第3話 しっかりして
「はあぁあ〜っ!! か、可愛い〜っ!!」
ケージの中でジッと体を丸めていたミルクちゃんを目に捉えた直後、八宇治さんはワッと黄色い声を上げていた。
「しゃ、写真で見るよりもお目々まん丸でっ、小さくてっ、ぬいぐるみみたいでッ……!」
「気に入ってくれた?」
「はいものすっごくッ!! この度は紹介して下さり誠にありがとうございます長田先輩ッ!! い、今すぐにでも持ち帰りたいくらいですぅッ……!」
これまでの慎ましい態度から一変し、リビング中に興奮に満ちた声を響かせる八宇治さん。
その剣幕に智香ちゃんと紗彩ちゃんは若干引き気味ではあるが、見慣れた様子でクスクスと笑う環奈はクルッと俺に振り返る。
「だって、千尋? 良かったわね、気に入ってもらえて」
「う、うん。なんか、予想以上に」
「可愛いものを見るとすぐに興奮しちゃうのよ、この子。分かりやすくて面白いでしょ?」
「……あはは」
面白いかどうかはさておき、目に見えて気に入ってくれているのは確かに好印象だ。当のミルクちゃんも興味が湧いたのかにゃーにゃーと鳴き始めているし。
「あ……す、すみません、無作法にも騒ぎ立ててしまって」
「ああいや、それは全然気にしないで。喜んでもらえて何よりだよ」
俺が言うと、照れたように笑う八宇治さん。
……なんだか、少し前の優等生な智香ちゃんと話しているような気分だな。
「おにいちゃん、なんで今一瞬わたしのこと見たの」
「見てないよ、気のせいだよ」
「見てよぉッ!!」
逃げ道がない。
「お姉ちゃんうるさい。八宇治先輩、本当にいいんですか? 今後のミルクちゃんのお世話を全て押し付ける形になっちゃいますけど」
横から紗彩ちゃんが口を挟むと、八宇治さんは目を輝かせて大きく頷いた。
「もちろんどんとこいですっ! 神に誓って大切に全力に誠心誠意にお世話させていただきますッ!」
「は、はあ。そぉ、ですか。あ、ありがとうございます。でしたら、あたしとしてもこれ以上の異論はありませんけど、お兄ちゃんたちはどうです? 何か意見があるようでしたら遠慮せずに今ここで打ち明けちゃった方がよろしーかと」
紗彩ちゃんからそう訊かれるも、特に不満はない俺たちは賛同する方向で各々に声を上げる。
見ず知らずの赤の他人ではない身近な……それも、環奈が信頼を寄せる後輩の女の子の手に渡るのであれば御の字だ。大方、みんな俺と気持ちは同じだろう。
──ただ一人、ひまりちゃんを除いて。
「……ひまりは? ミルクちゃんを一番大事に見てるのはひまりでしょ?」
「……」
ひまりちゃんは俯いたまま、一向に口を開こうとしない。
このまま放っておいたら今にも潰れていなくなってしまうんじゃないかと、そう思わせられるほどにひまりちゃんの肩は寂しげに竦んでしまっているようで。
ひまりちゃんを形作っていた体の中の灯火が消えたかのように冷め切ったその様子に、俺を含めてこの場にいる全員が気まずい空気に気後れしていた。
「…………ひまり? だ、大丈夫?」
沈黙を破って智香ちゃんが慎重に寄り添うと、直後にひまりちゃんはフッと倒れ込むように智香ちゃんの正面から縋り付き──微かに、すすり泣きを漏らす。
「あ……ひ、ひまり……」
「……ッ」
徐々に、不規則に肩を上下させて、ひまりちゃんの挙動が不安定に増していく。
あれでも何とか我慢しているのだろう。本当なら包み隠さず思いの丈をぶつけたいこの瞬間を、善意で足を運んでくれている八宇治さんに迷惑をかけないようにと、玄関先での俺の言葉を守ってくれているんだ。
……罪悪感に、駆られる。
(……俺が、拾ってきたりしなければ、こんなことには……)
全ての発端は俺だ。
