第5話 忘れられない温もり

「じゃあ、また明日ね。お休み」


「……はい。お休みなさい」


 ──……お兄さんの背中が、遠のいていく。


 夢のような二人きりの時間は忽然こつぜんと幕切れて、未だにトクントクンと収まらない胸の内を両手でキュッと抱えながら、お兄さんの姿が見えなくなる最後の一瞬までその場から動かずに見送り続けるわたし。


 本当は、まだこの時間が終わってほしくない。


 でも、お兄さんにこれ以上の迷惑はかけられない。


 ……だけど、できることならやっぱり、あともう少しだけ一緒にいられたら……なんて。


 そんな、自分本位な本音を懸命に呑み込みながら、最後に振り返ったお兄さんがわたしに手を振ってくれた後、扉の向こうへと消えて行ったその瞬間──わたしはあの出来事を思い返していた。


(……わたしの頭、撫でてくれた……)


 これまでにもお兄さんから頭を撫でられたことは何度かあった。……だとしても、何度撫でられても慣れる気はしないし、今だってすごくドキドキしている。


 わたしのことを丁寧に気遣って守ってくれる、お兄さんの大きくてしなやかな手の感触。


 この身の全てを委ねて甘えたくなってしまうようなあの包容力が、いつまで経っても忘れられない。


(もっと、いっぱい、いっぱい……お兄さんに、なでなでされたい……わたしを、触ってほしい……)


『智香ちゃんは本当にいい子だね』


 ……いい子なんかじゃ、ない。


 本当のわたしは、こんなにも甘えたがりで欲求不満な、ワガママな女の子。


 お兄さんの前に立っているから、背伸びをしてそう見せているだけのダメダメな女の子。


 褒められたくて、見栄を張りたくて、ただお兄さんの理想で在ろうとしているだけの──悪い子だ。


「……こんな、イケない女の子なんだと知っても、お兄さんはわたしを褒めて、笑ってくれますか……?」


 その問いに、誰も答えてはくれない。


 淡い光に包まれているお兄さんのお家を羨ましく思いながら、抑えのきかないこの感情をどうにか晴らしたいわたしはその場から駆け出すと、紗彩とひまりが待つ玄関の扉を勢いよく開いていた。


 玄関前に置かれた四足の靴。どうやらお母さんとお父さんもお仕事を終わらせて帰宅しているみたいだ。


「──あ、お帰りお姉ちゃん。なんかやけに遅かったね? すぐに帰ってくるって言ってたのに」


「智香おねーちゃんおそーい!」


 リビングに出ると、そこではいつものようにくつろいでいる紗彩とひまり、そしてちょうど上のスーツを脱ごうとしていたお母さんとお父さんの姿があった。


 一家全員が揃った暖かな空間。……だけど、わたしの心には熱を失くした寂しさが渦を巻いたままで、この思いをどう鎮めるべきなのか分からなくて……。


 わたしは立ち尽くしたまま、二人からの声かけに反応できずにいた。


 そんな時、


「お帰り、智香。……あまり夜遅くまで外に出るのは危ないから、今後は控えるようにね。自分勝手に行動しないこと。紗彩とひまりにもそう言ってあるから」


「……ご、ごめんなさい」


 お母さんから注意されたわたしは素直に頭を下げると、その後ろから「まあまあ」と言いながら間に入ってきたのはお父さんだった。


「無事に帰ってきたわけだし、これから気を付けてくれたらそれでいいよ。お帰り、智香」


「お父さん……た、ただいま。お父さんも、お帰りなさい。今日も遅かったね?」


「ああ、業務で少しトラブルが起きちゃってね……申し訳ない」


「そ、そうなんだ。ううん、いつもわたしたちのために頑張ってくれてありがとう。ゆっくり休んでね」


 毎日お仕事を頑張ってくれるお母さんとお父さんのおかげで、わたしたち三姉妹は生活面で不便することなく過ごせている。だから、感謝するのは当たり前。


 すると、お父さんは表情を和らげて笑ってくれた。


「あはは、ありがとなぁ。智香は良く出来た子だ」


(……ッ!)


