第15話 虹の橋を架ける

 その桜の木は、ただ一本だけ、その丘で咲き誇っている。周囲には他に桜の木はないようだ。人工的に植樹されたのだろうか。先ほどの看板にあった緑の街のプロジェクトの一環なのかもしれない。幹はとても太く、雄大で、年期を感じさせる。樹齢は何十年、いや何百年と言われても不思議ではないほど、堂々して貫禄がある。根本まで近づき、その古い幹に触れてみる。温かくも冷たくもない、だけど優しい手触り。手を当てたまま、頭上を見上げる。一面、ピンク色の花びらで覆われている。その隙間を縫うように、太陽の光が分散して足元に届いている。いつか、こんな光景を見た気がする。あなたと二人で。

 私が彼の名前を声に出したと同時に、彼も私の名前を呼んでくれた気がした。初めてお互いの名前を呼び合った時の気恥ずかしさ。でもあなたの名前を呼べることがうれしくて、愛おしかった。懐かしい記憶。

 やわらかな風に吹かれて、桜が一斉に空中を舞う。陽光に照らされた花びらの一枚一枚が輝きを放ち、私たちの記憶を映し始める。数えきれない花びらの一枚一枚は、数えきれない私たちの想い出を投影してくれている。


―彼の表情、彼と居た場所、彼といた時間。


―彼女の表情、彼女と居た場所、彼女といた時間。


それはまるで百花繚乱のごとく舞い、大空に放たれ、彼方へと消えていく。そして私たちは気づく。これはあの子が見せてくれた夢だったのだと。その断片が、まるで名残雪のように二人に舞い降りたのだ。

・・・私たちは本当に夢を見てだけなの?

・・・いや、そうじゃない、と彼が言っている。


そう、あの子が・・レミが未だその幼い力を振り絞り、必死に私をこの世界にとどめてくれている。戻るべき場所に帰そうとする力に抗ってくれている。彼女はその代償として、この世界を視る力をどんどん失っている。もういいの。レミ。ごめんね。私のわがままであなたをとても辛い目に合わせてしまった。そして私のなかのあなた・・ごめんなさい。私があなたを連れ戻そうとしてしまった。もうなにもかも、調和の中に還りましょう。そう囁いた私の背中に、体温を感じる。これは背中の熱だと思った。むかし、桜の木の下で、こんな風にあなたと背中合わせになって、お互いの想いを語りあった。正面を向き合ったら大切な思いを言葉にできなくなりそうだから。あの日と同じように、彼がすぐそばにいる。あの日と同じように背中合わせになって。私に還ったあなたが、私と一つになったあなたが、再び私から離れて、いまなら、あなたをその目に映すことができる。あなたの胸に飛び込むことができる。これはきっとレミがもたらしてくれた奇跡。会いたかった・・とめどなく溢れる涙を拭うことも忘れ、私は振り向く。しかし一瞬だけ見えた人影は、桜の花びらとともにかき消されたしまった。そして、傍にあった桜の木も、その人影とともに姿を消してしまった。私が立つその場所は、まるで映画のシーンが変わるように、果てのない緑の草原に変わる。何もないその草原の真ん中に、私は佇んでいた。


―彼女を見下ろしながら、私はどんどん上空へと離れていく。彼女は両の掌を固く握り、全身を震わせ、力のかぎり私に向かって何かを叫んでいる。だがその叫び声は私の耳には届かない。その姿はさらに小さくなり、やがて見えなくなる。そして私の意識も遠ざかっていった。


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