第4話 おにーちゃんがすべきこと

「あ、あの……早海先輩」


 夕方に差し掛かった頃。帰路につこうとした八宇治さんは玄関を出た辺りでふと立ち止まり、俺に振り返っていた。


「ん、なに?」


「そ、その……ひまりちゃん、本当に大丈夫でしょうか? わ、私の配慮に欠けた振る舞いで、あんな悲しい顔をさせてしまって」


 目を伏せて気にかけてくれる八宇治さんに、俺は正面を切って笑みを返す。


「八宇治さんが気に病むことないよ。これは俺たちの問題だから」


「で、ですけど……もし、私で良ければ何か力になれることとか」


「ううん、ほんと気にしないで。八宇治さんは夏休みの間も部活で忙しいんでしょ? その邪魔はしたくないからさ、ひまりちゃんのことは俺に任せて頑張ってきてよ。陰ながら応援してる」


「……あ、ありがとうございます。長田先輩から伺っていた通り、お優しいんですね」


「え。あ、あー……か、環奈さ。なにか、他に余計なこと口走ってたりしてないよね?」


「い、いえ。特に何も……?」


「なら、いいんだけど」


 環奈は俺をよくからかってくるからなぁ……広い人脈で根も葉もない俺の噂でも流されたりしたら堪ったもんじゃない。


「あら、今私のこと呼んだ?」


「うわッ!?」


 唐突に俺の背後からヌッと顔を出してきた環奈。音もなく現れるの心臓に悪いからやめて。


「そこまで驚かなくたっていいじゃない、失礼ね」


「だ、だって、急に現れたから」


「私も一緒に帰るんだからここに現れるのは当然でしょ。それとも千尋はまだ私とお話していたかったの? 甘えん坊さんね」


「子供扱いしないで……」


 いつもの調子でからかわれた後──環奈は澄んだ瞳で俺を見据えた。


「ひまりちゃんの件、お願いね。私もああは言ったけれど、あんな風に落ち込んでる姿は見ていられないから。千尋が気を利かせて元気づけてやって?」


「元気づける……どう、声を掛ければいいんだろ。あまり下手なこと言うと余計に傷付けちゃいそうだし」


「今言ったでしょ、気を利かせてやってって。ミルクちゃんと紐づけて考えてばかりいないで、広い視野を持って千尋が今出来ることをすればいいの」


 ……広い視野、か。


「知り合って間もない私とは違って、千尋は一年以上ひまりちゃんを傍で見続けてるんだから。ひまりちゃんが何を好んで何が嫌なのか、それくらいは把握してるでしょ?」


「……うん」


 頷くと、環奈は呆れたように笑ってから右手の拳を俺に向ける。


「よろしい、ならこれ以上私から言うことはないわ。頼んだわよ、お兄ちゃん?」


 信頼を置かれたその言葉に──俺は返事をしつつ、自分の拳を環奈の拳にコツンと重ねていた。




 相川宅の階段を上がり、廊下の途中にあるひまりちゃんの部屋の前で俺はソッと立ち止まる。


 昼の一件でひどく落ち込んでしまったひまりちゃんは現在いま、誰の声にも耳を貸さずに部屋に引きこもったまま沈黙を貫いている。智香ちゃんと紗彩ちゃんもイレギュラーな事態に手の打ちようがなく困り果てている状況だ。


 部屋の扉にも鍵がかけられていて、顔を合わせることすら完全に拒否されている。そのため、まずは少しでも心を開いてもらえるように、扉越しからひまりちゃんに向けて呼びかけるしかなかった。


