汽車とジョイナのファンタジア
上衣ルイ
汽車の中で
ー
◆
目が覚めると、私は座席に座っていた。
古い映画でよく見るような、SL列車の豪奢な座席に私は座っていた。
窓の外には、夜色のマーブルチョコタルトに粉砂糖をまぶしたような、一面の星空が輝いている。
なんでこんな所にいるんだっけ。私は眠い目を擦って、車内を見回す。
座席の人の数はまばらで、客は皆眠りこけているか、ぼんやり窓の外を眺めていた。
おかしなことに、服装はばらばらで、ぴっちりと白い服を着こなした宇宙人みたいな人も居れば、ぶかぶかのコートと洒落たハンチング帽を被った紳士、かと思えば学生服を着た男の子、ボロボロのツナギとヘルメットを被ったおじさん、様々だ。
皆共通点があるとすれば、全身が灰色がかっていて、半分体が透けている。
例えるなら幽霊だ。でも、空恐ろしいような怖さなどは感じない。
夢かな。だとしたら奇妙だけど、冷たい布団に全身を包まれるような、穏やかな静けさに満ちて、悪い気はしない。
私は客を見回しながら、ふと気付いた。私は、自分が何者であるかを、すっかりぽかんと忘れてしまっていたのだ。
「(そういえば、なぜ私は此処に座っているんだろう。そもそも、私は誰だろう。
不思議だ、私は自分の名前が分からないし、どこの誰なのかも分からない。
なのに、私は何も分からないことが、怖くない。変なの)」
不意に視線を眼前に戻して、私は喉奥にひゅ、と冷気を飲み下した。
男がいる。時代遅れの黒い車掌服に身を包んだ、影のような大男だ。
葉巻にも似た黒い棒の両端を、シガーカッターでぱちん、ぱちんと切り落とし、ぱちん!と指を鳴らす。鳴った指の隙間から青い炎が漏れ出て、男はそれを口に含み、すうう、と吸い込む。
「そのタバコ、美味しいの?」
ふとそんな問いが、口をついてでた。男は答えず、煙を吐き出す。
鮮やかな橙と黄の混じる紫煙が鼻腔を擽ると、煙たさではなく、鼻の粘膜がスウッと冷えるような心地と共に、柑橘類特有の酸っぱさと瑞々しい甘みが通り抜けていく。
甘みが抜けると、今度はサンダルウッドにも似た、落ち着く香りが辺りを満たす。
全身から力が抜けていく。香りが肺の中に忍び寄ると、そもそも私は自分の年齢を知らないのだけど、百歳も生きた老人の気分を味わっていた。
「迷い込んだ旅人を見るのは久しぶりだ。残念だが、君の終着駅は、ここじゃない」
男は優しい声色で告げた。窓の外から光が差し込む。
大きな銀色の月が、砂糖の夜空と車内を柔らかく照らし、私は目が眩んで、思わず目を細める。
光が落ち着くと、私と男は列車ではなく、真っ白な雪原の上に立っていた。
列車の中を包む温かさも、サンダルウッドの香りも、極寒の寒さに切り離されて、私は呆然と男を見上げていた。
びゅうびゅうと、寒風が吹きつける。黒い木々が私たちを取り囲み、びょおびょおと梢が私を脅かす。黒い森の隙間から、僅かに覗く月が笑っている。
たちのわるい夢を見ているようだ。私は混乱していた。ここはどこ?さっきの列車はどこに消えたんだろう?
「ここ、どこ?」
「君の出発点だ。列車はいつでも、君を見守っているよ」
「ま、待って!行かないで!」
男はそれだけ告げて、吹きすさぶ雪嵐の中に、夜と溶け合うように消えてしまった。
寒い。私を包むのは、ぼろぼろに焦げたシャツとズボン、穴の空いたローファーだけ。盛大にくしゃみがでた。
こんな雪の中に身一つ。十分と経たず、きっと私は凍死する。暗闇の中、ぼんやりと木々が輝いて見えるのは、私の幻覚なのだろうか。
とにかく人を探さなくては。
無我夢中で、とにかく誰かを、あるいはこの寒風と雪をしのげる場所を探して,歩いた。歩いて、歩いて、歩く。
私は何をしたのだろう。こんな極寒の地にひとりぼっちで放り出されるような、ひどいことをしたんだろうか。
頭の先から足の先まで、凍りつくような寒さの中、薄ぼんやりとした夜の中を、はらはら泣きながら、歩き続けた。
私はいつしか寒さに意識を奪われていき、雪原の中にゆっくりと倒れ込んで、目を閉じた。
◆
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます