クリスマスイブイブチャーシュー

狭霧

クリスマスイブイブチャーシュー

 電車は混んでいた。

 今年はイブが土曜日ということもあり、金曜日から若者を中心に人の動きは多い。学校は休みに入り、早い家では帰省すら始まっている。電車から吐き出されても、街にも人が溢れていた。

「イブイブの花金に仕事納めって――うちの会社って黒いわー」

 呟きが白く流れていく。このクリスマスは冷え込むと気象予報士は言っていた。

「さっむ」

 河田奈知はマフラーを押さえ、大手町の本社ビルに入っていった。


 第二営業事務課――そこが奈知の職場だ。大学卒業時点では、社会は就職氷河期と言われていた。それでも辛うじて、世間では一応名の通る米国の総合商社に滑り込むことは出来た。

 仕事にはやりがいもある。そもそも、男性の補佐――といった色合いが無いのは有り難かった。奈知はそこで四年を過ごし、今は総勢五名ながらも一つの班を任されるまでになった。

「ねえ、奈知」

「人の前では班長と呼びなさい。小早川さん」

 顔を上げずに返すと、溜息が聞こえた。主は同期の小早川麻美だ。

「みんな出て誰もいないんだけど」

 奈知が顔を上げると、確かにフロアーには奈知と麻美しかいない。

「それでも公私混同はねえ」

「うっさい!それよりさあ、あんたどうすんの?」

「は?なにがよ?」

 麻美は奈知のデスクに腰を下ろした。

「この時季にどうするのって訊いたら、そりゃあアレに決まってんでしょうが!」

「アレ?アレって――阪神の?」

「ソレは終わった!そうじゃなくって!クリスマスよ!イブよ!男よ!」

 口を半開きにし、奈知は麻美を見上げた。いい男をゲットする――が、人生前半の一大プロジェクトだと常日頃言い切る麻美は、前回の休日に手入れしてきたという長い髪を掻き上げて見せた。女の自分に見せてどうするのだ――と奈知も思うセクシーポーズだ。

「男って――そんなのは」

「彼とはどうなの?ほら、あの、なんだっけ?プラモデル?オタクのさあ。その後どうなのよ?進展あった?結婚だけが人生じゃ無い。それはそう思うよ?でも、あんたの場合、いるわけだしね。男がさ。だったら一応は考えてんでしょ?オタクでも」

