第40話 敗走
転送された勇者たちは、魔素の毒吐く死の森と畏怖されし場所に歩みを進めていた。
長杖を突いて、荒々しく乱れた呼吸をするアイシアの前には、既に半身が肥大化し、見るも無惨な姿に変貌した勇者が、ふらふらと途方もなく続く道を淡々と足を運んでいく。
だが、遂に長杖とともに倒れ込んだ。
緩慢に振り返った先、その光景は震えた両手を大地に突いて、歪に引き攣らせた表情を浮かべ、真っ赤な血反吐を吐く姿であった。
「……おい、だ」
牛歩の如く足取りで歩み寄ろうとした時、古びた小屋を視界の片隅に微かに捉え、徐に爪先を変える。
「一旦、あの小屋で体を休めよう。無理はしなくていい、自分で立てないなら、俺が……」
「大、丈夫……だから。自分で起きれるから、ちょっとだけ、ごめん。待ってて」
そう言い終えると、再び、辺り一体を鮮血に染めてゆき、血溜まりを作り出していた。
「ハァ……ハァ」
満身創痍の二人は何とか小屋に辿り着くが、一歩踏み込んだ途端、床が抜けるほどの囂々たる音を立てて、死んだように臥した。
「ごめん……なさい」
アイシアは頬からとめどなく涙が伝って、一言発する度に、血反吐が溢れ出していく。
「お前、まさか」
ゆっくりと屈んで、アイシアの袖を捲らんと掌を差し伸べるが、その手を弾き返した。
軽く乾いた音を響かせ、勇者は瞠目する。
それはアイシアの暴挙から来るものではなく、袖を翻して僅かに垣間見えた、焼き爛れた皮膚が、視界に映ったからに他ならない。
「いつからだ。いつから……まさかお前の体は、全て同じような姿になっているのか?」
「ううん。違うの、大丈夫だから。きっと、すぐ治るから、治してみせるから。…ね?」
自らの不甲斐なさを実感したかのような、苦悶と憤りに顔を歪め、下唇を噛み締めて、徐に天を仰ぐ。
「ッッ。フッーー」
脈々と乱れんとした呼吸を整え、一拍置いたところで冷徹な表情に戻していくとともに、勇者はアイシアの前に緩やかに跪く。
「此処らにはあらゆる病も治すとされる、ユニコーンの群れが生息している。少し此処を空けるが、心配するな。庇護魔法も施し、直ぐに戻ってくる。必ず、必ずだっ!!」
「……もういいの」
まるで死神と見つめ合っているかのような、次第に血色の悪くなっていく面差しに、目を背けるように逸らして、立ち上がった。
「いいや、駄目だ。お前には生きてもらなくては、困る。困るんだ」
「私は他の皆んなと違って役立たずだから、治したって、きっと意味なんて無いよ」
「お前は必ず助ける。俺が助けなくては、ならないんだ!」
まるで独りよがりな我儘を吐き散らかし、流れるように出口へと踵を廻らせた。
「それは貴方が勇者様だから?」
「あぁ、そうだ!!」
「私ね、昔は何でもできちゃう勇者様に憧れていたの。誰よりも勇敢で優しくて、皆んなの憧れの存在で、まるで神様みたいだったの。そんな勇者様が本当に誰よりも大好きだった。でも、貴方みたいに、怖くて、冷酷で、誰よりも悲しい人が勇者なんだって知った時は、凄く辛かったんだ。きっと、私なんかよりも大切な物をたくさん失ってきたんだって…。なのに、誰にも本当の自分を見てもらえなくて、ずっと辛かったんだよね」
「もういい」
「ずっと、どうすればいいのかわかんなくて、ただ言いたいことしか言えずにこんな風に、足手纏いのまま終わってしまってごめんなさい」
「喋るな……」
「あの子の、ウェストラの気持ちだって、本当はずっと分かってたのに、私みたいに託してくれた人たちの期待に応えたくて、必死に頑張ってたのに、私のせいで死んじゃった」
「黙れ!黙って眠っていろと言っている!」
「ごめんなさい。でも、最後に細やかな私の、私たちのお願いを聞いて欲しいの……」
「いいや、駄目だ。生きて…話せ。一言一句、その全てを脳裏に、記憶に刻もう」
そう言い、引き止めんと制止した彼女の言葉を最後まで聞く事なく、光に踏み出した。
決して、踵を返す事も振り返る事もなく。只管に直向きに前へと。ただ一人、駆け出していく。
暗がりに潜んだ案内人を置いていって。
「あーあ、人の話も聞かずに行っちゃいましたねぇ。最近の勇者様ってのは、配慮に欠いてますね。これが最期の言葉になるかもしれないってのに」
饒舌に語り出す。
「貴方は……?」
「案内人ですよ、ただの案内人」
フードから垣間見える、ほくそ笑む青年。
「それにしても奴隷上がりってのは、大変ですね」
