第33話 魔素の荒野

「げほっ、げほ!」


 アイシアは口元を押さえ、酷く咳き込む。


「大丈夫か?」


 傍らにいたウェストラは憂慮に堪えきれず、いつになく不安げな念を漏らす。


「うん、ちょっと咽せちゃっただけだから。わ、私……先に戻ってるね」


「あぁ」


 そう言い、そそくさと逃げるように馬車に歩みを進めていくアイシアの背中を、物憂げな表情で鋭く注視していた。


 そして、流れるように兵士と言葉を交わす勇者に目を向ける。


「どうか……お願いします」


 終わらぬ闇夜に呑み込まれたかの如く、次第に深き底に沈んでいく姿を見兼ねた勇者は、そっと肩に手を添える。


「必ず、魔王を討ち滅ぼしてください」


「あぁ、約束しよう。だが、明日がある限り前を見て生き続けろ。お前の選択は……間違ってなどいないのだから」


「……。はい」


 覇気のない返事を最後に、兵士は延々と大地に目を向けたまま、勇者たちを見送った。


 その兵にあるのは懺悔か、あるいは──。


 揺らぐ馬車の末尾に身を寄せるウェストラは、緩慢に鞘から真っ赤な刃を払う様を目の当たりにし、徐に勇者たちに目を向ける。


 けれど……。


「次の幹部って、どれくらい強いの?」


 何処に目を向けようとも、変わらない。


「恐らく、今の俺を超えるだろう」


「そう……なんだ。はは、そっか」


 アイシアの掠れた異様な笑みに、白き巾着袋を大事そうに握った勇者。そして、雑草さえも生い茂る事のない荒野を駆けていく。


「余程、その身分証が大事な物のようだな」


「……。此処も昔は豊かな土地で、辺り一面に草花が芽吹いていたんだがな」


 そんな脈絡がない言葉とともに、巾着袋を潰さんと強く握りしめ、顔を顰めていった。


 ウェストラは切り立つ無数の岩山に、惰性さながらに目を泳がせ、ぼーっと天を仰ぐ。


「まだ朝だってのに、なんつー空模様だ」


 大空には鈍色に淀む黒雲が広がっているばかりで、鳥の一羽さえ羽撃いてなどいない。


 起伏の激しい道行きに馬車は酷く揺られ、アイシアは再び、咳き込み始めた。


「げほっ!げぼっ!!」


 それは以前より激しさを増して……。


「お前、何か持病は患っているか?」


「ううん、ずっと健康だよ。大丈夫、本当にただの咳だから」


「…効くか定かではないが、後で薬を調合しよう。いつまでも餓鬼の駄々を捏ねずに黙って飲めよ?」


「そんなに心配する必要ないから、ね!?」


「病人は黙ってろ」


「ったく、もう夜か?いや昼なのか?紛らわしい天気しやがって。いつまで走るつもりだ?勇者様よ」


「一旦、此処で身を休めよう」


 まだ数刻も経っていない中、一寸先さえも暗闇に覆い隠された先に、勇者は渋々、小さな岩山の影に馬車を止め、焚き火を囲った。


「今日は訓練しないの?」


「あの一夜で解った事だが、お前は俺たちの誰よりも伸び代のある存在だ。そう、急ぐな。ゆっくりと時間を掛けて、伸ばしていけばいい。取り敢えず、今はこの薬を飲め」


「う……。じゃあ、飲むから少しだけ、少しだけでいいから訓練させてください!!」


「駄目だ」


「お願いします」


「早く飲んで、寝ろ」


「お願いします!」


「ったく、少しだけだぞ」


「うん!」


 天真爛漫なアイシアの猛攻に根負けしたウェストラは、渋々勇者なる傀儡を生み出し、それぞれの武器を交差させた。


「伸び代か……至極当然な事を然も大それた理想のように平然と語るのが上手いな、お前は」


「あいつは馬鹿だが期待に応える奴だぞ。時間さえあれば、俺たちをも超えるやも知れん」


「確かにな。たった数日で傀儡と対等になるとは、本当に目覚ましい成長を遂げている」


「だが、成長段階の彼奴を精鋭と謳うのは、甚だ疑問だがな」


「東の大国も戦力を失いたくないのだろう」


「ハァ……、一体、どれだけの歴史を繰り返せば、上の連中は戦争の恐ろしさを学ぶんだ?」


「学んでいるさ、それ故に平和を保つ為、人々は武器を手にし、遍く人々の為と主張し、正義を宣う。其の正義を誇示した結果、民が死ぬんだがな」


「ハッ、皮肉なもんだな」


「あぁ、そうだな」


「ねぇ!どうして分身を使わないの!?」


 傀儡を大地に臥せた、アイシアは問う。


「俺は他の分身操作と違って、それぞれが意思を持って生まれてくる。下手に乱用すれば暴走する恐れもある上に、あれは凄く疲れるから絶対に嫌だね」


「じゃあ、もう一回この傀儡を作って!」


「いいや、もう終わりだ。さっさと薬飲んで、寝ろ」


「……はーい」


 満面の笑みを一瞬にして曇った表情に沈ませ、足を引き摺りながら、二人の元へと進んでいった。



 皆が寝静まった頃、ウェストラは音を忍ばせながら、徐に掌を天に差し向ける。


 燃ゆる蒼炎が独りでに動き出し、数人の大人が、一人の少年と仲睦まじく戯れていた。


 動く絵に魅入られたその瞳は、次第に潤沢に満たされてゆき、燃え盛った炎に、とめどなく清澄なる雫が滴り落ちていった。


 だが、悪夢に魘されていたアイシアに目を向け、浮かび上がっていた蒼炎をフッ、消す。


 そして、緩慢に立ち上がった。


 燃ゆる炎の火種が乾いた音を立てて、数千の煌々とした星の浮かぶ夜空に昇っていく。


 そんな焚き火を茫然と眺める勇者の元に、ウェストラがゆったりと歩み寄っていく。


 忽然と黒霧が立ち込め、案内人が行先を阻むが、両手を高々と上げながら、静かに立ち止まった。


「こちらに交戦の意志はない。ただの話し合いがしたいだけだよ」


 そして、緩やかに一瞥する。


「完全な複製体を作り出しても、この旅路から抜けるのは不可能なのか?」


 案内人は徐に親指で小突くように鍔を爪弾き、鋼色の刃を露わにする。


「そうか。そうだろうなとは、思っていたんだがな」


 緩やかに震わせるほどに握りしめた右拳を眼前にまで振り上げて、額を軽く小突いた。


「ハッ、俺ってほんと弱えなぁ」


 哀愁漂わせる一言とともに、徐に天を仰ぐ。


 夜空には延々とした闇が広がっているばかりで、周囲は耳煩い雑音が行き交っていた。


 そんな最中、一人の男が龍紛いの魔物と数十メートルの巨体をしたキメラを葬って、侮蔑を含んだ、汚濁に塗れて淀み切った眼差しで見下ろしていた。


「全く、この程度の魔物ごときで、世界最高峰の魔力量を持った、彼奴の器を満足させられるとでも?ハァ……四大国も随分と落魄れたものだな」


 黒きローブを羽織りし者が、ぶつくさと愚痴を吐き捨てながら、大地に臥した無数の魔物の亡骸を踏み躙って、歩みを進めていく。


 身体全身が獣のように肥大化して、醜く硬く黒黒と変色し、焼け焦げた姿をしていた。


 その姿は幹部さながらであった。

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