一話 ジョイナ
①
さんさんと、淡い朝日が差し込む。
私は昨日からひきずっていた腹痛がやっと引いてきたところで、窓の外でピイチク鳴きわめく小鳥たちの声を目覚ましに、瞼を無理やりこじ開ける。
あたたかなベッドの中で、私はぎゅっと体を丸めるほかない。
懐かしい夢を見た。私が初めて、この地に落ちてきた日の出来事だ。寒い時や体調を崩した日、私はよくこの夢に魘されることがある。
「ひどい目にあった……やっぱりあんなもの、二度と食べたくない……」
マーガリンの味がするプラスチックがある。
マーガリンは、この世界─【ファンタジア】ではよく親しまれる食べ物だ。形状はたいていが四角形で、たまに丸いものもある。色は白か黄色で、チーズに近い。
歯触りは最悪だ。ツルツルとして歯が立たないし、口の中に含むと、もじゃもじゃと奇妙な感触がする。
そもそもありえないほど固いので、噛み切ることができない。
市販されているものの中には、たまに噛んでいる最中にキーン、と歯髄にしみるものもある。アルミニウムを噛んだ時と感覚は似ている。ぜひお手元のアルミホイルで試してみてほしい。
味は立派なマーガリンだけど、私は一度もそのまま食せた試しがない。
噛み切れないなら飲み込めばいいと閃いて、そのまま丸呑みしようとしたら、喉に詰まらせてしまった。昨日の昼食の出来事である。
食事ひとつにしたって、プラスチックも食べられないなんて、顎が弱いにもほどがある、と村の女の子たちに笑われた矢先の出来事だった。
プラスチックを吐き出してまる一日寝込み、気づけば翌日の昼間になっていた。
「ジョイナって、きっと五本指だから、かわりに生まれつき歯が弱いのよ。村のコたちの言う事は気にしちゃだめ」
朝から見舞いにきてくれた友人のアミリーは、げっそりした私を見て可哀想に思ったのか、そうフォローしてくれた。
人間は普通、プラスチックなんて食べれないし、食べた所でお腹を壊すか、最悪の場合死んでしまうんだよ、とはとても言えない。
「ほかの食べ物は平気なんだもの、あんまり気にしちゃだめよ。
村のコたちだって、貴方のことを心配してるのよ」
「とてもそうは見えなかったけどね。皆私のこと馬鹿にしてる。顎の弱いジョイナ、体ザコザコジョイナ、って」
「しょうがないわ、ジョイナってオーナよりオード寄りじゃない。
オードは顎の強さと狩猟の腕がモノをいうでしょ。皆はジョイナに、立派なオードに成長してほしいのよ」
とてもじゃないけど無理だ。
顎を鍛えたところで、プラスチックは噛み砕けない。
なにせアミリーを含めて、私の住むトラン村の住人は皆、歯がとても強い。
固いプラスチックだってばりばり食べてしまうし、奥歯は牛の歯みたいだ。
気になる人は牛の歯を調べてみるといいだろう。しかも、何度でも生え変わるのだそうだ。
「そりゃあ、狩りは上手くなったけど……使える魔法は蘇生魔法くらいだよ?」
「いいじゃない、トランのオードは、ましてや
「私は使えるようになりたいなー。オードじゃなくてオーナがいいし」
「えー、ジョイナはオードが似合うわ!私のお婿さんになってほしいし」
「それこそベゼルの我儘じゃないか!」
「3年暮らした恩は一生をかけて返すべし!ラン村のことわざにもあるでしょ!」
「初耳だぁい!」
それに引き換え、私の歯の取り柄といえば、虫歯が一本もないことくらい。
子供の頃にきちんと歯科矯正手術したので、歯並びもとても綺麗だ。
ただし、犬歯がとても鋭いし、よく頬肉を噛むので、口内炎になりがちなのがネック。しかもトラン村の人たちと違って、指は5本もある。
繰り返すが私は、「人間」だ。
「(もう3年かあ。この世界に落っこちてきて……早いなあ、時間の流れ)」
私は16歳の時、大学に向かうバスの中で、ミキサーが如くシェイクされて死んだ。
いわゆる自動車事故というやつに巻き込まれたのである。
最後に見た景色は、横から突っ込んでくる大型トラック、大学のルームメイトたちの悲鳴、クラクションの音。
私はのんきに「午後の野生動物学の講義はさぼっちゃおうかな」なんて考えていた。確か断末魔は「ぎょげぶげッ!」みたいな悲鳴だった気がする。死に様は選べない。人生とはなんとも無情である。
しかしどういうわけか、事故で吹き飛んだ筈の命は、目が覚めると、真っ白な世界にいた。
