第8話 また、あした

「じゃあね、また来週」


「うん。また、来週」


 バス停の前でバスの扉が開くと、立ち上がった環奈は控えめに手を振りながらそう言い残して、ゆっくりと降車した。


 座席に一人残された俺は、未だ肩に残る温かさを意識しながらボウッと見上げ、しばらくしてから力を抜くように窓の外へと目線を移す。


 それと同時にバスが動き出すと、外を歩く環奈が俺を見つめて、再び手をフリフリと振ってくれていた。


 ──別れに名残惜しさを感じた俺は思わず、


「……可愛いなぁ」


 と、無意識に呟く。


「……」


 一気に遠くまで離されて見えなくなる環奈の姿。


 ……なんか、変な感じがするな。


 こう、妙にこそばゆいというか。


「……ふう。美乃里、大丈夫かな」


 まあ、じきに収まるだろう。


 頭を横に振って気持ちを振り払い、息をつく。


 それにしても、予定していたよりもかなり遅い時間帯になってしまった。


 ……美乃里は今頃、首を長くして俺の帰りを待ってるんだろうな。


 それに、ひまりちゃんの様子も気にかかる。休日は大抵いつも俺の傍にやって来て甘えてくるし……帰ったらちゃんと顔を見せておこう。


 智香ちゃんは、読書でもしていただろうか。紗彩ちゃんはいつも通りゲームで遊んでるんだろうけど。


 まあ、なんにせよ、


「……」


 あと二つ先の最寄りのバス停に到着するまでの間、俺は車が行き交う窓の外を無気力に眺め続けていた。




「すっかり暗くなったなぁ……」


 それから滞りなくバスを降りて、よく見慣れた住宅地の路地まで歩いて戻ってきた俺。


 慣れない移動を多くしたせいか、この時点で普段よりも強い眠気が俺に襲い来る。何度も何度も欠伸をしては、目に溜まった涙を手で拭い取るの繰り返しだ。


「ふあ⋯⋯帰ったら少し寝ようかな⋯⋯」


 約三十分程度。それが仮眠をするのに最適な時間であるのだと前にネットで見かけた。


 ああ、そういえば今日の夕飯はなんだろう。昨日はカレーライスだったから、今日はベースを変えて麺類だったりするかな。麺ならラーメンでもうどんでもパスタでも、何でも大好物である。


 暗くなった道を歩きながらそう考えていると、


「……ん?」


 ──目線の先。ようやくして視界に捉えた我が家の門の前で、誰かが一人ポツンと佇んでいる。


 遠目からだとよく分からないため徐々に近づいていくと、次第にハッキリと浮かび上がってきた正体に俺は驚いた。


(⋯⋯智香ちゃん?)


 間違いなく、智香ちゃんの姿だった。


 今の時間帯なら我が家に足を運ぶのはさほど不思議ではないが⋯⋯なんであの場所に立ってるんだ?


