第4話 あなたがいたから

「お、お疲れ様でした。……ゆ、ゆっくり息を整えてから、焦らずに水分補給してくださいね……?」


「……お、ふぅ……ぐぅ」


 気合いで何とか走り終えた後、帰り際にコンビニへ足を運んだ俺と智香ちゃんは店外でスポーツドリンクを口にしつつ、その場に留まって休憩を取っていた。


 従来の目的である肉まんとあんまん、いちごミルクも無事購入して手提げのコンビニ袋に収まり、今頃家では美乃里が不満げに俺を求めていることだろう。しかし、ここから家までまだ距離があるのでもうしばらく辛抱していてほしいところ。


 ……それに、今の俺は完全にダウンしてしまっていて、まともに足を動かせない。


 地に膝と手をつき、ガックシと項垂れるような形で何から何まで口から吐き出してしまいそうな勢いである。ギリギリ踏ん張って堪えてはいるけども。


「よ、よくもまあ、あれだけの距離をあんなハイペースで、そんな余裕そうに……うえっぷ」


「は、吐いちゃだめですよお兄さんっ!?」


「と、智香チャ……智香サン」


「さ、さん付けはちょっと、あの、違和感が……」


「そ、尊敬、しまス……」


「……っ、も、もぉ……お兄さんってば」


 何かを言いたげに困った様子ながらも、親切に俺の背中をさすってくれる手の平の感触が気持ちいい。


 こんな表情をした智香ちゃんはけっこう貴重かもしれない。ちゃんとこの目で記録しておきたいが、しかし重度の疲労困憊こんぱいで正気を保てずに屈してしまう俺。


 ……俺も、これから毎日の日課にランニングを加えるべきなのかもしれない。こんなんじゃ男としての面目が立たなすぎる。


「具合が落ち着いてきたら、ゆっくりお家に帰りましょう。……本当に、無理しなくても良かったのに」


「お、男に、二言はないッ、から……」


「──……お優しいんですね」


「や、優しいというか、義務……ッ」


「なんですかそれ。……ふふっ」


 どうしてか笑われてしまった。別に、そこまでおかしなことを言ったつもりはないのだが、けど笑ってくれたのならそれはそれで良しとしよう。


 ……にしても、汗が冷えて寒くなってきた。明日もいつもと変わらず学校があるし、体調を崩す前に早いとこシャワーで体を流さないとだ。


 ──そう思いながら少しずつコンディションを取り戻しつつあると、しばらく口を閉ざしていた智香ちゃんがふとしたタイミングで沈黙を破る。


「全身、汗でベトベトになっちゃってますね」


「……あ、うん。だからその、今俺けっこう汗臭いと思うから、あまり近寄らない方が……」


 自分では気付きづらいが、人が嗅ぐと天地がひっくり返るように臭かったりするのが体臭というもの。清潔感ある智香ちゃんに不快な思いはさせたくない。


 ──しかし、


「汗臭くなんてないですよ。……お兄さんらしい、すごくいい匂いがします」


 智香ちゃんはソッと俺に寄り添い、汗で滲むシャツの背中に小さな鼻を近づけてスンスンと嗅いでくる。


 少しでも俺から動けばコツンと接触してしまうほどに親密な距離感。開けたチャックの首元からは汗の混じった甘い香気がほのかに漂い、不覚にもドキッとした俺は気を紛らわせるためにわざとらしく笑った。


「い、いやいやっ、あはは。ほら、汗っていわゆるアンモニア臭だしさっ、俺のは汚いから」


「わたしはお兄さんの匂い、好きですよ?」


「……ッ。だ、だとしても、そうやって嗅ぎにくるもんじゃないって」


「あ──す、すみませんっ」


 俺との距離感にようやく意識してくれたのか、ササッと素早く後退した智香ちゃんは恥ずかしそうに頬に両手をつく。


「わ、わたしったら、ついはしたない姿を……」


「だ、大丈夫大丈夫。でも、好きって言ってくれてありがとね」


「す、好き……な、なんて大胆な発言をぉ……ッ」


「あ、あはは」


 ……無意識だったのだろうか?