炎天下に晒されて命の危険があったからとはいえ、不用意に連れて帰ってきてしまったからみんなを厄介事に巻き込んで、無関係なひまりちゃんをこうして泣かせる結果になった。
こうなってしまうかもしれないと、連れて帰る前にある程度の予測はできていたはずだ。
でもあの日、段ボールの中で弱々しく鳴いていたミルクちゃんを一目見た瞬間、『可哀そう』という単純で浅はかな感情に満たされた俺はその衝動のままに、家に居た母さんにすら相談の連絡もせずに……。
「──こら」
ポスッ、と。
不意に、俺の頭に手刀を当ててきたのは環奈だった。
「何暗い顏してんの。この前通話で話したでしょ? 千尋の選択は間違ってない、気負わなくていいって」
「……環奈」
「これはひまりちゃんの気持ちの問題よ。だってそうでしょ? ひまりちゃんが納得さえすればミルクちゃんは綾乃の手に渡って衣食住不便なく、二度と捨てられることなく幸せに暮らしていけるんだから。何一つ悪い要素なんてないじゃない」
「そう、だけど……でも、さ。ひまりちゃんの中ではもう、ミルクちゃんを大事な家族の一員として捉えていて、ああして泣いちゃうくらいミルクちゃんのことが大好きで……」
心境を明かす俺に、環奈は腕を組んで目つきを鋭くさせる。
「じゃあ何? ひまりちゃんが気の毒だからって、智香や紗彩ちゃん、仕事で忙しいご両親にまで迷惑をかけてでもここに残したいって言うつもり?」
「い、いや、それは違う」
「なら腹を括りなさい。ミルクちゃんを大事に思うならミルクちゃんを第一に考えて、例えそれでひまりちゃんが心を痛めるような結果になるとしても、千尋自身が正しいと思う道を選択して、悔いが残らないように前へと進むしかないの。……当事者である以上、自身の行動に最低限の責任は持ちなさい」
「……っ。ご、ごめん」
「謝るのもやめて。そういう、心に芯の通ってない戸惑った目をした千尋は私好きじゃないわ」
──そう、だよな。
言われた通り、個人的な私情に左右されず、客観的な立場でミルクちゃんの行く末を決めなければならない場面なのに……ひまりちゃんの涙一つでここまで動揺させられて、環奈の前で醜態を晒してしまった。
ひまりちゃんのことはもちろん大事だし、俺を『おにーちゃん』と呼んで慕ってくれるその愛おしさ、他の誰よりも魅力的な屈託のない笑顔を今後もずっと守っていきたいと、そう思ってはいるけど。
だけど、しかし、
(そうだ。ここで俺が悩んでいたらみんなを不安にさせる、ダメなんだ。俺自身がどうしたいのか、はっきりさせないと)
気付かされた俺は踏ん切りをつけ、前を向く。
人の顔色ばかりを窺って生きていたら今を含め、今後においても真に守るべきものを守れなくなる日がきっと来る。
そうなってしまう前に、俺は俺らしく在るために、ここで決断するべきだ。
「……ありがとう、目が覚めた」
「……もう、世話を掛けるんだから。目が覚めたのならそろそろみんなに向けて何か一言言ってくれる?」
「え? ……あ」
言われて振り向くと、智香ちゃんや紗彩ちゃん、そして美乃里と八宇治さんも不安そうな目で俺を見つめていた。
この距離だし、環奈とのやり取りを一語一句聞いていたのだろう。特に八宇治さんは俺に対して救いを求めるように表情で訴えかけてきている。
……ここまで来た以上、もう迷ってはいられない。
咳払いを一つ挟んだのちに、俺は口を開く。
「今すぐにではないけど──とりあえず、今後の方針として。ミルクちゃんの里親は八宇治さんに任せたいと思ってる。みんな、いいかな?」
反対する声は──何も上がらなかった。
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