階段と下る時

そうま

階段と下る時


「あれ、ない……」

 本郷美里は大学附属の図書館にいた。彼女のお目当ての本は、いわゆる閉架図書に収蔵されているはずだった。

 閉架図書とは、普通ならば図書館を管理する人たちでなければ出入りすることができない区画のことだ。一般の利用者がイメージしたり実際に利用する開架図書に比べて、閉架図書は本の倉庫としての性格を色濃くもつ。天井も低ければ、往来するための道幅も窮屈で、景観としても非常に殺風景。長居したいとは露ほども思わせない、そんな場所である。


 閉架図書の二階に美里は突っ立っていた。本棚の前で、「おかしいな」と首を捻っている。彼女が探していた「浜田太平全集第三巻」が収められているはずのスペースに、ぽっかりと穴が空いていた。

 美里は収蔵目録「H」の棚を後にし、来た道を戻った。カン、カン、カン。狭くて急勾配の危なかしい階段を登る。閉架図書四階へ。そしてそこから開架図書――つまり図書館の表側――に通ずる重たい鉄の扉を開けようとして、スマホ片手には無理だと悟り、それをカバンに突っ込んでから両手をノブにかけ、力を込める。扉の先は、大学附属図書館の二階だ。そこには本棚の前をさまよう生徒や、机にノートパソコンを放り出してスクリーンと睨めっこしている生徒たちがいた。美里はほっとした。先ほどまでいた閉架図書の、人気の全くない陰気な空気が晴れていった。

 美里は表側一階のエントランス――受付のあるフロアまで戻り、疑心暗鬼な心持ちで、所蔵図書検索システムが搭載されたパソコンの前に立った。「浜田太平全集第三巻」と入力し、エンター。モニターに、ついさっき検索をかけた時と同じ結果が表示される。おかしい。やっぱり、あそこにあるはずなのに。さっきは見るべき棚を間違えていたのだろうか、と疑惑の念はかわって自身の脳内へと向けられる。

 パソコンの右下に表示される時刻は、次の五限の授業までたっぷりの猶予を残していた。もう一度探してみる時間はじゅうぶんある。美里は床に降ろしていたカバンを肩にかけた。

 大学の図書館には、学生以外の利用者も多い。近くに住んでいるのであろうお年寄りの姿も頻繁に目にする。今日の朝刊に虫眼鏡を当てている老人の横を通り抜け、美里は再び閉架図書へと向かった。


 重たいドアを開け、再び階段を降りる。閉架図書はうす暗く、経年劣化した本の匂いが鼻につく。そんな空気を味わえるのは、所属学生である特権だ。建物の二階の扉から四階へつながる、入学早々の利用案内でそう説明された時は違和感があった。しかし、前述のとおり閉架図書は天井が低いため、階層が積み重なっていくペースが一般的な建物より早いのである。図書館職員による説明は、閉架図書へ足を運ぶたび——その天井の低さに圧迫される度に、体で理解した。

 頼りない階段を降りていく。足を踏み外さないよう、慎重に一歩ずつ。とはいえ、あんまりのんびりしてはいられない。五限の担当は鬼の生き残りと呼ばれる古文の教授だ。遅刻したら手厳しい懲罰が彼女を待っている。閉架図書二階に降り立ち、先ほどと同じ場所へ。収蔵目録「H」の棚がある道へ分け入る。


「やっぱりない……」

 美里は途方に暮れた。何度探してみてもない。二つとなりの棚まで目を皿のようにして注視しても見つからない。ため息をつく。「貸出可」というパソコン上の文字列は、機械がいたずらに吐き出したエラーだったのだろうか。

美里はがっかりと肩を落とし、とぼとぼと廊下を戻ろうとした。

「なにか探してるの?」

 急に声がして、美里は飛び上がった。彼女が振り返ると、廊下の突き当たりに人影があった。採光のためのごく小さい窓と、廊下にうっすら伸びる光。声の主は、その窓の下にちょこんと座っていた。

 「あ、いえ、なんでも」と、美里は適当にはぐらかしてそこから去り、階段を登った。いつの間に人がやって来たんだ?と逡巡する。美里が閉架図書とエントランスとを行き来するのにかかったのはほんの五分程度の時間だ。道のせまい閉架図書でだれかとすれ違ったら見過ごすことなんてないだろうし、それにあの声の主は、今さっきここにやってきた風ではなかったし――、

