2.妻の秘密

 この人、私が気づいていないとでも思っているのかしら。「これからも末永くよろしくお願いいたします」だなんて、娘のことでないのは見え見えよ。お互い政略結婚で打算と妥協で結婚したんだから人のことは言えないけれど。


 夫と婚約する前、まだ女子大生の頃、私には付き合っている男がいた。サークル交流で知り合った国立大の二つ年下の男だった。中学生の頃からいろいろな男と付き合ってはきたけれど、彼はちょっと別格だった。平面的なアイドル顔の割には大人びた雰囲気で、頭が良く神経が細やかで話もおもしろかったので私はたちまち夢中になった。外見に似合わず少し影のあるところも私をぞくぞくさせた。両親は、結婚はそれなりの相手としてほしいと常日頃から言っていたけれど、遊ぶ分にはあまりうるさいことは言われなかった。だから私もボーイフレンドは適当にとっかえひっかえしていたけれど、大学3年で知り合った彼にだけは本気になってしまった。実家は零細の町工場で、彼はバイトを掛け持ちして大学に通うほどだったけれど、彼の卒業を待って結婚したいとさえ願うようになった。

 私の卒業を控えてちらほら縁談の話が出るようになると、駆け落ちしてでも彼と一緒になると最初のうちは息巻いたけれど、両親にこんこんと説得されるうちに、私にも彼との結婚は現実的でないことがわかってきた。彼には泣いて懇願されたけれど、苦労知らずで育った私には、1円でも安いスーパーを探して歩くワンルームのアパート暮らしなど到底考えられなかった。彼には悪いと思ったけれど、私は努めて冷静に別れを告げた。


 8歳上の夫は好みのタイプではなかったけれど、小さいといえども一応次期社長だったし、結婚後は専業主婦として習い事でも何でも自由にやっていいと言われたこともあって、親が勧めるままに今の夫との結婚に踏み切ったのだった。結婚式の前々日になって、もう二度と会うこともないのだから最後に一目会いたいと元彼から連絡が来た。私も少しマリッジブルーぎみだったこともあり、ほだされてつい会うことを承諾してしまった。その夜のことは甘美でほろ苦い2人だけの秘密になった。

 結婚後9カ月目に娘が生まれた。妊娠中、元彼の子かもしれないとずっと不安を抱えていた私は、娘が私によく似ていたのでほっとしたのもつかの間、夫に内緒でこっそり調べてもらったDNA鑑定で元彼の子であることがはっきりして、一時は奈落の底に突き落とされた気分だった。しかし、私はこのことを夫はもちろんのこと、両親にも、ましてや娘本人にも今まで告げることなく自分1人の胸にしまってきた。偶然にも夫と元彼は血液型が一緒だったので、血液型からバレる心配はなかった。娘は私によく似ているものの、成長するにつれてちょっとしたしぐさや表情に元彼の面影が浮かぶ時があり、そんな時にはかすかなおののきと喜びが私の体を駆け巡るのだった。


 何も知らない夫は、一粒種の娘を猫可愛がりにかわいがっていた。だから大抵のことなら娘の要求が通らないことはなかった。家庭教師の人選もそうだった。地味な人だなというのが、求人サイトに出した募集広告を見て彼女が送ってきた履歴書の写真を見た時の第一印象だった。しかし、面接のため我が家を訪れた彼女の颯爽とした立ち居振る舞いを目の当たりにした途端、大柄だが細身で、パンツスーツをきちんと着こなした姿に私も娘も一瞬で惹かれてしまった。履歴書によると学歴も立派だったし、大手学習塾でも教えていたことがあるという経歴の持ち主で、今は母親の介護があるとかで正社員の職にはつけないので、家庭教師のアルバイトを幾つか掛け持ちしているということだった。本当は娘にとってお姉さん的な女子大生がいいんじゃないかと考えていたけれど、写真で見るよりずっと感じも良く、この人に任せておけば大丈夫という安心感が滲み出ていたので、彼女に家庭教師をお願いすることをその場で決定したのだった。


 夫はその頃は彼女にあまり興味はなかったようだ。浮気している時は表情や言動にすぐ表れるほどわかりやすい人だから、本当に興味がなかったのだろう。それが、彼女が家に通ってくるようになってしばらく経った頃から、何となく様子がおかしくなってきた。彼女が来る日は夫の帰りは大抵勉強が終わった後になる。もしくは帰りが早くても夕食を食べ終わると、彼女が来る前に書斎に引っ込んでしまうようになったのだ。彼女のほうは夫に対して、生徒の父親に接する以上の親しみを露ほども見せたことはなかったけれど、妻の勘というやつで、ある晩会社帰りの夫の後をつけたらシティホテルに彼女と2人で入っていく決定的瞬間を目撃した。彼女は家に来る時とは真逆のセクシーなファッションに身を包んでいる。どこでどういうきっかけでそういうことになったのかはわからないが、それはそれでおもしろい。今さら夫が誰と浮気をしようと、それが浮気である限り私には何の支障もないのだ。私は意地悪な気持ちで2人を観察するのを密かな楽しみとするようになった。

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