 まあ、智香ちゃんのことだから本心で言ってくれたのには違いないし、素直に受け止めてはおくけども。


 それから少しして、半分までに体力を持ち直した俺は太ももにグッと力を入れて、重々しく立ち上がる。


「……ふう。よし、じゃあそろそろ帰ろっか」


「ぐ、具合はもう、大丈夫なんですか?」


「うん。まだちょっと気分は悪いけど、それでもだいぶ良くなった。心配かけちゃってごめんね、ホント頼りない男で」


 苦笑しながら言うと、直後に「た、頼りなくなんかないですっ」と、智香ちゃんが食い気味に反応した。


「わたし、いつもお兄さんには色々お世話になりっぱなしで、助けていただいていて……だからそのっ、わたしはお兄さんをすごく尊敬してますからっ!」


 ……ああ、可愛いなぁ。


 兄としての性というか、こういう懸命な姿を見てしまうとどうしても可愛がりたくなってくる。


「ありがと。智香ちゃんは本当にいい子だね」


「……あ……ぅ……」


 慕ってくれる智香ちゃんが愛おしく思えて、俺はつい美乃里と同じような感覚で智香ちゃんの頭をポンポンと優しく撫でる。


(……とはいえ、ほ、程々にしておこう)


 正直なところ、いつまでもこうしていたくなる滑らかで撫で心地のいい栗色の長髪。


 しかし、あまり長く触りすぎていても智香ちゃんが迷惑するだけだろうし、キリのいいところで俺は撫でていた手を名残惜しくもパッと離す。


 その一瞬、切なそうに声を漏らした智香ちゃんにグイッと心を持っていかれそうになる──が。それでも衝動を押し殺した俺は、智香ちゃんにとっての在るべき『お兄さん』としての務めを遂行する。


「夜道は危ないから、俺の傍からあまり離れないようにね。手、繋ぐ?」


「い、いえっ。……その、大丈夫、です」


「ん、了解。じゃあ、行こっか?」


「……は、い」


 小さく返事をした智香ちゃんは控えめな動作で俺の隣に身を置くと、そのシンミリとした雰囲気に心地良く思いながら家までの帰路を二人で辿っていく。


 ──気が付けば大通りを行き交っていた乗用車は数を減らし、歩行者の姿も見渡す限りではほぼ見当たらない。住宅地に近づくにつれて気配も静まり、路地に入ると聞こえてくるのは二人分の足音だけ。


 二人きりでいた数分の間は特に話すこともなく、ふと夜空を見上げると、そこには幾つもの星が点々と煌めいていた。星の名前にはあまり詳しくないが、こうして見る分には心の癒しとして悪くはない。


 ……たまには、こういう過ごし方もアリだな。


 家ではいつも美乃里や相川家の三姉妹たちと騒がしくしていたし、この合間で一旦気待ちを落ち着かせることで自律神経を整える良い機会にもなるだろう。


 隣を歩く智香ちゃんの面持ちも穏やかで、どことなく嬉しそうだし。


「……智香ちゃんさ、この地域にはもう慣れた?」


 家まであと僅かとなった距離で、最後に何か話しておこうと俺から智香ちゃんに声をかけると、振り向いた智香ちゃんは俺を見据えてふわりと微笑む。


「はい、おかげさまで。初めの頃は不安ばかりが多く募ってしまって大変でしたけど……それでも、お兄さんが傍にいてくれたので」


「え。いや、俺なんて別に、そんな大したことは」


「いえ、お兄さんが傍にいてくれたからこそ、今のわたしがここに在るんです。……もし、お兄さんが傍にいなかったら、きっとわたしは今よりもっと内気なままでいて、この地域に馴染めずにいたと思うので」


