第2話 中間試験後のご褒美
試験明けの午後は用もないので家でのんびりくつろぎ倒し、穏やかに流れる時計の針が指し示す夕食後の早海家では、お風呂上がりでホカホカな美乃里が上機嫌に俺の元まですりすりと身を寄せてきていた。
「──……うぅー……お兄の温もりぃ、なんだかすごい久しぶりに感じるよぉー……」
「……最近は勉強ばっかりであまり構ってあげられなかったしね。何かしてほしいこととかある?」
「いっぱいあるけどとりあえず甘えさせてぇ〜」
「だろうと思った」
「えへへぇ」
今日は珍しく相川家の三姉妹が早海家に訪れてこなかったため、目を輝かせていた美乃里を俺の部屋に引き込んで兄妹水入らずでの憩いのひと時。
ハグを求める美乃里に従って行き過ぎない程度に触れ合いながら、ベッドを背もたれに心地良い柔らかさと体の重みでウトウト眠りに誘われつつある意識。
このまま美乃里を被せたまま寝てしまいたい。多分美乃里もその提案に百パーセント乗ってくれるだろうし、お互いにとってウィンウィンではなかろうか。
⋯⋯いや、自分で言っておきながらキモすぎでは?
「もうすぐで五月も終わるなぁー……」
「ね。これから暑くなってくるの、ヤだね」
「うん。あ、毎年言ってるけど、美乃里は身体弱いんだから、体調には常にしっかりと気を配って自己管理すること。辛くなってきたら無理せず休むように」
「んー」
「もし困ったことがあったら、いつでもお兄ちゃんを頼ってくれていいからね」
「ん〜!」
「あ、こらっ、どこ触ってんのっ!」
「おにぃの身体は私のものぉ〜」
「ちょ、そこはやめてっ、わき腹弱いからっ!」
「うへへへへ」
ヤラしい手つきで俺の体の至る箇所をまさぐってくる美乃里。ご満悦そうにとろけた声色が完全に泥酔したおっさんのそれすぎる。
日常茶飯事となっているスキンシップを強制的に我慢させていたから寂しかった気持ちは分かるけども、にしたってこの勢いで来られるとさすがに俺の身が持ちそうにない。
なぜならこの妹、非力な見た目に反してけっこうインパクトがあるというか、力強くて──。
「おにぃ……今日は、寝かせないよ?」
にんまりと口角を上げて妖艶に微笑む、早海家の大天使──の、皮を被った悪魔的な何か。
この圧力、控えめに言って命の危機を感じる件。
(こ、このまま美乃里のペースに呑まれるとヤバい気がする……いや、確実にヤバいっ!)
真正面から美乃里の体が密着して兄妹の域を超えた体勢になってしまっているし、ここはどうにかしてこの場から抜け出さなくては……ッ!
「あ、あー、そういえばなんか、肉まんが食べたい気分ダナー。ちょっと、コンビニまで行こーカナー?」
「……お兄、いつもはそんなこと言わないよね?」
「人間とはー、とつぜんむしょーになにかを食べたくなってしまう生き物なんだヨナぁー?」
「……じゃあ、私がお兄の肉まんになるっ」
「ごめんちょっと意味が分からない」
初めて聞いたわそんなセリフ。
「私のこと、お兄の本能の赴くままにっ、肉まんみたいにがっついてもいいんだよっ!」
「いや、その、いくら美乃里が良くても、俺には兄としての体裁を保ちたい意思があってね?」
「うううーっ、うにゃあぁああああーん!!」
「ぬ、ぬあぁあああああッ!??」
逃がさんとばかりに全身を使って俺に絡みついてくる美乃里。
お風呂上がりの濃厚な香り+もちもちした肌の感触が容赦なく俺を包み込み、もう何が何だか分からず収拾がつかない脳内ハッピーセット状態。
全くと言っていいくらい筋力がないはずなのに、こういう時だけ規格外な馬鹿力を発揮する美乃里は一体どういう原理なのだろうか……?
などと、冷静に考えている暇もなく。
(い、いしきが、いしきが、とぶ……ぅ)
ああ……天界への入口がすぐ目の前に……。
──いやだめだっ、目を覚ませ俺ッッ!!
