決まってしまったのだ。

 だがそこからある問題が起きた。

 一体誰からこの、自分が決して言いたくはない秘密とやらを話す、先陣を切るのか? 問題なのである。

 ほんのしばらくの間沈黙が続いた。

 すると春日部の声で、

「仕方ないですねえ。僕が最初に、秘密を暴露しますか」

 皆が布団の中で一斉に、彼の言葉に注目したのだった。


十一


「僕の秘密といっても……そんな大したもんじゃないですよ? そうですね、ええと……」

 彼は慎重に言葉を選んでいるようだった。何せ自らが真っ先に、注目の的となってしまったのだから。

「そんなすごい秘密じゃないんです。骨が少しだけ、曲がってしまっているのですよ」

「何じゃそりゃ」

 最初が肝心なのだった。

 春日部は後から続く人たちのためにも、話をちょっとだけ、誇張させなくてはならなかったのだ。それがたとえ事実であったとしてもだ。

「ですから。僕は幼い頃から、不安障害に悩まされ続けてきたんです。絶えず体のどこかしらを鳴らしていました。骨ですけどね。だから多分……」

「多分?」

「……だから完全に、骨が曲がってしまっているのですよ。左耳なんてほら、骨が出っ張ってしまっているんです。……以上です」

 何だか微妙な秘密の暴露だった。話は膨らまなかったみたいだ。しかし春日部は自分が言ってしまった以上、次の人にも何としても話してもらおうと、

「で? お次は誰なんです?」

 と、皆に促したのだ。

「じゃ、私。次いきます」

 イブラヒムがすぐさま応じたのだった。

「私は、日本語の文字が書けないんです」

「それって普通なんじゃない?」

 田中の妻らしき声が、当然のことのように言ったのだ。

「そうです。……けど私、結婚してるんです」

「えっ?」

 それには皆が驚いていたのだった。てっきり独身だとでも思っていたのだろう。

「妻の名は好美っていいます。そのこのみちゃんに、どうやってプロポーズしたと思いますか?」

「さあ……」

「手紙を書いたんですよ。ニッポン人の友だちに頼みまして。自分が書いたって妻には言いました」

「それって……」

「それが私の言ってはいけない秘密です」

 外ではごーごーと風雨の音が鳴り響いていた。ただでさえ重苦しい雰囲気だったものが、余計に増幅されているかのようなのだった。

「次は……」

 田中が名乗り出たのだった。

「俺行っとくか。俺の秘密は……浮気したことがある。以上」

 妻の清美が直ちに反応して、

「ちょっとあなた……! それはいくら何でもひどすぎるんじゃない?」

 田中は開き直ったかのように、

「だって十年も前の話だよ? それに一回きりだしさぁ」

「相手は誰なのさ」

「スナックのママに、色目使いで誘われたんだ。どうしても断れなかったんだよ。なあ清美ったら、大人の事情を、分かってくれよなあ」

 清美は布団の中で怒っている様子なのだった。

「なら私も秘密を言っちゃうけど、あんたの定期預金を解約して、勝手に使ってたわ。私は謝らないからね」

「おいおい、あれは弟さんの手術代に使うんじゃなかったのか?」

「弟は今でもピンピンしてるわ」

 ごぉーという音が吹き荒れていた。何だか不穏な空気になりつつあったのだ。

「もうおしまいにしますか? 何だか嫌な雰囲気になってきてますね」

 諸田がそう言ったのだが、それには田中が猛然と抗議したのだった。

「それじゃ不公平じゃないか。秘密を言った者と言わなかった者が出来てしまう」

「確かにそうですね。少し軽率でした」

 薄暗がりの部屋の中では、ただ雨と風の音が聞こえていたのだった。

「じゃあ、次僕行くね」

 流星少年が秘密を暴露する時がやってきたのだった。

「近所に金子商店てあるだろ? あそこでお菓子を万引きしたことがあるんだ。この話は店のおっちゃんには内緒だからね?」

「もちろんですとも」

 もうこの辺りまでくると、誰も驚かなくなっていたのだ。

 続いては浜が、

「私の秘密はですね……私は農家をしておりまして、主にナスを栽培しているのですよ。ところが、これは一昨年前の話になりますが、大変に不作だった年がありましてね……」

 皆が固唾を飲んで聞いているようなのだった。

「……農家にだってプライドと意地があるのですよ。私は不作だとはつい言えず、隣の隣の畑から、こっそりナスを盗んで豊作を装ってしまったのです。これって犯罪にあたるのでしょうか?」

