“彼”の秘密

文重

1.夫の秘密

 玄関のドアを開けた途端、中から出てきた彼女とぶつかりそうになった。一瞬目が合う。見送りに出てきた妻と娘に動揺を悟られないよう、俺はすぐに目をそらして取ってつけたような挨拶をした。

「あ、先生、どうもご苦労様です」

 彼女はするりと俺の横を通り抜け、

「いつもお世話になっております」

 と少しハスキーなアルトで言うと、俺の目を真っすぐ見据えクールな笑みを浮かべて深々と会釈した。

 ふと昨夜の彼女の痴態が瞼の裏によみがえる。服を脱がせる前に着ていた、胸元が大きく開いたドレス姿もセクシーで良かったが、眼鏡をかけたクールなパンツスーツ姿もなかなかそそられる。今度会う時はこれを着てきてもらおうかな。妄想が膨らみ始めるとともに体の芯が熱くなって、俺は慌てて少し体を引いたまま会釈を返した。

「先生、ありがとうございました。また来週ね」

 中二になる娘が上がり框から転げるように降りてきて、彼女にこぼれるような笑顔を向けた。先に玄関先に出ていた妻も、

「先生のおかげでどんどん成績が伸びているのよ。あなたからもよくお礼を言ってちょうだい」

 と俺と2人きりの時にはめったに見せることのない笑顔で謝辞を促してきた。俺は軽く咳払いをすると丁重に礼を述べた。

「私には娘の勉強のことはあまりわかりませんが、本当にありがとうございます。娘も先生にはすっかり懐いているようで良かった。これからも末永くよろしくお願いいたします」

 俺ともな。そう心の中で呟いたことなど、よもや妻も娘も気づいてはいないだろう。


 娘の家庭教師である彼女と男女の関係を持つようになったのはほんの偶然からだった。

 俺は小さな輸入食品会社の創業社長の息子、世間で言うところのいわゆる2代目だったが、優秀な社員がたくさんいたおかげで、亡くなった親父ほどの経営の才能がなくても会社は何とか業績を保っていられた。15年前に結婚した妻とは政略結婚まがいの見合いだった。妻の実家が大口の取引先だったのだ。若い頃はさんざん遊んだことだし、そろそろ身を固める潮時かなと思っていた矢先だったので、俺は持ち込まれた縁談を素直に受け入れた。


 ハネムーンベビーですぐに娘が生まれたこともあり、結婚後は多少のつまみ食いはしたものの概ね品行方正を貫いていた。だからといって妻を愛していたかというとそういうわけでもない。セックスもお互い何となくお義理という感じで定期的にこなすだけだった。妻は専業主婦としては完璧だったし、社長夫人としても文句のつけどころがなかったので、俺の人生には色恋なんてもう無縁だと思っていた。


 娘が中二になった頃、志望校に入るには少し学力が足りないと親子面談で告げられ、慌てた妻が家庭教師をつけると言い出した。娘は幸いというべきか、俺にはあまり似ず母親似だったが、性格もおとなしくてかわいらしい子だった。中一の時に塾には通わせていたが、あまり効果がなかったのと、夜道を一人で帰らせて物騒な事件に巻き込まれることを俺も心配していたので、家族会議の結果、家庭教師を雇うということになったのだ。

 そこに応募してきたのが彼女だった。もちろん娘に悪い虫がついても困るので、家庭教師の応募条件は女性に限定し、大学生ぐらいのお姉さんを想定していたのだが、年齢は34歳と少し高めだったものの、超難関高校・国立大卒業の上、清潔感に溢れ真面目で誠実そうな印象の彼女を妻と娘が一目で気に入ってしまい、即決で採用が決まったのだった。正直、最初は特に彼女に興味を覚えなかった。昔から後腐れのない遊び上手の女とばかり付き合ってきたし、初めて彼女に会った時の印象はまさに堅物そのものだったからだ。


 週に1回の訪問授業が始まって二月ほど経った頃、帰りに会社を出たところで突然の雨に降られ、コンビニで傘でも買うかと歩きかけた時に後ろから声をかけられた。最初は彼女だとは気づかなかった。というのもそもそも彼女が来るのは毎週水曜日の夜7時から9時までだったので、仕事や取引先との付き合いの関係もあって毎回顔を合わせるわけではなかったからだ。それにその日は銀縁の眼鏡をかけていなかったのと、首元までブラウスのボタンをきっちり留めたいつものスタイルではなく、ボディラインがくっきりわかる派手な柄のワンピースを着ていたのですぐにはわからなかったのだ。


「こんばんは。こんなところでお会いするなんて奇遇ですね。駅まで行かれるんでしょう。お入りになって」

 一瞬、誰だかわからなかったが、たとえそれが誰だかわからないままでも、こんなセクシーな美女に相合傘に誘われて断る男がいるだろうか。

「あ、先生でしたか。失礼、その、ちょっと意外だったもので。いや、そこのコンビニでビニール傘を買いますから大丈夫ですよ」

 と言いながらも、俺の体は既に彼女の差し出す傘のほうへ傾きかけていた。鼻の下を伸ばした、さぞかし間抜けな面をしていたことだろう。

「あそこまで行く間に濡れてしまいますよ。さあ、どうぞ」

 と傘を持った体を押しつけてくる。彼女がつけている香水の甘い香りがふわりと鼻先をくすぐった。こうなるともう抵抗はできない。すみませんと恐縮しながら彼女の傘の中に身を縮めておさまると、駅に向かって一緒に歩き出した。ヒールのせいもあるのだろうが、並んで歩くと彼女の背は日本人男性の平均身長の俺より少し高いぐらいだ。こっそり見上げると、色白の肌に鼻梁の高い鼻とカールした長いまつ毛の美しい横顔がそこにあった。年甲斐もなく心臓が高鳴る。


 駅までは娘の学習のことで当たり障りのない会話をするだけだったが、10分ほどで駅に着いた時には、このまま別れるのが惜しい気持ちになっていた。

「まだ止みそうにないですね。予報ではあと1時間ほどで上がるようですから、それまでそこのカフェで雨宿りしませんか。私、ちょっと喉が渇いちゃって。お急ぎでしたらお引き止めしませんけど」

 駅舎の軒先でかがんで傘を畳みながら上目遣いに提案されて、俺はもはや抗うことができなくなっていた。話題は娘のことから、ほどなく共通の趣味のゴルフのことになり、適度に相槌を打ち、出しゃばらない程度に質問を挟むわきまえた態度に時が経つのも忘れて語り合った。娘の家庭教師として雇った女とは全くの別人を見る思いだった。

 結局、その日は2時間ほどカフェで過ごしてから重い腰を上げて解散したのだが、とうに乾き始めた雨上がりの道を自宅まで歩きながら、交わしたばかりのアドレス宛に早速お礼のメッセージを送ったのだった。


 そこからの展開は速かった。どちらからともなく頻繁に連絡を取り合うようになり、翌週には食事に誘い、その次に会った時には酒の勢いもありそのままホテルへ直行した。それからは毎週のように逢瀬を重ねている。彼女は今まで付き合ったことのある女たちとは違う、どこか不思議で謎めいた女だった。自分のことはあまりしゃべらないが、聞き上手でベッドの相手としても最高だった。俺はどんどん彼女にのめり込んでいる。だから彼女が娘の勉強を見に家に来る日は、なるべくかち合わないように帰る時間をずらしているのだが、たまに忘れてうっかり鉢合わせすると必要以上に動揺してしまう。とにかく彼女が愛人だという俺の秘密は妻や娘には絶対知られてはいけないのだ。


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