 言い返す気にならなかったが、仕事を続けながら奈知は言った。

「オタク――じゃないと思うけど……。ただの、マ……マニアって言うかさ」

「同義語!」

 腰に手を当てて見下ろす麻美に、奈知は返す言葉が無い。

「でも中堅だけどしっかりとした工作機械メーカーの設計でしょ?だったら」

「麻美が言ったでしょ、いま。結婚だけが人生じゃあ無いって。だから、まあ、とくにはその……」

「ふふーん」

 上目で麻美を見た。笑っている。

「進展がありません――と同じ意味のお答えね」

 奈知はマウスを放した。

「ほっといてよ!他人の人生設計なんか関係ないでしょ!」

「無いよ?」

「じゃあなんで」

「興味」

 奈知はガックリと肩を落とした。

「うそよ。心配してるんじゃ無いの!数少ない同期だよ?そんな奈知がさ、男に興味も無いって言うなら、それはそれよ?でも、あるわけだし。男に興味」

 人聞きが悪い――と言いたかったが、やめておいた。

「幸せになって欲しいじゃないの!友だちでしょ?チームでしょ?」

「それは、まあ……その……」

「で?予定入れてんの?」

 どう見ても興味で訊いている表情だ。

「な――あるわよそれくらい」

「《な》って言おうとした」

「あるわよ!予定くらい!失礼ね!」

「ほんと、頼むわよ?クリスマスに私を呼び出さないでね?」

 数人の社員が外から戻ってきた。

「じゃあ班長、予定の件はよろしくお願いします。私の方も予定が」

 そこで髪をなびかせ、ウインクした。

「立て込んでおりますので」

 腰をフリフリ去って行くのを見て、奈知はぼやいた。

「この会社って、あんなの雇ってて大丈夫なのかしら」


 午後に入ると社屋の食堂で簡素な忘年会が行われた。外資らしく、立食で時間も短く、料理も手を出しにくいほど簡素だった。

 乾杯が終わると全員が《待ってました》とばかりに会社をあとにした。次に会うのは新年十日だ。中には海外へ行く者もいる。配偶者それぞれの郷里へ挨拶回りする者もいる。それでも、クリスマスイブと翌日は水入らずを楽しむはずだ。奈知も帰り支度を済ませ、上司に挨拶に行った。

「おう、河田君はいま帰りか?逃げ足が遅いと用事っていう怪物に捕まるぞ?」

 日に焼けた顔で笑うのは、営業課係長補の綿貫祐一だ。年齢は奈知より十歳上の三十六で、独身だ。

「用事を言いつける上司も綿貫さんしかもう残ってませんよ」

 そうだなと笑い、バッグに書類を詰め終えた。

「今年も色々助けてもらって、礼を言うよ」

 頭を下げて見せた。奈知は慌てて綿貫より深く頭を下げた。

「とんでもありません!私の方こそ、山ほどご迷惑をおかけしたのをフォローしていただいて――ありがとうございました!」

 顔を上げ、見合わせて笑い合った。

「さて、世間は騒々しくなってるが、なにせ良い年末年始を過ごせよ?じゃあな」

 立ち去る背中に奈知は声を掛けた。

「よいお年を!」

 振り返ること無く肩越しに手を挙げ、ドアを出て行った。

「かっこいい……」

 きょうび、君はどうするんだ?予定はあるのか?と訊きたがる中年上司はいまだ社会に健在だが、綿貫にはそれが無い。サラリとして、実にスマートに見える。

「だから全社女性の憧れの的――」

 フウッと溜息を吐き、奈知も後を追うように部屋を出て行った。


「来てたんだ?」

 部屋に戻ると、倉橋之哉が背中を向けていた。プラモデルを組んでいる。

「何言ってんだ?朝からいるだろ?いや、夕べからか?」

 思い返す顔で振り返り、笑った。

「いいよね、仕事納めが早い人って」

 服を着替えに隣室に入り、ドア越しに言った。

「そうでもないぞ?早いけど、始まりも早い」

 取引先は一定度休むが、仕事が始まるとメーカーも急に慌ただしくなる。製造ラインは一旦停止すると再起動に時間が掛かる為だ。そのバックアップは、納入メーカーに依頼が来る。メンテナンス課だけでは手が回らず、営業も走り回る。設計にもその仕事は回ってくるのだ。

「正月なんて三日休んだらもう終わりだもんな」

「で、その貴重な休みも、そうやって模型作って過ごすんだ?人ン家でね」

 部屋着に着替え終えると之哉の隣に腰を下ろした。

「だってしょうがないだろ?今日は奈知も仕事だったし、することねえんだもん」

「いやいや……主要な論点はそこじゃ無いよね?なぜ人の家で作ってンのかってこと」

「え?何言ってんだ?道具がここに置いてあるんだから当たり前だろ?」

 そう言い、接着部分をドライヤーで乾かした。

「なんで道具がここに――」

 言いかけて止めた。之哉は鼻歌を歌っている。

 奈知はキッチンに立ち、冷蔵庫の中を確認した。外食を好まなくなったのは勤めるようになってからだ。外の味に飽きたのが一番の理由だったが、之哉と交際するようになって意識的に倹約をするようになったのも理由の一つだ。