 誰かが言った。

「いいえ、ここには警察官はおりませんから」

 残り二名となった。

 二人とも躊躇している様子なのだった。だがか細い声ながら、木下が重たい口を開いたのだった。

「私はいろいろありすぎて、一体何から話して良いのやら」

「一つだけで良いのでは?」

「いえ。この際ですから、全て皆さんの前で披露して、聞いて欲しいと考えています。まずはそう、父のパソコンを勝手にいじくって怒られたことはあります」

「それはなぜ?」

「それは父のパソコンのデスクトップの画面が散らかっていたからなのですよ。ああいうのは許せないんです。それから……」

 雨は相変わらず、窓や壁に音を立てて叩きつけていたのだった。

「……あとは一日何度も何度も、手を洗うことがあります。そのせいで遅刻したことなんて、もはや秘密でも何でもないのでしょうか?」

「いやそれは……」

「それからまだ他にも」

「木下さん、もうその辺で」

「いやいや……他人の家にお邪魔した時に、棚の上の小物の位置をずらしてきちんと並べ直した経験だってあります。あとそれから……」

「もういいですよ。木下さん」

 激しく風が吹いていた。

「さあ、あとはあんたで最後だな」

 田中が諸田に言ったのだ。さらには、

「最後なんだから、ど派手な打ち上げ花火を頼んだよ?」

 諸田はプレッシャーをひしひしと感じているようなのだった。

「私は、私の場合は……清里さんておられたでしょう?」

 何となく静かになった気がした。何の静けさなのだろう?

「私はあの男と、寝たことがあります」

「ええっ?」

「で、でも一回きりなんです。やむにやまれない事情があったんです! このことは絶対に内緒ですからね……!」

 その時だった。公民館の出入り口のドアが、激しく叩かれる音がしたのだ。

「私行きます……!」

 諸田は見たことのないようなスピードで、早くも部屋を飛び出していたのだった。


十二


 扉を開けると、一人の女性が立っていた。全身ずぶ濡れなのだった。

 女はう〜という、声にはならない声で、何やら長いことうめき、嗚咽していたのだ。

 諸田と田中の妻で、両脇を抱えながら、その女を公民館の中へと無理矢理招き入れたのだった。


「私は、私は、ううっ、うわぁー!」

 女は突然泣き出し、布団の上で突っ伏してしまったのだ。

 全員が憐れみと同情の目で見ていたのだが、得体の知れない女性の出現に、恐れてもいたのだった。

「どうされたんです? 良かったら理由を話してはいただけませんか?」

 諸田が女性にそう提案し、自分がまず自己紹介したのだった。

「私の名前は諸田といいます。ここにいる皆さん、この大雨で避難して来た人たちばかりなんです。今も皆で全員の秘密を暴露し合っていたのですよ? ここで聞いたことは、決してよそでは口外いたしませんので、安心して話してください。話してはもらえませんか?」

 するとそのずぶ濡れだった女性は、タオルで長い髪を拭きながら、涙ながらに身の上話を始めたのだった。

「私の名前は……島長浩子と申します。早い話、男に捨てられたんです。気が付いたら表に出ていて、さらに気が付いた時には、ざあざあ降りだったんです。それからここに辿り着きました」

