第1話 ブラコンという名の問題児
長かった期末試験が終わり、その後は午前の内に帰りのホームルームを済ませて下校の時間。
テスト期間中で活動停止になっていた部活動が一斉に解禁となり、クラスメイトたちは歓喜と安堵の声を上げながらゾロゾロと教室を後にする。
「じゃーなぁ千尋ぉ。また月曜日なー」
「うん、また来世で会おうね」
「おーう。……え?」
同様に部活へと向かう拓郎を見送った俺は席を立つと、スクールバッグを肩にかける。
暑さが増したこの時期、衣替えを迎えて今では動きやすい半袖のシャツ一枚だ。
そうなると、まとわりつく汗でどうしても体臭を気にしてしまう俺。バッグの中から制汗剤のスプレーを取り出して、シャツ内にプシューッと吹きかける。
(……夏だなぁ)
改めてしみじみと感じ入る。蚊もよく飛び回るようになったし、虫除けスプレーも近々買わないとだな。
そう考えていたとき、
「お疲れ。目に見えて疲れきった顔ね」
「ああ……うん、まあね。はは」
スッと横から話しかけてきた環奈を前にして、俺は苦笑する。
短くなったシャツの袖から覗かせる白く細い腕に、一枚のシャツ越しから強調される豊かな胸元。煌めくようなその存在感に若干及び腰になってしまう。
目立たない俺なんかじゃ釣り合わないとは思うが、環奈から友好的に接してくるため避けようもなく。
まあ、仲良くしてくれるのは素直に嬉しいけども。
「ふふ。この後はもう家に帰るの?」
「そう、だね。他にやることもないし」
すると、環奈は唇に指を添えて俺を見据える。
「ふーん……やることないならさ、部活見学でもしてく? 女子テニス部だけど」
「い、いや、遠慮しとくよ。なんか肩身狭そうだし」
女子テニス部のエースとして活躍する環奈。前にテニスコートでの姿を見かけたが、環奈のテニスウェア姿は瑞々しさがあってとてもキラキラ輝いていた。
もちろん環奈以外にも多くの女子部員がいて、その中で一人だけ男っていうのは……うん、気まずい。
「大丈夫よ、私の友達だって紹介しとくから。なんなら千尋、マネージャーとして入部してみる?」
「いやいやいやっ、無理だってっ」
「そうかしら? 千尋なら気が利くし、女子受けもいいからすぐに馴染めそうだけど」
めっちゃ評価してくれる。女子受けがいいとは俺的には思ってないけど……。
「か、勘弁してください、本当に」
「……あっそ。まあいいけど」
仕方なさそうに身を引いてくれた。
部活に興味がないわけではないが、そうすると美乃里に寂しい思いをさせてしまうし……やっぱ無理。
「でも、興味が湧いたらいつでも私に相談して? 身の保証はちゃんとしてあげるから」
「は、はは……ありがと」
うん、先輩相手でも強く前に出て言えるんだろうな。自信に満ち溢れた表情してるし。
そう思っていると、
「ちひろぉ〜、かんなぁ〜」
さらにもう一人、相変わらずの爽やかオーラを放ちつつ横から現れたのは宮内くん、もとい隼太だった。
手を振りながら近付いてくると、手に持っていたペットボトルを口に付けて喉に通した後、「ふい〜」と盛大に息を漏らしていた。
……酒飲みかな?
「いやー暑いなぁ。んでもって二人とも、点数の自信のほどはいかに?」
訊かれて、俺と環奈は見合って笑う。
「俺は……はは、そこそこかな」
「私も、ぼちぼちね。普通って感じ」
出来る限り頑張ったつもりではあるけど、曖昧な解答も多かったし、大きな期待はできそうにない。
「千尋はともかく環奈は余裕だったろ? 頭良いし」
ともかくは余計だと思う。
「べ、別に、人並み程度よ。そんな、努力してるわけでもないし」
「努力しないでそれなら尚のことすごいって! いわゆる才能ってやつだろ?」
「……そ、そう?」
「おう!」
「……あ、ありがと」
褒められて、環奈は嬉しげに頬を緩めた。
(……うん、順調そう)
ここ最近の環奈と隼太の関係性は良好だ。
智香ちゃんへの恋路が実らず終わり、どんよりと落ち込んでいた隼太を率先して励ましに行っていたのは環奈だった。
俺との関わりで心に余裕ができたらしい環奈は前よりも素直になり、固かった表情も少しずつ和らいできていて話しやすくなってきている。
結果として隼太も環奈に近づきやすくなり、現在ではお互いに惹かれつつある状況。このまま二人が結ばれてくれたら俺的にはもう御の字である。
「(いい感じじゃん、雰囲気)」
「(……う、うん)」
小声で気にかけると、まんざらでもない反応。
……可愛いなぁ。無性に応援したくなる。
「俺はちょっと不安かもなぁ。まあでも、補習受けたくないから赤点はないだろうけどなっ!」
「その油断が命取りー」
「なんだと〜? んなこと言ってる千尋の方こそ、余裕ぶってると泣く羽目になるかもだぞ〜?」