「買い物しないとネタが無いなぁ」

 振り返るが「そうなんだ?」と奈知を見もせずに訊くだけだ。奈知は吐息を零した。

「買い物行きたいんだけど」

「あ、じゃあ」

 俺も――と言うのかと思うと、返ってきた言葉は期待とは裏腹のものだった。

「俺はちょっと用事に行ってくる!」

「え?」

 コートに手を伸ばし、袖を通す之哉に奈知は尋ねた。

「ひとりで?」

「うん!夕方までには帰るから」

 言葉もない。黙り込んだ奈知に之哉は「気をつけてな!」とだけ言い残し、足早に部屋を出て行った。

 一人になった奈知の口から零れ出た。

「なにあれ……」

 頬を膨らませ、普段使いのコートを手に取った。下は部屋着だが、上に羽織れば近所のスーパーでも問題は無い。財布とスマホに手を伸ばした時、そのスマホが鳴動した。見ると送信者は――。

「え?」

 目を疑った。

「綿貫――さん?」

 綿貫からのLINEだった。業務で使う携帯は、長期連休前は社に返却する。それでも多くの社員は緊急時用に相互のアカウントを自前の携帯で把握し合っている。掛かってくることは稀ではあるが。

 恐る恐る開けて見ると、短文があった。

《忙しいところ申し訳ない。話したいことがあるんだが、少しで良いので時間を貰えないだろうか?》

 心臓が奇妙なリズムで鳴るのを感じた。

「話したいこと――」

 何度も見返すが、文字は消えない。

「どうしてさっき言わなかったんだろう?」

 膨らむ妄想を抑え込み、そう呟いた。まさか綿貫祐一に限って自分に告白などは無いだろう――と思いながらも、奈知は慌てて着替えを始めた。


 ラウンジ中央で手を振る男がいた。綿貫は仕事のスーツでは無く、どう見ても私服姿だ。淡いグレーのシャツの上に黒いジャケットを着ている。傍らには革のコートがあった。

「お待たせしてすみません!」

 頭を下げ、前に腰を下ろした。

「思い立って急に動いたものだから、こんな場所しか無くて」

 それが嘘なのは奈知にも分かる。

――ここって人気のラウンジだよね?休日なんかだと予約が要るって聞いたことがあるもん。それに今日はイブイブだし……。

 注文を通すと、気まずさを避ける為に奈知から口を開いた。

「あの、お話ってどういった――」

 綿貫は頷き、奈知を見つめた。

「どう話すのが良いのかいろいろと考えたんだ。でも、顔を見たら単刀直入が一番なんだろうなって思うし」

 奈知の鼓動が速くなる。努めて無表情を務めているつもりだが、自信は無い。頭に血が上る気がした。

「私と付き合って欲しいんだ」

 コーヒーが運ばれてきて沈黙が生まれた。ウエイトレスの動きが、奇妙なほどゆっくりに見えた。

「あの……私は……」

「好きな人が居るかも知れないとは思ったんだ。君は素敵だからね」

 普段は河田君と呼ばれている。君という言葉が新鮮で、奈知は唇までもしびれるような感覚に襲われた。

「それでも、打ち明けずに終えるのは違うような気もしてね。まあ、自分勝手と言えばそうなんだが」

 奈知は首を横に振った。

「不快では無い?」

 三度大きく頷いた。

「ならよかった」

 綿貫はカップを口に運び、微笑んだ。


「あれ?戻ってたんだ?夕方って言ってたのに」

 部屋に戻ると之哉がいた。

「買い物行こうぜ!」

「え?用事は?」

「終わったからここに居るわけだが?」

「そっか」

「なんかお前化粧してない?」

「友だちと会ってた」

「そうか。じゃあそのまま出られるな?よし行くぞ!あ、ただし――」

「なに?」

「飯は今夜は俺の部屋で食おう」

「はぁ?何言ってんの?あのきったない部屋で?キッチン使えるの?私掃除からなんてヤだよ?」

 之哉は笑い、奈知の背を押した。

「心配無用!ほら、レッツゴー!」