「大変だったんですね」

「あ! あの男は執念深い奴なんです。もしかしたら心変わりして、私のことを、追いかけて来るかもしれません。そうしたらどうしよう……」

「私たちが、全力でお守りしますので。そんなに心配なさらないでください」

 島長は、そこで初めて、その部屋の中をゆっくり見回したのだった。

 皆の視線が彼女一点に集まっていたのだ。

「あのう……」

「何でしょう?」

「何か食べる物は……お腹が空いてしまって」

 誰かが台所に向かった。そうしてカップラーメンと菓子パンを持って来たのだ。

 島長はそれを、がっつくように食べていたのだった。

 食べ物を口の中に入れ、細かく砕くために噛み続けながら、

「凄い雨ですね。道が川のようになっていましたよ」

「しばらくはやまないだろうねえ」

 浜が言ったのだった。

 島長は完食すると、

「あのー、ここで眠っても……」

 だが布団を敷けるスペースはなく、一杯一杯なのだった。

 すると春日部と木下が、同時に立ち上がったのだ。

「僕たち、どこか違う場所で寝ます。慣れてるので大丈夫です」

「ありがとうございます」

 諸田は二人に感謝の意を表し……それからちょっとした、大移動が始まったのだった。


十三


 雨はさらに強まっていた。

 もうこのまま永遠に、やまないものと、誰もがそう思ってしまっていたのだ。

 春日部と木下は、例の大部屋からは脱出して、別の場所に布団を敷いていたのだ。

 春日部は台所と廊下の間、木下は廊下の中ほどに、それぞれがやや距離を空けていたのだった。

「春日部さん、春日部さん、まだ起きていますよね?」

「ええ」

「この雨、いつかそのうち、やむと思いますか?」

「どういうことです?」

「いや、あのね、もしかしたら永久に、降り続けているのかなあ、なんて思ったりもしてます」

「木下さん、私は確かに不安の種は尽きないのですが、その一方で、ほんの僅かにですが、将来には希望を抱いております。あれ? この答えで合ってました?」

 木下は廊下の真ん中に、廊下とぴたり平行になるように布団を敷いていたのだが、

「なるほど。あなたには希望は残っている、という訳ですか。私は何事にも煩わしくて、このままでは、まともな将来はやってこない気がしているのですよ」

 春日部は台所の天井を眺めながら、そこについた染みが何かの模様に見えていたのだった。

「木下さん、あなたのお気持ちはよく分かるのですが、この雨だっていつかそのうち、やむとは思いません? 思いませんか」

「いえ、春日部さん。やむと思います。やむと思えば、いつかそのうち本当にやむと思います」

 二人のいい歳をした男たちは、こんなとんでもない夜更けに、そんな他人が聞いたらくだらない内容の会話を、何となくしていたのだった。


十四


 風も雨もやむ気配はなかった。

 大部屋の人たちは皆怯えていた。

 特に後から来た、島長は余計に怯えていたのだ。

 ところでその部屋の隅っこには、デジタル式で小型だが、イギリスにあるビッグベンを模したような形状の時計が、置かれていたのだった。

 電池で動くタイプだったので、このような事態に陥ったとしても、きちんと時を刻んでいたのである。

 その時計がいきなり、ボーン、ボーンと二回鳴ったのだ。

 いわゆる丑三つ時というやつで、午前二時を回ったところなのだった。

「二時かあ。夜明けはまだまだ先だな」

 浜がそう呟いていたのだ。

「丑三つ時って、怖いことが起きるんだよね?」

 流星が別に皆を怖がらせようとした訳ではないのだろうが、いきなりそう言ったのだった。

 その時だった。

 入り口のドアがノックされたのだ。

 田中などは完全にびびっており、

「何だよ、また来客か? こんな時間に」

 諸田は正義感の塊なのか、

「ですが島長さんの時のように、困って来た人かもしれませんよ? 開けてきますね」

 他の者たちは大いに慌てふためいていた。

「ちょっと待ってよ……! 島長さんといえば、例の男じゃありません?」

 イブラヒムが皆を代表してそう言ったのだ。

「妖怪かもね。きっとそうだよ」

 流星はそう断言していたのだ。

「もしかして……昔窪地に身を投げたっていう、その霊が出たんじゃあ……」

 田中の妻も、気味悪がっていたのだった。

 諸田は相変わらずで、

「ですが……もし助けを必要としているのならば、開けてあげなければ大変なことになります。この雨ですよ?」

 そこからは喧々轟々の議論が始まったのだった。

 しかし結局は当の島長が、

「私、ちょっと行って見てきますね?」

 そう言って部屋を出て行ったのだ。

 なぜなのかは分からなかったのだが、まるでほんの一瞬、神仏の御慈悲なのか、それとも悪霊の仕業なのか、風も雨も静かになった。

 なので、カチカチという、部屋の隅っこの時計の音が、聞こえるようになっていたのである。

 時を刻む音がその場にいた人を不安にさせていた。

 カチカチカチ……島長はなかなか戻ってこない。

 皆押し黙り、嫌な沈黙が続いたのだった。

「何でもありませんでした……! ただの風の音だったみたいです!」

「何だよ……」

 その言葉を聞いた途端、田中などは腰が砕けたようになり、他の者たちも皆、安堵のため息を漏らしたのだ。

 そこに春日部と木下が入って来たのだった。

「何かあったのですか?」

「ちょっと声が聞こえたもので」

 何も知らない二人にとっては、霊の存在などどうでもよかったのである。