 ──そう褒めるお父さんの姿が、あの時褒めてくれたお兄さんの姿と一致して重なってしまう。


 思えば、お父さんとお兄さんは似ている気がする。


 顔は全く違うけど、なんというか……話している時の穏やかな声色とか、柔らかな雰囲気、とか。


 お兄さんも、将来はこんなお父さんみたいな優しい男性へと歳を重ねていくのかな。


 もし、だとしたら……。


(……少し、だけ)


 その瞬間、ここまできゅううっと切なさを覚えていたわたしの思いの縫い目が綻んで、無意識に口を開いていた。


「……お父さん。甘えても、いい?」


「……へ?」


 自然とお父さんの前まで歩み寄って行くと、わたしは前を向いて吐露する。


「その……わたしの頭、撫でてほしくて」


「な、なで……? と、智香、いきなり何を……?」


「……したく、ないの?」


「い、いやっ!? 決して別に、したくないわけじゃなくてねっ!? と、智香が急にそんなことを言い出すなんて珍しいと思って……ッ」


「……」


 その通りだから、どうすることもできないわたしはお父さんの目だけをじっと見つめて訴えかける。


「……え。あの、これは一体、どういう状況?」


「おとーさんの顔、まっかっかになってるよ?」


「ちょ、ちょっと待ちなさい智香? 何その甘ーい雰囲気……わ、私の裕二なのよ?」


 蚊帳の外になっているお母さんたちが色々声をかけてくるけど、わたしは無視してお父さんに集中する。


 自分でもおかしなことを言っている自覚はあるけれど、一度口に出してしまった思いはどうしても抑えることができなくて、このままでいると気が済まない。


 今、この場でお父さんがわたしの頭を撫でてくれないと、この後のわたしはきっと耐えきれなくなってお兄さんの元まで会いに行ってしまうと思う。


 でも、今のわたしが会いに向かうと抑えがきかないから……また、わたしのはしたない姿をお兄さんに見せてしまうことになるから、それだけは避けたくて。


 だから今は、お父さんがいい。


「……わ、分かった。頭を撫でればいいんだね?」


 ──わたしの気持ちが届いたのか、お父さんは困惑しながらも一度咳払いをした後、意を決したようにわたしに向き直ってくれた。


「うん。頭、撫でてくれる?」


「も、もちろん! 愛娘のためならそれくらいお易い御用っ!」


「ありがと」


「……じゃ、じゃあ、その」


「うん」


「な、撫でるよ?」


「……うん」


 ……そうして、少し間を置いたのちに、お父さんの片手がわたしの頭にポフッと触れた。


(……お兄さんとは違って、お父さんの手はやっぱりゴツゴツしてるなぁ……)


 たくましい、というか。


 お兄さんのような包容力はないけれど、お父さんの手の平には安心していられるような力強さを感じる。


 特別な感情が湧いたりはしないけど、それでも十分に満足がいく心地良さだった。


「い、痛くない?」


「……大丈夫。えへへ」


 こういうのも、悪くはないかも。


 不安そうに振る舞うお父さんの姿も見ていて新鮮だし、もうしばらくはこのままで……。


「い、いつまで続ければいいの?」


「わたしが、もういいよって言うまで」


「それはぁ、どれくらいかかるんだろう?」


「分かんないよ、そんなのぉ……」


 今はとにかくこの気分に浸っていたくて、わたしはゆっくり瞼を閉じて余計な視覚情報をシャットする。


 ……また、お兄さんと二人きりでお話がしたいな。


 誰からも邪魔されない静かな夜の道で、肩を寄せ合いながら星が煌めく夜空の下を一緒に歩いて、そして今度は……お兄さんの手がわたしの手をギュッと優しく握ってくれたりしたら、わたしも、握り返して。


 そうしたらもう、わたしとお兄さんはずっと夢見てきた本物の兄妹のような距離感で……。


 美乃里ちゃんには悪いかもしれないけど、わたしは心の底からお兄さんのことが大好きだから。


 ……あ、あくまでも、『お兄さん』としてだけど。


「むぅー……おとーさんっ、ひまりのこともなでなでしてっ!」


「あ、じゃあついでにあたしも労いの意を込めて、お父さんの後ろからガバッとハグしちゃおっかなー」


「……裕二。たまには夜の営みでもしましょうか?」


「なっ、ちょ、ちょっと待つんだお前たちっ!? そんな一斉に来られると対処しきれないから──!?」


 騒がしさが増していく中で、わたしは動じることなく明日に向けての期待をこの胸に抱く。


(早く、お兄さんの顔が見たいな……)


 脳裏に浮かぶお兄さんの笑顔を恋しく思いながら、わたしは再び両手をキュッと胸元で抱えていた。

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