「あはは、まっさかぁー……はは」
内心、そう言われると怖くなるからやめて。
「ま、とりあえず期末試験が終わって明日は週末なんだし、千尋も環奈もゆっくり身体休めろよ?」
「うん、ありがと」
「ええ。私は部活あるけどね」
「ははっ。じゃあな〜」
そして、隼太は最後まで笑顔で教室から姿を消した。
環奈の尽力でだいぶ調子を取り戻してくれたみたいで良かった。あれならもう心配は必要なさそうだ。
「……千尋」
「ん?」
呼ばれて向くと、環奈は穏やかな面持ちで隼太が去っていった先を見遣っていた。
「改めて、ありがと。千尋のおかげでここまで持ち直すことができた。本当に感謝してる」
「い、いや……別に、大したことはしてないよ。ちょっと相談に乗ったりとか、休日に一緒に遊んだりしたくらいだし」
「そのおかげだって言ってるのよ。……私が感謝してるって言ってるんだから、素直に受け取りなさい」
「あ、ああ、ごめん。うん、どういたしまして」
「……」
……本当に、表情豊かになったな。嬉しそう。
つられて俺まで笑みがこぼれてくる。これからもこのまま、変わることなく続いていってほしい限り。
「──で。そろそろ、来る頃じゃない?」
「……うん。もうじき、来るね」
俺と環奈は再び見合い、可笑しく思えて笑う。
環奈にこう言わせてしまうほどに、それはもう、今となっては日常的な光景になってしまった。
それが一体なんなのかというと──
「おにいちゃあーんっ!」
突如、教室中に響き渡る活力に満ち満ちた声。
「ほら、来たわよ? 超絶怒涛の甘えん坊な妹が」
「……はは」
言われて、俺はこの後の展開を容易に予知して失笑する。
教室の出入口に目を向けると、そこには満面の笑みで大きく手を振っている女の子の姿。
「……むう」
その女の子──智香ちゃんは、笑顔から少しずつ不機嫌気味に表情を変化させながら教室に踏み込んでくると、良い香りを振り撒きながら長髪をふわっと靡かせて、俺と環奈の間に割って入ってきた。
そして、
「おにいちゃんっ、おつかれさまぁ」
「う、うん、お、おつかれさま」
真正面から躊躇なく、俺にぎゅうっとしがみついてきて甘えきった声を上げる。
「おにいちゃんのこえぇ〜……んん〜……」
「……」
──か、可愛すぎるぅう⋯⋯ッ!!
俺は心の中で叫んでいた。
「ね、早く帰ろ? おにいちゃん、疲れてるよね?」
「そ、そだね」
「だよね、うんっ。お家に帰ったらわたしがたくさんおにいちゃんを癒してあげる〜」
「……アハハ」
頭から猫耳でも生やしているかのような懐き具合。ひと月前までの礼儀正しい清楚な智香ちゃんとはまるで別人だ。
良く言えば、生き生きしているとも。
頭をポンポンと撫でながら笑うしかない俺。
「よくもまあ、人前でそんな恥ずかしげもなく抱きついていられるわね……」
横で見ていた環奈が話しかけてくると、智香ちゃんは少しだけ顔を振り向かせて何やら唸り声を上げる。
「う〜……」
「……言いたいことがあるなら早く言いなさいよ」
「環奈さんはお呼びじゃないのでお帰りください」
「別に、言われなくてもこれから部活だし」
「じゃあ今すぐ行ってください、わたしとおにいちゃんの邪魔しないでください、おにいちゃんはわたしの所有物なので、わたしの。わ・た・し・の」
独占欲の塊すぎる。
「……はあ。えっと、千尋? 週末でちゃんとこの子の調教しときなさいよ?」
「い、いや、そうは言われても……?」
「私の手には負えないわ。てかめんどい」
めんどい気持ちは分かるけど、環奈以外に頼れる人物がいないというのもまた事実でして……。
「じゃ、そういうことでまた来週ね。バイバイ」
「あ……う、うん。部活頑張って」
「ええ」
しかし思い届かず、荷物を持って教室からスタスタと立ち去って行ってしまう環奈。
手を振って見届けようとした俺──だが、させないとばかりに智香ちゃんの片手がそれを制する。
「と、智香ちゃん? その、これは一体?」
俺が訊くと、智香ちゃんは頬をプクーッと膨らませて何やらお気に召していない様子。
「あの人じゃなくて、わたし見て?」
…………。
「いつも、ちゃんと見てるよ?」
「足りないよぉ。もっとわたしのこと見て〜」
「……」
ぎゅうぎゅう体を押し付けながら、とろんとした瞳と甘々な撫で声でやけに誘惑してくる。
「おにいちゃあ〜ん♡」
「……」
俺は、とにかく理性を保つのに必死だった。
……超重度のブラコンと化した智香ちゃんは、今や誰の手にも負えない校内屈指の問題児である。
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