第2話 わたしの方が
空は薄暗く分厚い雲に覆われていて、いつ大雨が降り出してきてもおかしくはない。
校内ではそれを危惧して大半の生徒が多人数でグループを作り、教室や学食等で話に花を咲かせている。
けれど、一人きりで居たかったわたしはお昼休みに入るとすぐに教室を抜け出してきて、人目を避けるように昇降口から外へと足先を向けていた。
向かうところは誰も寄り付いてこないような、腰を据えて目立つことなく居られる環境。
何も考えず、ただ無関心に虚空だけを眺め続けていられるような……そんな居場所。
「……」
とりとめのないまま最終的に行き着いたのは、校内の外れに位置する体育館──その裏手だった。
陽が射しにくいヒッソリとした雰囲気が漂うこの場所に、お昼休みの間は特に人の気配は感じられない。
加えて今日は雨模様。それなのにわざわざここまで足を運んでお昼を過ごそうとする人は、相当な理由がなければこんなわたしだけだと思う。
……日常的にクラスの友達、最近だと宮内先輩たちと賑やかな昼食を摂っていた影響もあってか、一人でいることに少しだけ物寂しさを覚えてしまうけど。
でも、それ以上に今のわたしは、誰からも干渉されずに気負いしない、現実から隔離されたようなこの静寂な一帯に溶け合わさっていたいと望んでいた。
「……」
屋根がある壁沿いに腰を下ろして曇り空を見上げると、ポツポツと小さな雨粒が落ち始める。
足元のコンクリートが点々と濡れていき、湿気を含んだ微弱な横風がわたしの前髪をそよそよと揺らす。
「……何してるんだろ、わたし……」
膝上でお弁当箱を開きながら独り言を呟くわたし。
降り始めに生じる、アスファルトから香るような雨特有の匂い。
この匂いが嫌いだと言う人は多いけれど、わたしはそこまで不快だとは思わない。
雨の日らしい、じめっとした空気がもたらす心地良さ。自然と、不安定に揺らいでいた心も一点に留まって全身の力が
息遣いを整えて、気を楽にして。
お箸を手に持ったわたしはおかずを摘んで、静かに口に含む。
「……」
無気力に黙々と食べ進めていくうちに、脳内ではこれまでの色んな出来事や光景が思い起こされていた。
入学式当日。体育館内で全校生徒の前に立って、緊張しながらも前を向き続けた、新入生代表の挨拶。
クラスのみんなに囲まれながら消極的に、オドオドと身を竦ませながら過ごしていた四月。
咲いていた桜が散って、だけど同時に校内の環境にも順応し始めた五月。
自習を欠かさずに続けて成果を出した、中間試験。
そして、中間試験を終えたその日のあとには……。
『──だ、だとしても、そうやって嗅ぎにくるもんじゃないって』
「……お兄さん」
『──ありがと。智香ちゃんは本当にいい子だね』
「……おにぃ、さん」
『じゃあ、また明日ね。お休み』
「──……ッ」
身体の内からきゅううっと縮まるような切なさを感じて、わたしは膝上の弁当箱を下に置くと、ぎゅっと強く膝を抱え込む。
運動後の首筋と服に染みついた、お兄さんの汗の香り。
わたしの頭を優しく撫でてくれる、お兄さんのおおらかな手の平。
心の中全てを満たしてくれるようなゆったりとした声色と、笑顔。
あの日、お兄さんと並んで歩いた夜空の下でのひと時を思い出しただけで、体の奥底から込み上げてくる熱が全身に駆け巡っていって、はち切れそうになる。
……お兄さんは、いつだってわたしのことを大事に丁寧に気遣ってくれる。
他の人では絶対に務まらない、代わりなんているはずのない唯一無二の人。
お兄さんの隣に立って甘えられたい一心で、自信を持って胸を張れるくらいに自分を磨こうって、そんな目指すべき目標をわたしにくれた大切な人。
わたしの──わたしにとっての、生きる意味そのもの。
もしお兄さんがいなくなったら、わたしは……。
『──環奈って可愛いし』
「……やだ」
……そんなお兄さんが、他の女の子と。
『名前で呼び合うことになってさ、あはは』
「……やだぁ」
少し、仲良くしてるだけで。
『ごめん。ちょっと俺、長田さんのこと見てくるよ』
「……いっちゃ、やだぁ……」
こんなにも、胸が締め付けられて。
「わたしの……わたしの、おにいちゃんなのに……」
目元がじんわりと潤んで、僅かに声が震える。
想像したくないのに、どうしても脳裏をよぎってしまう未来の光景。
「わたしのほうが……おにいちゃんのこと、いっぱいしってるのに……」
一年間、努力を重ね続けて手に入れたわたしの居場所を、想いを。
──お願いだから、見放さないで。
そっちばっかり見ないで。
笑わないで。
どこにも行かないで。
……わたしにも、もっと、
「……わたしのほうが、かわいいもん……」
──雨脚が強くなり、地に打ちつけて流れ落ちていく音がわたしの声をかき消していく。
わたしはその場でうずくまったまま、一歩も動かずにすすり泣き続けていて。
予鈴が鳴るまでの間、一人きりで塞ぎ込んでいた。
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