「そ、そこまで言うほど?」


「はい」


 迷わずに頷く智香ちゃんは続けて口を開く。


「お兄さんはいつも、お日さまみたいに温かな心でわたしたちと優しく接してくれますよね。わたしも、紗彩も、ひまりも……その笑顔に救われているんです」


「……」


「引っ越してきたばかりで土地勘のない余所者のわたしたちを快く歓迎してくれて、毎日顔を合わせる度にいつもわたしたちの様子を気にかけてくれて──本当に、心の支えになっていました。感謝してもしきれないほどに頼もしくて、頼ってばかりで」


「俺は……人として当たり前なことをしていただけだよ。生活環境が大きく変わったら初めは誰だって緊張するし、誰かに頼りたくなるものだから」


「……その、『当たり前』だと思えるところが、お兄さんの素敵な魅力なんですよ?」


「そ、そうなの?」


「はい、そうなんです」


 ……そう、なのか?


 当たり前だと思うことは当たり前に努めるだけだと俺は思うのだが、智香ちゃんにとってはそれが俺に対する好感へと繋がっているらしい。


「なので、ありがとうございます。お兄さんがわたしたちのご近所さんでいてくれて、わたしはとっても幸せです。これからもご迷惑をおかけするとは思いますけど、どうか変わらず仲良くしていただけると……」


 自信なさげに声を潜める智香ちゃんに、俺からも素直な気持ちを言葉にして返す。


「うん、もちろん。俺もね、智香ちゃんたちと出会ってから毎日が充実してるんだ。家に帰るといつもみんなが待っていてくれて、平凡だったこの俺に俺だけの居場所が出来たような気がしてさ……すごい、幸せ」


「……お兄、さん」


 それまでの日々に、特別不満があったわけではない。


 友達にはそこそこ恵まれていたし、家では美乃里が俺に甘えてばかりで可愛くて、母さんと父さんも俺を大事に育ててくれて──そうして俺は、ここまで大事に至ることなく健康的にすくすくと成長してきた。


 ただ、それでも物足りなさを感じて、自分の中で満たされていない何かを抱いていたのは事実で……その何かが分からないまま何となく過ごしていた時、目の前に現れたのが智香ちゃんたち三姉妹だった。


 ……その日から、凡庸ぼんように映っていた俺の日常は花開くように色づいた。


 何気ない時間、場所、タイミングで関わるようになった相川家の三姉妹。初めはよそよそしさもあったけど、次第に少しずつ笑顔が増えていき、今となっては両家ともに入り浸って毎日を助け合うような関係性。


 俺を信頼して、プライベートな一面をさらけ出すようになった年下の三姉妹は美乃里みたいに可愛い実の妹のようで、どこまでも無邪気で微笑ましくて。


 物足りなかった部分を智香ちゃんたちが補うように穴埋めしてくれて、じんわりと胸に残るこの温かさが俺の心をより豊かに拡げてくれた。


 物足りない何か──それはきっと、普通の友達からは得られないこういう感受性だったんじゃないかと今では思う。


 智香ちゃんたちと出会ってから、気付かされることがいっぱいだ。


「だから、俺からも言わせてもらうね。どうかこれからも、こんな俺ではあるけど、今まで通り変わらず仲良くしてくれたら……嬉しいかなって」


「──ッ、は、はいっ。もちろん、ですっ」


「……良かった、ありがと」


「……っ」


 ……なんか、顔が熱くなってきた。


 けどこれは、風邪とかそういう類のものではない良い意味での熱さ。夢心地のような、ぼんやりと定まらない浮かされた気持ち。


 いつまでも浸っていたくなる、心の昂り。


「何だかすごく、体が温まってきました」


「うん、俺も」


「……同じ、なんですね」


「同じ、だね」


「……えへへ」


「……はは」


 すぐ目線の先でお互いの家を捉えながら、俺たちは照れくさそうに、静かに笑い合っていた。

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