十五


 やはり雨脚はほんの少しだけ、弱くなってきているようなのだった。

 浜がそれに最初に気付き、

「なあ、もう一度ラジオをつけてみたらどうなんだね?」

 などと言い、今度は皆が代わりばんこに、ハンドルを回したのだ。

「これって、手が疲れるけど面白いや」

 流星少年はおもちゃ感覚で楽しんでいたのだった。

 ラジオのスイッチをつけると、やはり掠れた音が聞こえており、しかしいくら待っても、なぜかニュースは一向に流れなかったのだ。

 代わりに妙な音楽というか、何かの歌がスピーカーから、飛び出してきたのだった。

 合唱団のような声で、大勢が歌っていたのだ。

 それはあの、みみずだぁって、オケラだぁって、アメンボだあってぇー、という歌声なのだった。

 だが誰も、その続きを歌う者はいなかった。

 とてもそんな気分ではなかったのだ。

 雨と風は確実に弱まっていた。

 時間も刻一刻と、過ぎていったのだ。

 そのうち誰かが、歌の続きを歌い始めたのだった。

 他の者たちも、全員ではなかったのだが、それにならって歌い出し……大合唱とはいかぬまでも、その部屋というか建物の中では、陽気な歌声が響き渡っていたのだった。

 雨はようやく、弱くなりつつあったのだ。


十六


 「みすず町 公民館」の東側の雨戸の隙間から、微かに陽が差し込んでいるようなのだった。

「あれっ? 雨ってもう上がりました?」

 春日部がそう言ったので、他の者たちも、ようやくその点に気が付いて、

「ちょっと雨戸を開けてみようよ。多分……大丈夫だから」

 諸田とイブラヒムが二人で、雨戸をほんの少しだけ、数センチほど開けたのだった。

 外はすっかり晴れ上がっていたのだ。

 とはいうものの、太陽はまだ顔を覗かせたばかりで、浜が、

「夜明けだな。これがニッポンの夜明けなんだよ」

 などと、訳の分からないことを言っていたのだった。

 ちょうどその時、例の時計がボーン、ボーンと、全部で五回、鳴ったのだ。

「あ、携帯が圏外になってるわ?」

 田中の妻がそう言うと、皆も自分の携帯を取り出して、それぞれが確認していたのだった。

 諸田はまずは清里に連絡を入れ、それから町役場にも電話をかけていた。

「皆さん、良いお知らせです。雨は上がって、例の窪地の水も、すっかり引いたそうです」

 全員がホッと胸を撫で下ろした瞬間だった。

 諸田はさらに続け、

「役場の職員が出勤次第、こちらに駆け付けるそうです」

 皆疲れ果てていた。

 あれだけ猛威を振るった雨と風も、一体どこへ行ってしまったのか、その声すら聞かなくなったのだ。

 外で車の止まる音が聞こえた。

 役場の職員よりも先に、清里が駆け付けたようなのだった。

 諸田は、

「あのことは絶対に言わないでくださいよ? 守秘義務ですからね?」

 と、念の為なのか、あらかじめ釘を刺しておいたのだった。

 公民館の入り口のドアが開く音がして、清里が部屋に入って来たのだった。

「皆さん、安心してください。もう大丈夫のようです。私もここにいられなくて、申し訳ありませんでした」

 すると田中が、まるで自分の手柄のように、

「いやいや、我々だけで十分、やることはやったからね。なあ?」

 諸田以外の全員が、なぜかニヤニヤとしていたのだった。


十七


 その頃にはもう、完全に朝になっていた。

 公民館内の水道の蛇口が並んだシンクの所では、春日部と木下が、歯を磨いていたのである。

 木下は、歯ブラシを二本手にしていた。

「あれっ、木下さん、何で二本も持っているのですか?」

 木下は苦笑いしながら、

「こっちは歯を磨く用、そしてもう一本は、歯を磨いた歯ブラシを、磨く用なんです」

「へえ……やはりあなたは、変わってますね」

 木下はもどかしそうに、

「一度これをやってしまうと、また何度も、歯を磨くたびについやってしまうのですよ。やめたいところなのですが、やめられないのですね」

 春日部は妙に納得し、

「僕の歯軋りや貧乏揺すりと同じですね」

「まあ、そんなところです」

 二人が立っていたシンクの上には、細い窓が開いていたのだった。

 そこからは燦々と、陽の光が注ぎ込んでいた。

「いやあ今回は、とんだ目に遭ってしまいましたね」

春日部がそう言うと、木下は、

「いえいえ、私はなぜだか、これで良かった気がしています。理由は不明なのですが」

「そうですか」


 太陽はもう、かなりの高さにまで昇っていたのだった。

 その山間部の小さな町は、いつもの光景に戻りつつあったのだ。

 だがそれでも大雨の影響で、水に浸かった家もあれば、崖崩れに巻き込まれた家もあったのだ。

 まだまだ復旧には時間がかかりそうだった。

 しかし不幸中の幸いで、死傷者などは出ずに、二百人あまりの町民は、皆が無事なのだった。

 町を遠くから眺めてみれば、まさかあんな大雨が降り、風が吹きつけていたなど、誰が想像できただろう?

 公民館に避難した人たちは、皆自分の家へと帰って行った。

 その頃にはもう、太陽は真上に昇り、山の上から町や人々を照らし続けていたのだった。


 爽やかな風が吹いており、陽の光は眩しいほどなのだった。




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歯ブラシをも磨く 福田 吹太朗 @fukutarro

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