「ひまりちゃん?」


 ──返事はない。


「……起きてる、よね。さっき、環奈と八宇治さんはお家に帰ったよ。ひまりちゃんのこと、すごく心配してた」


 俺の声を聞いたら一目散に駆け寄ってくるひまりちゃんから返事を貰えないというのは、正直かなり堪える……が、しかし。この程度では挫けないぞ。


「その、ひまりちゃんの気持ちを考えたら軽々しく言うべきじゃないだろうけど……元気、出して? 俺なんかで良ければ、残りの今日一日何でも甘えていいからさ」


 ミルクちゃんと紐づけず、広い視野で。


 それはつまり、里親の一件とは一旦距離を置き、今はひまりちゃん個人と向き合って寄り添うべき……なんだと思う。変に刺激させないよう、普段通りに。


「何か、お願いごとはある? ゲームだったら何時間でも付き合うし、話したいことがあったら気が済むまで耳を貸すよ? ほんと、遠慮しなくていいから」


 そう呼びかけると──しばらくして、扉越しのすぐ近くからガタッと物音が鳴った。


「……おにーちゃんなんて、だいっきらい」









 ────はッ!? 


 い、今、完全に意識が飛んで、何を言われたのか分からなかった……え、なに? 今、なんて言われたんだ俺っ?


「おとーさんとおかーさんの味方して、ひまりには優しくしてくれないんだ。ひまりとミルクちゃんのことなんてどーだっていいんだ」


 混乱していた最中、不満そうな声でひまりちゃんが俺にそう訴えかける。


 優しく……いやいやまさか、ひまりちゃんに優しくしない俺とかそれはもう俺であって俺じゃない何か。


「や、優しくしてないわけじゃないよっ? 俺も、色々と冷静に考えを巡らせた上での結論であって、ひまりちゃんの気持ちは十分によく理解してるから」


「……ひまりが一番ちっちゃいから、子供だから、バカにしてるんだ。ひまりなんて、おにーちゃんにとってはただのおじゃま虫なんだ」


「ち、違うよ。なんでそんな風に言うの? 今まで一度でも、俺からひまりちゃんに邪魔だって言ったことある? ないでしょ?」


「……だ、だって……ひ、ひまりは、ワガママで、おバカさんだから」


 次第に涙声へと変わっていき、ひまりちゃんは嗚咽を隠し切れなくなっていく。


 居ても立っても居られない気持ちに駆られて焦燥する俺は拳を握り、何が何でも目の前の扉を開けてみせるとこの瞬間、決心していた。


「……それ以上、自分を傷付けるような言葉は使わないで。普段からひまりちゃんの笑顔に俺がどれだけ救われてるか知ってる? 少なくともね、俺にとってはひまりちゃんは替えの利かない大切な女の子なんだよ?」


「う、嘘だよ、どうせそんなの」


「ひまりちゃんッ!」


「ッ!」


 しまった。つい、大声が。


 でも、今のはそうせざるを得なかった。自分を卑下するひまりちゃんなんて見たくないから。


「ひまりちゃんがどう言おうが、どう思おうが、俺の気持ちに変わりはないよ。ひまりちゃんは俺の大事な女の子。見放すような真似は絶対にしないから」


「……おにーちゃん……」


「鍵、開けて? 怒ったりしないから、冷静になって俺と話し合おう? さっきも言った通り、何でも甘えていいからさ? で、出来る範囲でだけど」


「……」


 もしこれでも応じてくれなかったらどうしよう……そう思っていた俺だったが、不意にカチャンと音が鳴り──ゆっくりと開かれた扉の先から、気まずそうに下を向いたひまりちゃんが姿を見せていた。


「ひ、ひまりちゃん」


「……ご、ごめんなさい。おにーちゃんを、酷く言っちゃって」


「あ、ああ……それは、大丈夫だよ。本心で言ってないことくらいちゃんと理解してたから」


「……」


 どうすればいいのか分からないかのように下を向き続け、ひまりちゃんはそれ以上口を開こうとしない。


 このままの状態が続くと悪い雰囲気に持っていかれると危惧した俺は、年長者としての責任を意識して真っ向から切り出していた。


「部屋、入ってもいい? 少し話そっか」


「……う、うん」

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