第3話 地雨、孤独の中で

 ……窓の外では、無駄な雑音をかき消すように雨が変わりなく降り続けていて、


 同時に時間の感覚まで消されていくかのようで、わたしという存在そのものがここにいるのかさえ分からなくなっていく。


 無力な気持ちに呑まれながら、枯れた木の葉のように心は小さく萎みきって。


 目の前の焦点がボンヤリと合わないまま、無気力に帰り支度を整える。


「……」


 ざわめき立つ放課後の教室。


 わたしはゆっくり席を立つと、誰かに導かれるように窓側へと歩み寄っていた。


 グラウンド上には大きな水たまりができている。


 いくつもの波紋を作りながら、それは広域に渡ってとめどなく浸食していって。


 そんな光景にわたしの意識は引き込まれていき、次第に難しいことも考えなくなって、その場で意味もなく立ち尽くす。


 このまま、何もかも過ぎ去ってしまえばいいのに。


 これまでの記憶を全て忘れて、ずっと──


「智香っ!」


 ──背後からの声に、わたしは振り返る。


「……沙織ちゃん」


 すぐ目の前に立っていた沙織ちゃんは少し言い淀んだ後、絞り出したように笑みを浮かべていた。


「その、よく分からないけど……さ。明日はちゃんと元気出して、学校来なよ?」


 ……わたしは、それに対して、


「……うん」


 としか、返せなかった。




 傘をさして、雨が降りしきる河川敷の土手沿いを一人きりで歩くわたし。


 誰もいない、一直線に続く道。


 地面に張った水を静かに踏みしめていきながら、前へ前へと進んでいく。


 ここに来るまでの間、誰とも顔を合わせないまま空っぽになった心持ちで、冷めきった感情で家までの帰路を辿っていた。


 結局、お兄さんとも今日は校内で一度も顔を合わせていない。


 きっとわたしのこと、心配してくれてるよね。


 宮内先輩にも、LINEで既読無視しちゃったし。


 ちゃんと、謝らないと……。


「……」


 ──道の途中。不意にわたしは立ち止まって、雨によって水位が増した河川に目線を移す。


 泥色に濁った水流が強く波打っている。


 あの中で人が立ったら、間違いなく足を取られて流されていっちゃうんだろうな。


 ……だなんて、変なことを考えるわたし。


 けど、何となくもう少しだけ、眺めていたくなる。


「……」


 家に向かっていた足先の向きを変えて、わたしは土手の芝生に腰を下ろしていた。


「……っ、つめたい……」


 水気を含んだ芝の感触がスカート越しから伝わってくる。


 パンツも少し、濡れちゃったかな。


 でも、慣れてくると程よくひんやりしていて悪くはないかも。


 傍らにスクールバッグを置いて、わたしは座ったまま傘の下でしばらくの間、雨天の河川を眺め続ける。


 ……そして、



「──……ばかだよね、わたし」



 そう、独り言を漏らす。


「……お兄さんにも優先したい時間があって、わたしにばっかり構えないのは普通で、当たり前なのに」


 一歳年上のお兄さんはわたしとは違う学年で、同い歳の友達と仲良くしたいと思うのは当然のことで。


「お家に帰れば、お兄さんとならいつでも会えて、笑って、話せるのに……」


 ……当然だって、分かってはいるけど。


「近くに、いられるはずなのに……」


 膝に顔を埋めて、両目からは再び涙が滲み出る。


「……なのに、どうしてこんなに、辛く感じちゃうんだろ……ッ?」


 ……離れていく。


 わたしの隣から、先の見えない向こう側へと。


 お兄さんに似た、わたしの知らないお兄さんがそこにいるかのようで、怖い。


 お兄さんが、わたしのお兄さんじゃなくなってしまうみたいで……嫌だ。


「…………わがまますぎるよ、わたし」


 傘の円からはみ出た足回りが、雨で濡れていく。


 濡れた膝下を伝っていって、滴る雫に体温が奪われていくかのようで、寒気を感じる。


 靴下と靴に水が染み込んで、冷たい。


 頭の中が真っ白に染まっていって、なにも考えられなくなる……。


「わたしは、いい子でいなくちゃ……」


 フッと傘を閉じて、柄を手放して。


「お兄さんの迷惑にならないように、わたし……」


 ──全身から力が抜け落ちて、わたしは芝生の上で横に倒れ込む。


 降り止まない雨が無防備に晒された体にサアッと打ちつけて、全身が雨水に侵されていく。


 けれど、こうしてると気持ちいいなぁ……て。


 身体に溜まった色んなものが洗い流されていくような感覚に、わたしはそっと目を閉じていた。


(……しばらく、このまま)


 ……この感覚に、身を委ねていたい。


(冷静に、ならないと……)


 ウトウトと心地いい眠気に誘われていき、少しずつ意識が遠のいていく。


(……お兄さんに、ごめんなさいしなきゃ……)


 胸の内に残った僅かな温もりの中で、お兄さんへの思いを密かに募らせながら……。


(わた、し……)




「──……智香ちゃんッ!」


(……?)


 ……どれくらい、時間が経っただろう。


 わたしの名前が聞こえた気がする。


 ……気のせい、かな。


「──……美乃里、これ持っててっ!」


 ……気のせいじゃ、ない?


「──……智香ちゃんっ! 智香ちゃんッ!」


 ……誰かが呼んでる?