 それに見たところ、家内で着るような薄着一枚で肌寒そうだ。アレだといくら五月末とはいえ、長く外にいると風邪をひいてしまうかもしれない。


 そう危惧した俺は急いで駆け出し、智香ちゃんの元まで向かった。


「──智香ちゃんっ!」


「……あっ。⋯⋯お兄、さん」


 大きく名前を呼ぶと、ピクンッと反応した智香ちゃんは華やいだ表情で俺を見た。


 辿り着いた俺はふうっとして息を吐くと、健気に見つめてくれる智香ちゃんに対して声をかける。


「ただいま。ちょっと遅くなっちゃった」


「お、お帰りなさいです。美乃里ちゃんから聞きました、街の方まで私を置いて出て行っちゃったって。すごく落ち込んでましたよ、美乃里ちゃん」


「そ、そっか……あはは」


 まあ、分かりきっていたことではあるけども。家に入ったら真っ先に飛びつかれそうだ、構えておこう。


 それはさておき、


「えっと、それで智香ちゃんはどうしてここに? そんな薄着で外にいたら風邪引いちゃうよ?」


 俺が言うと、智香ちゃんは気恥ずかしそうに下を向いた。


「⋯⋯その⋯⋯ちょっと、暑くて」


「あ、暑い?」


「は、はい。なので、外で少し涼もうかなって」


「⋯⋯そ、そうなんだ?」


「⋯⋯はい」


 ⋯⋯智香ちゃんがそう言うならそうなんだろう。俺は少し肌寒いくらいだけど。


「クラスの方と、遊びに行っていたんですよね?」


「あ、うん。それも美乃里から聞いたんだ?」


「は、はい。⋯⋯ごめんなさい」


「だ、大丈夫大丈夫、気にしないで?」


「⋯⋯」


 頭を下げてくる智香ちゃんに俺は声をかけつつ、特に隠すことでもないから今日のことを簡潔に明かすことにした。


「長田さんって分かる? ほら、俺と同じクラスの」


「──⋯⋯」


「あの子とちょっと、というか、まあけっこう色んな場所を見て回った感じかな。楽しかったよ」


 ファミレスに、ショッピングセンターに、ゲームセンターに⋯⋯他にも街全体を通して転々と。


 思い返せば思い返すほど楽しいことでいっぱいだったな。今日一日を通じて仲も相当深まったし、来週からの登校が若干楽しみにまでなってきている。


 環奈も今頃は家に着いて身体を休めていることだろうし、あとで少しLINEでメッセージを入れておこうかな。『今日はありがとう』的な感じで。


「でも、女の子と二人で遊ぶっていうのは初めてだったから、最初は緊張したなー。環奈って可愛いし」


「……かん、な?」


「あ、ああ。長田さんの名前だよ、長田環奈。今日一日でかなり仲良くなったから名前で呼び合うことになってさ、あはは」


 ⋯⋯クラスの中で環奈って名前呼びだと、けっこう周りから注目されそうだよな⋯⋯うん、クラスでは名字で呼び合った方が賢明かもしれない。これもLINEで環奈と相談してみよう。


 あくまでも俺は、環奈の恋愛相談役という立場で親しくしているわけだし。変な噂でも立てられたりしたら迷惑になるだろうしな……。


 程よい距離感を保って接していこう。これまで通りの平常心を忘れずに、いちクラスメイトとして。


「⋯⋯智香ちゃん?」


 ふと見ると、智香ちゃんは再び下を向いていた。


 俺の呼びかけに珍しく反応を示さず、胸元でギュッと押さえつけるように片手を握っている。


 ⋯⋯どうしたんだろう?


 心配になって俺から一歩近付こうとすると、


「──⋯⋯え」


 同時に、智香ちゃんは後ろに一歩引いた。


「⋯⋯可愛らしい、お名前ですよね、環奈だなんて」


「あ⋯⋯う、うん。そう、だね?」


 抑揚のない声色に戸惑いながらも返事をすると、智香ちゃんがソッと顔を上げる。


 ──表情から笑顔が消えていた。


「お二人で、ということは⋯⋯デート、ですよね」


 遠いものを見るような虚ろな瞳で、


「一緒に、街中を」


 肩を竦ませて、


「見て、回って」


 何かを、不安がっているかのような……。


「二人だけの、楽しい思い出⋯⋯」


「⋯⋯え⋯⋯と?」


 普段の可憐で温厚な智香ちゃんからとは到底思えないような、シン⋯⋯と冷えきった空気。


 こうなった原因が分からない俺にはどうすることもできず、智香ちゃんからの反応を待つしかなくて。


 しかし、智香ちゃんはそれ以降、また下を向いて口を閉ざしたまま動かなくなってしまう。


 数秒、十数秒、一分と。


 刻々とした静寂に呑まれていき、お互いに立ち尽くしたままの状態が続く。


(な、なんだ、これ……?)


 内心めちゃくちゃ動揺している俺。当然である。


 ここは俺から一言、何か明るい話題でも提供して場を和ませるベきだろうか。でないとこれはあまりにも耐え難い気まずい空間だった。


 明るい話題──ああ、それこそ今日の夕飯の話題でも出せば、


「お兄さん」


「は、はいッ!?」


 ⋯⋯突如、言葉を発した智香ちゃんは危うげな瞳で俺を見据えて、微笑んだ。


「わたし、今日はもう、お部屋に戻りますね」


「え」


「ちょっと、疲れちゃったので⋯⋯その、おやすみなさい。また、あした」


「あ⋯⋯う、うん。お、おやすみ⋯⋯?」


「⋯⋯」


 ──結局、最後までよく分からないまま。


 智香ちゃんはそのまま一度も振り返らずに相川宅の門を開くと、カチャンと閉じて姿を消していく。


「⋯⋯⋯⋯?」


 取り残された俺は呆気に取られて、何もできずにしばらくその場で立ち尽くしたままで。


 ひんやりとした風が、頬を掠めていった。

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