 何が何やら分からないままに奈知は之哉と買い物に出た。

「もうすっかりクリスマス気分だな」

 近くの商店街入り口には、高さ二メートルほどあるツリーが飾られている。オーナメントは通行人を映し、足下のスピーカーからはエンドレスでクリスマスソングが流れている。

「そういうセリフはさ、十二月に入った直後くらいに言うもんだよ」

「そうか」

 意にも介さず、之哉はポケットに手を突っ込んで前を歩いている。足下は奈知の貸したサンダルだ。

「コートくらい着てくれば良いのに」

 セーター姿の之哉に言うと、振り返った顔は笑っていた。

「だよな」

 震える真似をして見せる之哉に、奈知は苦笑した。

「バカ」

 スーパーは混雑していた。長く続く不況で、多くのごく普通の家庭が倹約を強いられている。高価な店での家族での外食や海外旅行と無縁の人の方が日本には多い。それでも、商品を選ぶ顔には笑顔が多い気がした。小学生の少女は母親に何か囁く。母親は笑い、頷く。老婆が何事かを夫らしき老人に言うと、渋い顔でいた老人が微かに笑みを見せた。

 その店で、奈知も買い物を進めた。

「今夜はなんだ?」

「さあ?まあほら、イブイブだしさ、ケーキって訳でもないから何か普通のをね」

「俺アレ食いたいな」

「なによ、之哉も阪神?」

「え?なんだ?いや、そうじゃなくて、あれだよあれ!お前がよく作るほら!チャーシューのでかい奴をさ、こう輪切りにしてホラ、甘いタレだかでなんかあれした奴」

「〈あれ〉だらけだね。まあわかるけど、あれでいいの?あとは?」

 その他にリクエストは無いという之哉だが、奈知は以前に之哉が〈好きなんだ〉と言っていたエビフライと手製のカニクリームコロッケを作ることにした。

「子供か」

 囁くが之哉には聞こえていない。近くのお菓子コーナーで物色を始めていた。奈知は笑い、籠に商品を入れていった。

 終えると部屋には入らず、駐車場に止めてある之哉のクルマで之哉のマンションへと向かった。部屋に入り、奈知は声を上げた。

「な……にこれ!どうしたの?」

 之哉は服を脱ぎながら笑っている。その顔はどこか自慢げだ。

「いつやったの?」

「材料は買っておいたんだ。飾り付けはさっきな」

 すっかり掃除の済んだ2LDKのリビングはカーテンが引かれて暗い。その一角にクリスマスツリーが飾られている。高さは五十センチほどだが、オーナメントは木が見えないほどぶら下がっていた。

「一応こういうことするんだ?」

 ふざけて尋ねると、之哉は一歩奈知に近づいた。顔を近づける。鼻が触れ合いそうだ。

「一応やる時はやるんだ、俺も」

 そう言い、ゲラゲラと笑ってトイレに行ってしまった。ちょうちょう結びが上手くいかない。奈知はエプロンを何度か締め直してキッチンに向かった。買ってきた材料をテーブルに並べる。キッチンも掃除されて綺麗だ。幾つも無い鍋の中から選び、準備を始めた。

 トイレから戻った之哉はリビングで何かしている。チャーシュー用に買ったバラブロックにフォークを入念に突き刺していく。之哉の声が聞こえた。

「ケガすんなよ」

 下作業を横で見ていたことがあるのだ。奈知は「うん」と返事をした。

 味を調えながら、奈知は之哉と付き合い始めた頃のことを思い返していた。お母さん子だったと自認する之哉は、キッチンに立つことを好んでいた。母親の手って魔法だよな――が口癖で、美味しいものが出来上がっていくのを眺めているのが好きだったと言っていた。眺めているだけで無く、之哉は奈知が頼まなくとも手伝いをした。使い終えた食器や器具を洗い、拭いた。片付けるものは片付け、次に使いそうな物を訊いては用意した。初めそれは奈知に気を遣ってのことだと思っていたが、そうでは無いことがすぐに分かった。