 すごく、聞き覚えがあるような──



「智香ちゃんッ!!」



「ッ!」


 わたしは思わずビクッとして、目を開けていた。


 ……雨が止んでる?


 ……いや、違う。


 傘の下にいるんだ、わたし。


 でも、どうして?


 わたしの傘は、そこに置いてあるはずで……。


「……ッ。よ、良かった……意識があって……ッ」


 ──あ……。


 そこには、お兄さんがいた。


「……お兄、さん?」


 わたしの肩を片手で優しく抱きかかえながら、安堵しきった表情でお兄さんが覗き込んでいた。


 濡れた制服越しからお兄さんの温かい体温を感じられて、少しだけ胸がトクンと高鳴る。


「智香ちゃん、大丈夫っ!?」


「……あ……え、と……」


 突然のことに、うまく言葉が出てこない。


 お兄さんがすぐ目の前にいる。


 わたしのことだけを見て、心配してくれてる。


 何か、言わないと。


 なんでもいいから、何か。


 わたしが口を開こうとした時、


「……こんなにずぶ濡れになって……なにしてんの」


「……え」


 ──語気を強めて、お兄さんは真剣な目でわたしを見据えていた。


「今日、LINEで全然反応くれなかったし、お昼にも放課後にも智香ちゃん教室にいなかったし……すごく、すごく心配したんだよ?」


「……あ、う」


 わたしの肩を抱く手が、ギュッと強く握られる。


 もしかして、怒ってる?


「心配しながら帰ってたら、こんな場所で傘もささずに智香ちゃんが倒れてて……息が止まるかと思った」


「……そ、の」


 ……ど、どうしよう。わたし、そんなつもりじゃ、


「でも、バッグと傘がそこに並んで置いてあるってことは、智香ちゃん自らがこうしたってことだよね?」


「ご、ごめん、なさ」


 ちゃんと、ちゃんと謝らないと、


「それに、この前の土曜日からさ、智香ちゃん変だよね? 俺のこと、絶対に避けてるよね?」


「それは、その」


 違う、違うの。


 わたし、そういう意味で避けてたわけじゃ、


「……なんで、そんなことするの?」


「──……ッ」


 …………やだ。


 お兄さんに、嫌われちゃう。


 雨の日にこんなことをして、変な子だって、バカな子だって、気持ち悪い子だって思われちゃう。


 平気で人を無視するような、薄情な女なんだって見られちゃう。


 今まで努力を積み重ねて頑張ってきたことが、全部無駄になっちゃう。


 またさらに、お兄さんが離れていっちゃう。


 わたしに愛想を尽かして、わたしより綺麗で可愛い長田先輩の元に行っちゃう……。


 ……やだ。


 そんなの、やだぁ……。


 やだよぉ……!


「…………ごめん、なさい」


「……え?」


 頭の中も、目の前の光景も、何もかもが真っ白に塗りつぶされて。


 それでも、間違いなくそこにいるはずのお兄さんに向けて、わたしは懇願するように口を開いていた。


「き、きらいに、きらいに、ならないでください……わたしを、おいてかないでくださぃ……ちが、う、ちがうんです」


「あ、え、えっと……?」


「わ、わたしは、おにいちゃんが、おにいちゃんがだいすきなんです、ほんとうに、だいすきなんです、ほんとうなんです」


「と……とりあえず、落ち着いて、落ち着いて?」


 ボロボロと涙を零しながら、わたしは訴えかける。


 本心だけはちゃんと伝えたくて、どうしても嫌われたくなくて。


 わたしを支えてくれるこの手が離れていかないように、嗚咽の入り交じった声で必死に。


「おにいちゃんがいないと、わたしはダメなんです、だめだめなおんなのこなんです、だから、だからぁ」


「わ、分かった、分かったから」


「ご、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさいッ……!」


「お、俺もごめん、ちょっと強く言いすぎて……だから、泣かないで。大丈夫、大丈夫だから」


(──……あ……)


 ──泣きじゃくるわたしのことを、お兄さんは両手でぎゅうっと抱き寄せてくれた。


 お兄さんの胸元にわたしの顔が埋まって、たくましい胸板の感触と男の子のいい香りがする。


 とても温かくて、ホッとする。


 すごく、気持ちいい……。


「とりあえず、お家に帰ろう? そんなに濡れてたら風邪引いちゃうしさ、お風呂に入って温まろう?」


「……ッ」


「大丈夫。俺はどこにも行かないから」


「……おにいちゃん……」


 ……ああ。


 やっぱり、すき。


 おにいちゃんが、だいすき。


 だいすきがいっぱいあふれて、止まらない。


「お、お兄……その、智香、大丈夫……?」


「う、うん、なんとか。とりあえず、その……智香ちゃん濡れちゃってるからさ、タオルとか持ってる?」


「も、持ってるっ。今すぐ出すねっ」


「ありがと」


 おにいちゃんのすべてが……すき。


 何もかも、ぜんぶ、


 だいすき。


 ──……でも、なんだろう。


 おにいちゃんが『好き』とは、また別の、


 なにか、違うような……この気持ち。


 頬がじんわり火照っていくかのようで、少し恥ずかしさも入り交じっているようで。


 だけど、それでもおにいちゃんの顔からは、どうしても目が離せなくて。


 ……ドキドキ、する。

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