というより、ブリザード吹き荒れる極寒の世界に放り出されていた。
目が覚めて1分で凍死しかけていた時、私が今住む場所──トラン村の村長に拾われ、保護された次第だ。
私はこの世界とは別の世界からやってきた……と考えている。
3年前の雪が降る夜、私は突如として、トラン村のそばにある森の中にぽつねんと現れていた。
最後にいた場所はニューヨーク。
ここが仮にアラスカだったとして、私は6900キロをどうやって移動したというのか。そしてここはアラスカではないので、私は元のニューヨークに帰ることもできず、3年もこの村で過ごしている。
「3年。そう、早いわねー。初めてあなたを雪の下から見つけた時は、本当に驚いたわ。真っ裸同然でぼろぼろだったんですもの。生きててよかったわ」
アミリーはしみじみとぼやく。
3年はとても長いようで、あっという間だった。
まず初めに、言葉が通じないので、まるまる1年は言葉と村の作法と生活を覚えることに費やした。次の1年は、とにかく自分がどんな場所にいるか、この世界は何なのかを勉強した。
私が今生きている、この世界――ファンタジアには、人間という種族が最近まで存在していなかった。
ここ2年ほど調べて分かったことだ。このファンタジアという世界において、人間という種族は稀有な生物なのだ。村長にわがままを言って、どうにか集めた本や資料に目を通し、言葉を解読した限りの判断だ。
この世界には、人間のかわりに、様々な種族が繁栄している。
たとえば、トラン村がある雪の国ムドランをはじめとするリーバ大陸では、ポリマン人と呼ばれる人たちが多く住んでいる。
ポリマン人は、人間と容姿は似ているけれど、違いはとても多い。
背丈は約5フィート3インチ(160cm)くらい、大柄な者で6フィート1インチ(185㎝)ほど。
肌は皆、焼いたようなブラウンカラーだ。髪色は多種多様で、色鮮やかな赤や青だったり、二色混ざっていたり、様々だ。
肉体年齢は人間と然程違いはないが、14歳からお酒を飲めるようになり、20歳で成人という扱いになる。
特筆すべきは、性別と、指の数だろう。
ポリマン人は性別が4つある。繁殖できる性別オードとオーナ。繁殖しない性別リドとリナ。
オードは人間でいうところの男性、オーナは女性にあたるようだ。
リドとリナは子供を産む機能がない代わりに、魔術で子供を作ることが出来る。
(この辺りは私も詳しいことは知らない。トラン村にリドとリナはいないからだ)
けれどオードが子供を産むこともあるし、繁殖しないリドやリナがオードやオーナと結婚することもある。
そして人間と違い、ポリマン人は指が四本だ。
皮膚が分厚く、骨が浮き出てごつごつとしている。
面白いことに、指が五本の者は人間と手の形がほぼ同じで、薬指が余剰の指として扱われる。これをポリマン人の間では「神の止まり木」と呼び、とても有難いものとして扱うのだそうだ。
私は指が五本あるので、村では「稀子」として丁重に扱われている。近所の奥様方には「ぜひうちの息子と縁談を」と相談を受けるし、買い物に行けば店の店主たちによくしてもらえる。
まさか、違う世界からやってきた人間です、ともいえず、私はにこにこと愛想よくして、のらりくらりとかわしながら、今日を平和に生きている。
何故かというと、人間だとばれてしまったら、まず真っ先に首輪をかけられるか、縛りつけられて見世物にされてしまうかもしれないからだ。
この世界における「人間」とは、家畜や異形、伝説上の生物と同義なのだそうだ。
私たち「人間」は、他のどの種族と比べても頑健で、特に視覚と聴覚、そして味覚が優れている。極端な寒さと植物毒には弱いが、【魔力】と呼ばれる生体エネルギーは、ポリマン人の50倍だとされているらしい。
だからか、人間はエネルギー源として、兵器として、奴隷として、とても有用なのだそうだ。
その事実を知ったときは、よほど保護されたことを悔やんだ。もしかしたら野垂れ死んだほうがマシだったかもしれない。
けれど今はこうして、言葉も覚え、礼節を学び、すっかりトラン村の仲間入りを果たしている。
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