 と、いろいろと考えている間に美里は階段を登り切り、例の重い鉄の扉に手をかけた。

「は?」

 美里から間の抜けた声がもれた。数秒間停止した後、再びノブをがちゃがちゃと捻る。開かない。は?何で?意味わからない。

「ちょっと、最悪なんだけど……」

 と、虚空に悪態をつきながら、美里は意味もなく階段を降る。なんというか、じっとしていられなかった。探し物も見つからず、おまけにこんなところに閉じ込められるなんて、ほとほとツイてない。はぁ、と再びため息。

 それにしても。

 美里はふと思った。この密閉空間に対し、先ほど訪れた時ほどの強い嫌悪感を抱いていない自分に気がついた。なぜだろう。陰鬱さが薄らいだ気がする。古本特有のまとわりつくような香りも、あまりしない。

「さっきから行ったり来たり忙しいね、あなた」

 廊下の向こうから再び声がした。どうやら女の子のようだ。密閉空間に男女二人きりじゃないだけマシか、なんて思った。

「いや、それが、向こう側につながってるドアが開かなくって」

 美里は力なく笑った。心許なさからか、声がする窓のもとの方へ自然と足が向く。

「ここ、建ったばかりのわりに、扉の立て付けが悪かったり、トイレが流れなかったりするから。見回りの人が来るまで辛抱することね」

 廊下の向こうで少女はぼやいた。美里と同い年くらいの風貌だった。が、服装のセンスはかなり尖っているというか、普段美里が目にする大学生たちとは似ても似つかぬ格好をしていた。鼻にのせた眼鏡も、レトロを通り越して古くさい。

「あっ!」

 美里が急に叫んだので、「何よ」と言わんばかりに眼鏡の少女は顔をしかめた。「それ、私の探してた本!」と喚く美里の風貌を始め少女は凝視していたが、それよりも彼女が左手に握りしめている、発光する小さな板が目に入った。

「ねぇ、ちょっと聞いてる?私、それ探すのにめちゃくちゃ苦労したんだけど――」

「あなたが手に持ってるそれ、何?電卓にしては色が派手だけど」

 予想外の質問に美里は威勢を削がれて、

「え?いや、ふつうにスマホだけど」とヒビの入った液晶を少女に見せた。

「すまほ?」

「うん、スマホだよ。ていうか――」

 建ったばかり?閉架図書が?

 二人の少女は互いを見つめ合ったまま動かなかった。窓から漏れるささやかな光が、息が詰まりそうな空気中のチリを頼りなく照らし出し、それが二人の間で揺らめいていた。

「あの」

 先に口を開いたのは美里だった。

「今って20××年の○月×日で合ってます?」

 眼鏡の少女は美里をぼんやりと見つめたまま、

「惨めだわ。こんな服装センス皆無の女と借りる本が被るなんて」

「……はぁ?!」

 美里は大口を開けて前につんのめった。彼女と眼鏡の少女は鼻先で威嚇しあいながら、互いのルックスについて身勝手な批評を始めた。

 初めは喧嘩腰の二人だったが、同じ作家の本を嗜んでいるせいか、妙に気が合うところがあり、無意味な論争は好きな小説や作家談義へと移り変わっていった。そしてお互い全く気が合わない点も多々あり、そのせいで二人のやり取りは一層白熱した。

 どれだけ時間が経ったのか。美里は自分がなぜそこにいるのかも忘れた頃。

 キーンコーン。キーンコーン。

「やばっ、五限はじまる――」

 予鈴の音を聞いて、眼鏡の少女と肩を並べていた美里はばっと立ち上がった。慌ただしく駆けていく彼女を、眼鏡の少女はやはりぼーっと見つめながら、

「……あ。そういえば、名前」


 美里は鬼教授の般若顔を想起しながら、息を荒げて階段を登っていく。カン、カン、カン!二階から三階、そして四階。立ちはだかる鉄の扉に手をかけようとして、

「「わっ」」

 と、尻もちをついた。鉄の扉は彼女とは反対側から開いた。表側二階からやってきた女も、美里と同じように尻もちをついていた。

「す、すみません、大丈夫ですか?」

 美里は尻をさすりながら女に声をかけた。床の上で膝を折っていた女も「だ、大丈夫ですよ。あなたこそ怪我はありませんか?」と、ずれた眼鏡を直した。どうやら図書館の職員のようだ。

「あっ」

 美里は小さく叫んだ。職員の女の手に、「浜田太平全集第三巻」が握られていたからだ。職員の方は突然上がった悲鳴の理由を見出せずにいたが、美里の視線が自分の腕の中へと向けられていると気づき、「ああ、この本ですか」と答えた。

「ついさっき、受付におばあさんがやって来て、これを置いて行ったんです。『返すの忘れてた。読みたければどうぞ』って。一体どういうことなんですかね」

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階段と下る時 そうま @soma21

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