「どうして……知ってるの?」
「まぁ、勇者様が戻ってくるまでずっと暇なんで、少し無駄話でもしましょうよ、東の奴隷解放者様」
勇者は幾重にも重なりし紫葉の刃を掻き分けて、不規則なる歩幅で、忙しなく歩みを進めていた。
そして、生い茂る木々の隙間から、遥かなる上空断崖絶壁に神秘な一つの生命が、天を仰いでいた。
神々しき黄金色を帯びた一本角を生やし、妖艶な鬣をふわりと靡かせ、静かに茂みに紛れていった。
「ハァ、ハァ」
全く進んでいない勇者であったが、疾うに体力は限界点を超え、大きく踏み出さんとする一歩は、岩石を引き摺るかの如く、激しい震えが襲っていた。
焼け焦げた半身からは紫紺に等しき鮮血を流し、次第にその足取りも牛歩さながらになっていく。
ユニコーンは煌々たる白光の足跡を残して、軽快に疾駆し、異様な姿をして殺意を放った勇者から、逃げるように遠ざかっていくばかりであった。
「……よせ、やめてくれ。頼む、頼むから……」
ただ懇願する。
たった一つの魔法陣さえも生み出せぬ、勇者は狩りの標的に対し、ただ祈ることしかできなかった。
そんな中、二人は言葉を交わしていた。
「これから貴方はどうするつもりです?まさか、勇者様と共に悠々自適なスローライフを送ろうなんてお考えじゃ、ありませんよね?」
「わ、私は……あの人には幸せになってほしい」
「へぇ、そうですか。……『あの人』ね。万が一、勇者様の、ヒスロア様のおかげで、助かったらその先は、どうするんです?」
「一緒に魔王城に行く。その先はまだ考えてない」
「そうですか。精鋭様、今、喉乾いてません?」
「ううん、大丈夫」
「とっておきの聖水があるんですよ。もしかしたらその体、運が良ければ治るかも知れませんよ?」
「ありがとう、でも必要ないよ」
「……そうですか、でも、別に貴方の意志を訊いたんじゃないんですよ」
目だけを案内人に向ける。
「何、言ってるの?」
案内人は徐に天を仰ぐ。
天井のシミかのような黒き影が、案内人の頭上に人の姿を帯びて、俄かに広がっていく。
「なーんてね、ただの冗談ですよ。いやぁ、ヒスロア様の帰りが待ち遠しいですね」
その嬉々とした一言を発すると、緩やかに黒き影は退いていく。
勇者は跪くように両膝を大地に突いて、俯いた。
「ずっと、兄のようになりたかった。勇者の姿に、多くの人々を、俺を救ってくれた勇者の理想を、築き上げてきた栄光を壊したくないんだ。もう、誰も死なせない、死なせたくない、死なせる訳にはいかないんだ……」
黒々とした見た目とは裏腹に、勇者の頬からは、清澄なる涙がとめどなく溢れ落ちてゆく。
心情を吐露すると、ユニコーンの嗎が響き渡る。
静寂。
そして、ふわりと勇者の前髪が靡いて、徐に顔を上げた先、無数の光が宙に浮かび上がっていた。
「……なんで」
自ら、勇者の前にその御身を悠然と現し、深々と首を垂れて、一本角を眼前に差し出した。
双方の視線はぶつかり合う。
稚児の駄々を癒やす母親のような慈愛に溢れた眼差しと、涙で頬を赤く染め上げ、掠れた声色の勇者。
「ありがとう」
そして、ユニコーンの一本角を花よりも蝶よりも丁重に削っていき、不可思議な巾着袋へと収めた。
勇者は仄かに頬を緩ませ、僅かに弾んだ足取りで帰路につき、大きく一歩を踏み出した。
「今、……は?」
途端、その笑みは消える。
アイシアは屈託のない満面の笑みを浮かべて、まるで深き眠りに落ちたかのように目を閉ざし、真っ赤に染まった一滴の雫が滴り落ちていく。
「あーあ。少し遅かったですね、もう死んじゃいましたよ」
泰然と手を拱く案内人に、焼け焦げた拳を握りしめ、刺すような視線と流れるように爪先を向ける。
「貴様ッッ!」
胸ぐらを鷲掴みにし、勢いよく壁に叩きつける。
気怠げな面差しに虚ろな瞳と、鬼気迫る形相を浮かべ、鋭利な刃さながらの眼差しがぶつかり合う。
「立場と役目を履き違えないでくださいよ。俺は案内人で、あんたが勇者でしょ?救えなかったのは、何かもあんた……いや、勇者のせいなんですから」
鋭く突いたその一言に、するりと手を解いて、その場に膝から崩れ落ちる。
「俺は……」
「さぁヒスロア様。行きましょうか、魔王城」
「は?」
「貴方は勇者なんですから……当然でしょう?」
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