「座ってていいから」

 そう言って極力キッチンに之哉が来ないようにした。之哉の母と比べられるのがイヤだった――と、今では自己分析が出来るまでになったが。

 以来、之哉はキッチンに立たなくなった。奈知のしたいようで良いよ――と笑ったが、どことなく寂しそうに見えて胸が痛む想いがしたのも覚えている。

「よし、まあこんなもんかな!」

 一通り出来上がると、時計は夜の七時を過ぎていた。完成品をリビングに運ぶ。之哉はテレビを見ていたが、運ばれてきた皿を見て子供のように声を上げた。

「わあ!すげえ!本当は今夜がクリスマスなんじゃね?」

「イブイブです」

 笑って運ぶ。之哉は料理を見回して目を輝かせている。

「早く食おうぜ!片付けなんてあとでさ!」

 エプロンを外して奈知が腰を下ろすと、之哉は「ちょっと待て」と言って室内灯のリモコンを手に取った。

「消すの?」

「キャンドルは用意したぜ!」

 なるほど、テーブルの上にはいつの間にかツイステッドキャンドルが二本立っていた。スイッチを入れると、LEDの青い明かりが料理に光を注いだ。

「でも……暗くない?食べ物落としちゃいそうだよ」

 そう奈知が言うと、之哉はニヤリと笑った。

「これでもか!」

 手にしたスイッチを押した瞬間、奈知は思わず声を上げた。

「わぁ!なにこれ……」

 リビングの壁と天井全てに星が現れた。それは微かに強弱の明滅を見せている。満天の星空だ。

「こんなの……いつやったの?」

 尋ねて奈知は理解した。これが之哉の言っていた用事だったのだと。一人で部屋に戻り、奈知の居ない間に仕掛けたのだ。レイアウトを考え、壁から始めて配線を天井にまで回したのだ。椅子を置き、その上に立って。零れ出そうになる素直な言葉を抑えて奈知は言った。

「メルヘン!」

 之哉は口を尖らせた。

「メルヘンの何が悪いんだよ!見ろよこの星空!綺麗だろぉ?最高だよな?配線してるときさ、あんま綺麗だからガンドムのフィギュアを一緒に飾ろうかと思ったくらいなんだぜ!星空を行くガンドム!かっこいいよな!」

「何言ってんのよ」

「え?だめか?じ、じゃあ、お前の好きなミラクル真梨花?でも、いいぞ……なんなら……」

「何言ってんだか」

 天井を見つめる奈知の目から涙が零れた。それを見て之哉は仰天し、言葉をなくしてしまった。

 その後、料理を食べたが、之哉は終始奈知の顔を上目遣いで見ていた。奈知は、そんな之哉を言葉も少なく見つめるばかりだった。


 奈知は之哉の横でテレビを見た。年末特番は二人とも好きな女性アナウンサーが音楽番組で笑顔を見せていた。それを楽しんでいるうち、奈知はいつの間にか睡魔に襲われた。

 どこかで見た気はするが思い出せない場所に奈知は立っていた。ふと気づくと、奈知の手を誰かが握りしめている。誰も居なかったはずの隣に、お下げ髪の少女が立っていた。少女はにこやかに微笑み、奈知を見上げていた。

「あなたは……誰?」

 尋ねた奈知に、少女は首を横に振った。

「ないしょ」

 笑っている。笑顔は人懐っこく、邪気は無い。握りしめた手は、どこか覚えのある柔らかさだった。

「大人になったらね」

「え?」

 話し出した少女と、手を取られた奈知は歩き始めていた。

「大人になったら、恋をするの」

 奈知は黙って聴いた。歩く傍らに咲くのは、奈知が好きな紫蘇の葉だ。

――いつだっけ……確かずっと前に……。

 記憶の底に積もってしまったシーンが蘇りかけた。それは、長い年月を掛けて眠りについたものの様に思えた。

「相手は私のことが大好きな人なの。私に、とっても優しいの。でもね、私はその人に負けないくらい、その人に優しくしたいの」

 拙い口調だが、真剣に言っているのは分かる。

「だから、その人といつか結婚をするんだ。きっとそうなの。そうするとね、赤ちゃんが出来るの。赤ちゃんは女の子で、とっても可愛いのよ」

 少女は空いている手で紫蘇の葉に触れている。少女の手が、いつの間にか大人の手に変わっていく。

「でもね、悲しいことが家族に起きることもあって、その子にも辛い思いをさせたりするかもね。それでも一緒に生きていくのよ。私には、きっと大きくなったあの子に何もして上げられない。けど、誰より想っているの。どうか幸せに。どうか幸せにって」