「う、うおおおおおおッッ!!」
「ひゃっ!?」
ノックアウト寸前にまで陥っていた俺だが、残された最後の気力を振り絞って好き好きホールド状態の美乃里を力ずくで振り払う。
起死回生の一撃。ペタンと尻もちをついた美乃里は不満げにプクリと頬を膨らませて口を尖らせた。
「お、おにいっ!」
「コンビニっ、行ってくるっ!」
「ダメッ!」
「言うこと聞かないと明日一日スキンシップ禁止!」
「ふええっ!?」
──よし、決まった。
ビシッと片手で制してこう言ってしまえば、大抵は大人しくなって素直に従ってくれる。
とはいえ、俺の口からそんなことを言うと悲しませてしまうから本当は控えたかった……が。状況的にこればかりは致し方ない決断である。
どうか許してほしい、俺は色香に惑わされることなく誠実健全な兄で在りたいのだ。
「……もっと、いっぱい甘えたいのにぃ」
「……肉まん、美乃里の分も買ってくるから」
「あんまんがいい……」
「あ、はい」
「ついでにいちごミルクも奢って」
「あ、はい」
健気な傷心を甘味で補おうとする美乃里に、俺もそこは素直に受け止めて了承するしかなかった。
──その後。美乃里を置いて部屋を抜け出してきた俺は、リビングで談笑している母さんと父さんにひと声かけて財布を手に持つと、鍵のかかった玄関の扉を開いて外の世界へと一歩足を踏み出した。
そこまで寒くはないからジャケットを羽織る程度の軽装で外に出てきた俺だが、夜中の住宅地は昼間とは打って変わってまるで
シンと静まり返って、加えて無風。温かかった家内との急激な温度差に思わずゾクッとしてしまう。
(……なんか、急に寂しくなってきたな)
美乃里を突き放した選択に後悔を覚える俺。
……でも、あのまま抵抗せずに身を委ねていたらそれこそ俺が大変な目に陥っていただろうし……うん。
ともかく、この場であれこれ考えていても仕方がない。早いとこコンビニまで行って、肉まんとあんまんといちごミルクを買ったらすぐに帰宅しよう。
そう気を取り直して俺はひと呼吸入れて再び動き出すと、家の門を開いて閉じ、隣の相川家の門前を通り過ぎようとする。
「……ん?」
が、しかし。
通り過ぎようとしたその手前で相川家の玄関先の扉がカチャリと開き、音を立てずに誰かがフッと姿を見せる。
思わず立ち止まってその顔を確認してみると──。
「智香ちゃん?」
「え? ……あ。お兄、さん?」
現した正体は、長髪をポニーテールで結んだジャージ姿の智香ちゃんだった。
(なんか、いつもと雰囲気が違うな……?)
この時間帯、普段ならパジャマ姿でいるはずだろうに……ジャージ姿とは珍しい。だが、ジャージ姿であっても智香ちゃんの純情可憐さは色褪せずに健在だ。
「こ、こんばんはっ。奇遇、ですね?」
驚いたように小走りで寄ってきた智香ちゃんは門を開くと、俺の前に立って律儀に頭を下げてくれた。
「う、うん。えっと、どうしたのその格好?」
俺から訊くと、智香ちゃんはソワソワと肩を揺らしつつも、俺との目線は合わせながら口を開く。
「その、テスト勉強で運動不足になっていたので、少し外でランニングをしようかと思いまして……」
「え。こんな夜中に、今から?」
「は、はい」
コクリと頷く智香ちゃん。……だが、それはちょっと不用心すぎないか?
智香ちゃんみたいな可愛い女の子が夜中に一人で外に出歩くのは狙われやすいというか、犯罪関係の予期せぬトラブルに巻き込まれる可能性がある。
万が一、道中で不審者と遭遇なんてしたらと思うと不安ばかりで気が気でないのだが。ひまりちゃんはさておき、紗彩ちゃんや両親は何も言わなかったのか?
「恵美さんと裕二さんは許可してくれたの?」
「お、お母さんとお父さんは、まだお仕事から帰ってきていなくて……ですけど、お家の近くを少し走るだけなので、そこまで心配されなくても……?」
──今の言い方は、良くないな。
「……そういう見方はダメだよ。例え家の近くでも知らない人がうろついてたりするしさ、特に智香ちゃんは可愛いんだから自分をもっと大切にしないと」
「あ……う。す、すみません……」
「あ、いやっ、別に怒ってるわけじゃないんだけどねっ!? ただその、俺は智香ちゃんのことが心配だからこう注意しているだけであってっ」
目に見えてショボンと落ち込む智香ちゃんに向けて必死に弁明する俺。女の子の悲しげな表情や涙には昔からどうしても弱かった。自分が悪く感じてしまう。
「い、いえ。確かにお兄さんの言う通りなので……」
しかし、美乃里という甘えん坊な妹を持つ兄でいると、年下の女の子のこういう危機管理不足に対して何も言わずにはいられない。これが俗に言う世話焼きというやつなんだろう。
普段から良い一面しかない智香ちゃんであるから尚のこと、例え悪い印象を抱かれようとも良くないことにはしっかり注意すべきだと思う。身近に寄り添える俺だからこそ、智香ちゃんの将来のためにも。
「だから、そのぉ……えっと」
「……きょ、今日はもう、お部屋に戻ってゆっくり読書にします。ご、ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした……ッ」
「ま、まってまってっ、そこまでして深刻に捉えなくても大丈夫だからっ!?」
とはいえ、やはり強く言いすぎてしまったらしく。
申し訳なさそうに引き下がろうとする智香ちゃんを咄嗟に俺が引き止めると、直後に機転を利かせてある提案を持ちかけた。
「お、俺も、智香ちゃんと一緒に走るよ!」
「……へ?」
一瞬ポカンと目を丸くする智香ちゃんだが、冷静さを欠いた俺は続けざまに言い立てる。
「俺と一緒なら智香ちゃんも安心だろうし、ねっ?」
「い、いえそんなっ、お兄さんには関係ないのに、余計にご迷惑をおかけしてしまうようなことっ」
「だ、大丈夫大丈夫っ、ちょっと運動用に着替えてくるから少しここで待ってて!」
「あっ、お、お兄さんっ!?」
……提案というより、ほぼ俺の独断という形にはなってしまったが。
智香ちゃんの心を傷つけたくないその一心で、俺は急いで部屋に戻ると、即座に動きやすい服装に着替えて再び外へと出向くのだった。
「お、おにいっ? おにいーっ!?」
笑顔で俺を迎えてくれた美乃里には二度距離を離すこととなり、ちょっと申し訳なかったけど。
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