 奈知の頬を涙が伝うが、奈知は手を繋ぐ相手を見ない。見れば消えてしまいそうで見られない。

「幸せって言うけれど、それってなんなのかしらね?お金持ちになること――って言う人も居て良いわよね。でも大概の人は家族や自分が健康で、笑顔でずっと仲良く――って思うんじゃないかしら。それも本当に幸せよね。だけど思うの」

 手を繋いだ相手は、奈知のよく知る声で言った。

「健康もお金も何でも、何をもらうかより、大好きな人と見つけていくことの方が大事なんじゃないかしらって。うん、自分の――相手の――自分たちの幸せがなんなのかを、一緒にね、この人となら一緒に探したい――っていう、そんな人と生きていくのはとても素敵よ。なぜその人なのか――が分かることもね。相手だけじゃなく、探すのは自分。決めるのも自分」

 二人は立ち止まった。すぐ目の前に、大きな木が茂っている。

「ここでさよならなの」

「おかあさん……」

「あなたは私の子。私と、私の愛した人の間に生まれた私の幸せ。私の宝物。だから、私は自信を持っているのよ。あなたは間違えない。だって、知っているはずだから」

「おかあさん……おかあさん……おかあさん……」

「お父さんが亡くなって、寂しい思いをさせたわよね?でもあなたは強かった。苦しいこともあったでしょう?でも、とても強い子だったわ。だからおかあさん、安心して逝けたのよ」

 手が離れた。握り直そうとするが、母の手は空中の映像のように触れられなかった。

「おかあさん!」

「大丈夫……あなたは大丈夫……自分を信じなさい……あなたは、私の子なのだから」

 大木の幹に、母は吸い込まれて消えた。傍の紫蘇の葉が、風に乗って香ってくる。いつか少女の頃、母と植えた紫蘇だ。そこは少女時代を過ごした懐かしい庭だった。


 目を開けると星空が広がっていた。

「あ……部屋……」

 見回すと、隣に之哉がいた。之哉は、目を見開いている。

「お前……どっか具合悪いの?医者行くか?探せばどこか開いて――」

 奈知は之哉の胸に顔を埋めた。

「大丈夫……大丈夫だから……」

 母の言葉を思い出した。

――大丈夫だよ、おかあさん……。私は知ってるからね。ちゃんと、よく知ってるからね。

 テーブルを見ると食べ残した料理がある。キャンドルと星空が誰の為で無く、ただ二人の為だけに瞬いている。

――之哉が、私の為だけに作ってくれた場所……。欲しかった場所……。探してた場所……。

「なあ……」

 不安げに之哉は声を掛けた。奈知は心配する之哉を見上げて笑った。

「なにがいい?」

「え?なにがって……」

「だからぁ!イブの夜とクリスマスの夜と、その次とその次とその次と……何が食べたい?」

「そんなイッペンに思いつくか!」

 笑う奈知を見て之哉は奈知の額に手を当てた。

「大丈夫かよ、マジで……」


 イブの夜、食事を一緒にどうかと綿貫から誘われた奈知だったが、之哉が風呂に入っている間に丁重に断りを入れた。

 綿貫からは《今回の件は一切無かったこととして、今後とも仕事ではよろしく頼むぞ、班長!》と返ってきた。スマホを置き、奈知は呟いた。

「さすが、かっこいい!」

 鼻歌が聞こえてきた。重鋼戦闘士ガンドムのテーマ曲だ。

「おかあさん……私が欲しかったのはこの人。子供っぽく……ガキだけど、私はこの人と歩くの。ねえ、おかあさん――」

 之哉は背後で残り物を摘まんでいる。。

「おかあさんも見つけたのよね?欲しかった幸せ、見つけたのよね?」

「ビール飲む人、手を挙げて!」

 はい!と言って奈知は手を挙げ、笑顔を向けた。

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クリスマスイブイブチャーシュー 狭霧 @i_am_nobody

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